モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

津久見局と電報のあれこれ(その2)

2017年01月30日 | 寄稿
◆高野 明 ・年賀電報のこと 戦争が終わり5年経過、世の中の暮らしも徐々に落ち着き、社交的なことも旧に復してきた25年12月に年賀電報の取り扱いが再開された。しかし庶民にとっては、まだまだ金額的にたやすく利用するまでにはなっていなかった。 年賀電報の募集にあたっては、主として企業を訪問し、お願いをした。そんなとき保戸島※郵便局では連日まとまった年賀電報が取り扱われていた。遠洋漁業に出ている船舶 . . . 本文を読む

津久見局と電報のあれこれ(その1)

2017年01月14日 | 寄稿
◆高野 明 ・津久見局赴任 昭和22年2月、春にはまだ早く冷雨にけぶる港町、津久見郵便局に赴任した。買出し客、近隣市町村からの通勤者等で満ち溢れる国鉄の日豊線津久見駅のホームに降り立った。昇降階段をひしきめき押し合い改札口を出て駅前広場に立ち、目的方向を見定め、市街中心部目ざし、街の様子を見ながら歩く。珍しく新築中の2階建ての大きな木造建築の建物が目を引く。後でわかったが、終戦直後物資の少な . . . 本文を読む

モールス音響通信からインターネット通信へ

2016年12月26日 | 寄稿
◆米山 洋三 私は、今から67年前の昭和25年、東京電気通信学園(普通部電信科)に入学、モールス音響通信の訓練受け26年2月に卒業しました。卒業のときに開かれた通信競技会で、二人組音響通信の部で優勝したためか、配属先は東京中央電報局第1通信部・第2通信課でした。この課は、上野駅とか新宿駅などモールス音響通信の繁忙回線を受け持つセクションでした。    卒業直前の通信技能検定試験では、1分間の送受 . . . 本文を読む

往古茫々~年賀電報

2016年12月18日 | 寄稿
◆大原安治 また年賀状の季節になった。毎年のことながら、この時期になると少々うんざりするのは私だけだろうか。 ものの本によると年賀状は本来、1月2日、書き初めの日に書くべきものだった、とある。「年賀」とは新年を祝うという意味だから、新年になってから述べるのが正しい。そもそもは新年の祝詞を、君主や父母、師匠などのもとに出向いて述べていた。それがいつの間にか簡略化され、1月1日に相手方に届くよう . . . 本文を読む

原点回想

2016年12月05日 | 寄稿
◆永田 昭夫   私が逓信省の雇員となったのは、東京中央電信局に採用された昭和21年6月7日でした。 前年、志願して入学した陸軍少年飛行兵学校の生活は、敗戦により11カ月の訓練で終わってしまい、8月25日に世田谷のわが家に帰りました。今後の身の振り方を考えていたとき志願前まで働いていた工場の社長からその知人の経営する工場を紹介され、旋盤工見習いとして働くことになった。 しかし、その仕事を将 . . . 本文を読む

終戦前後の大分電報と私(その3)

2016年11月17日 | 寄稿
◆寄稿 高野 明 米軍初の大分進駐 終戦とともに街にはいろいろな流言飛語も飛びかい、大分駅では特別列車を仕立てて婦女子を庄内方面へ一時避難させた。丁度そんな時、米軍が初めて大分に進駐して来た。完全武装の米兵が激戦の証を物語るかのように、破れて外枠のみが残る軍旗を先頭に列隊を組み堂々と大分駅から電車通りを行進して来た。当時我々が入居していたトキハデパートの前まで来ると唯一残る大きな建物を意識して . . . 本文を読む

終戦前後の大分電報と私(その2)

2016年11月02日 | 寄稿
◆高野 明 ・空襲対策と電信課トキハ移転 米軍の宣伝ビラによれば「日本よい国桜の国4月5月は灰の国・・・・・」このような文句であったと思う。空襲は無差別というか大都市を焼土とした後は地方都市も攻撃目標とされるようになり、大分市も何時やられるか戦々恐々とした毎日であった。そのような背景の中で急遽トキハデパートへ移転することとなった。大分市内で鉄筋コンクリート造りの建物はトキハ、市役所、日銀、勧銀 . . . 本文を読む

終戦戦後の大分電報と私(その1)

2016年10月22日 | 寄稿
◆寄稿 高野 明 1.逓信講習所卒業から赴任まで 昭和20年3月戦局は日ごとに急迫、米機動部隊による戦艦機の空襲が激化するなか、あわただしくも悲壮なおもいで熊本逓信講習所(高等科)の卒業式は行われた。広瀬所長、松岡教官等の激励と慈愛あふれるお言葉をいただき、同窓生各人の武運を誓い合ってそれぞれの任地へ旅立って行った。 大分県南出身の私と岡崎、仲野君の3人は豊肥線経由で故郷に帰るため大分駅 . . . 本文を読む

七つボタンは遠かった

2016年10月12日 | 寄稿
七つボタンは遠かった ◆寄稿者 木寺昭二郎 昭和17年3月末、早朝、私は佐賀県の有田駅のホームにいました。そこには、同級生の池田君と原君もいました。それぞれの母親も一緒です。私達は小倉陸軍造兵廠の技能者養成所に入所するため汽車を待っていたのです。いわば、当時の集団就職です。 九州一円から、千名ぐらい入所することになっていました。そこは工業高校の機械科みたいなもので、研修期間は2年間です。午前中 . . . 本文を読む

思い出酒

2016年10月01日 | 寄稿
◆大原 安治 50年来の友人が数人いる。いわゆる「同じ釜の飯を食った仲間」だ。今はもう、消えてしまった職業「モールス通信」の技術を一緒に学んだ「大分逓信講習所」の同期生である。 今でも、年に何度か集まって酒を飲むが、この歳になると酒の肴はいつも回顧譚になる。作家の開高健氏が「男にとって、思い出ほど最高の酒のサカナはない」と言ったそうだが、まったくその通りだと思う。 酔いが回りだすと、まず出るの . . . 本文を読む

わがトンツー事始め

2016年09月12日 | 寄稿
◆ 寄稿 A.S   ①小学校低学年の昭和12、3年ごろ、当時住んでいた満州南端に位置する旅順市(帝政ロシアから「永久租借地」として日本が統治)で、時々母親に連れられ旅順新市街郵便局に行きました。振返ると、小生にとっては、この時見聞きしたことが“トンツー”を生業とした契機だったような気がします。 郵便局の公衆だまりからカウンター越しに、目にし耳にしたのは、電鍵を通して発する音響器の響き、目にもと . . . 本文を読む

タイタニック号の遭難とSOS

2016年06月30日 | 寄稿
◆寄稿 川口 寿男 タイタニック号といえばイギリスの豪華客船で、氷山と衝突して沈没、そのとき1,500人も亡くなった事件を想起する。不沈船といわれていた豪華船タイタニック号は、その処女航海で氷山に衝突するという不測の大惨事を起こし、以来、北大西洋の深い海に沈んだままである。その悲劇性と、大惨事の裏のミステリー性、それに、モールス信号でSOS救難信号を発信した船だったこともモールス通信士だった私 . . . 本文を読む

長崎逓信講習所記念碑建立と電報昔話

2016年06月21日 | 寄稿
◆寄稿 川口 寿男 今は、電報といえばお祝いや、お悔やみの電報を思い浮かべられるであろう。 しかし、私が長崎電報局でモールス通信の仕事に就いた昭和25年ごろは、「ハハキトク」や「チチシス」というような家庭からの電報もまだ多かったが、発信電報の内容としては、急を要する商品発注、商品発送、あるいは送金などの商業用電報が9割を占めていた。その後、電話が普及してくると、商業電報の比重は低くなり、現在は . . . 本文を読む

電信の思い出・李香蘭とモールス(その5)

2016年06月09日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道 李香蘭とモールス 平成2年11月、劇団四季(横浜市緑区)の音響部の小泉雅裕と名乗る人から電話があって、ミュージカルに使うモールスの作成について協力を求められた。 聞けば、当時製作中のミュージカル「李香蘭」の中で、大東亜戦争勃発の場面に「ニイタカヤマノボレ」と「トラトラトラ」のモールス符号が流れるが、演出家の浅利慶太は忠実に史実をモットーにしていて、「お客さんの中にモールス . . . 本文を読む

電信の思い出・東京中央電報局(2)(その4)

2016年05月25日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道 東京央電報局(2) 昭和32年(1957)、業務部監査課長に任命され、東京中電で2回目の勤務をした。 東京中電は職員数2,000名を擁する日本最大の電報局で、局・次長の下に7部と庶務、会計等の6つの直轄課があった。業務部は、電報業務運行に関する企画管理部門で、監査、訓練等4課が置かれていた。 私が勤務した監査課の主な仕事は、電報の品質管理、つまり電報の誤字や不達の事故を . . . 本文を読む