モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

七つボタンは遠かった

2016年10月12日 | 寄稿
七つボタンは遠かった
◆寄稿者 木寺昭二郎

昭和17年3月末、早朝、私は佐賀県の有田駅のホームにいました。そこには、同級生の池田君と原君もいました。それぞれの母親も一緒です。私達は小倉陸軍造兵廠の技能者養成所に入所するため汽車を待っていたのです。いわば、当時の集団就職です。

九州一円から、千名ぐらい入所することになっていました。そこは工業高校の機械科みたいなもので、研修期間は2年間です。午前中は学科、午後は作業機械等の実技です。身分は軍属、給料もいただきます。中学に進学できない貧乏家庭の出身者が多かったことは、逓信講習所と同じようなものでしょうか。

3人は大の仲良しでした。それで卒業したら同じところに就職しようということで、小倉行きを選んだのでした。2年生の夏休みから帰ったある日突然、池田君が「俺は予科練に行く」と言うんです。原君も「俺も行く」と言い出したのです。私は何か仲間はずれになったようで黙って聞いていました。心は半ば揺れていましたが、私にはどうしても踏み切れないわだかまりがあったのです。

夏休みの一日、天神様の庭に、同一地区の卒業生ばかり、10人位集まりました。少年兵に志願して行った黒川君と空閑君も見違えるほどきりっとしていました。中学から甲種予科練に行った島田君はひときわ輝いていました。私達3人も一応制服でしたが、カーキ色の菜っ葉服です。所詮、帝国軍人と職工徒弟です。比すべくもありません。そこまでは我慢できます。しかし女友達がそちらにばかり目をやっていたのはさびしい限りでした。顔立ちも良く、学校時代もてもてだった原君、池田君にとっては、さびしさを通り越して、耐えられない悲し味だったかも知れません。原君と池田君が「予科練」を決意したのは、その時だったのではないかと思う。他愛ないといえば他愛ないが、人間なんてみんなそんなものです。私も同じ思いでした。しかし私には、もう一つ別の理由があったのです。今でも恥ずかしくて余り語りたくありません。男として面目ないからです。

島田君は私の家と隣組でした。彼の家もそれ程裕福ではありませんでしたが、中学校に進学しました。中学から行けば甲種予科練です。私が行けば高小卒ですから、乙種予科練です。どこかで顔を合わすと、私は不動の姿勢で敬礼をしなければなりません。格好悪さにはなんとか耐えられても、島田君に対する敬礼には耐えられません。いかに国家の危急存亡の時でも、それとこれとは別です。私は今にして思えば、なんと卑劣な度量の無い人間だったかとしみじみ思います。今でも私はそれを引きずって生きてるような気がします。

中学から行った島田君は、それから間もなく亡くなりました。同窓会名簿には「故島田照男(戦死)」となっています。飛行練習中の事故と聞いていますが、詳しくは誰も知りません。

原君と池田君は、予科練に行くべく準備をしていました。その頃から私との間は少し疎遠になってきました。しかし2人は遂にあの格好いいあこがれの七つボタンに届きませんでした。試験に落ちたわけではありません。その前に2人は病に倒れたのです。その頃、不治の病と言われた肺結核です。特効薬が無い時代ですから、2人とも家に帰ることなく他界しました。

戦争が終りました。私は当然解雇となり、故郷に帰りました。有田町の隣の曲川村です。原君の家はその通り道にあり、豆腐屋さんでした。私はそこを横目で見ながら、通り過ぎようとすると、お母さんがお出になって「昭二郎しゃんじゃなかね」と声を掛けられました。私は「はい」と答えるしかありません。喉がつまって声が出ないのです。家に帰ったら母にこっぴどく叱られました。「なぜ、仏壇にお参りしてこなかったのか」と。たしかにそうだと思ったのですが、そのままにしました。

故郷に帰ってしばらくぶらぶらしていたら、親父が早く仕事に就けと言います。私はどこでもいいから、とにかく事務員になりたかったのです。考えられるのは、役場か郵便局しかありません。兄は復員後、福岡中央電信局に勤務していたし、妹は長崎逓信講習所に在学中でした。ということで結局郵便局にしました。郵便局に行ったら、局長代理さんが出てきて、「事務は無かばい。配達でよかなら今日からでもよかたい」と言われた。「よかです」ということで、その日に臨時集配員を命ぜられました。20年10月22日です。

私の担当配達区域は3区でした。3区には池田君の生家があるんです。池田君ちのお母さんと弟妹は良く知っていました。家業はお百姓さんです。配達途中で顔を合わせると、決まって「昭二郎しゃんは良かったね。元気で帰って来て」とおっしゃるのです。そして目を細めて寂しそうな顔をされるんです。弟妹は母の顔と私の顔をじっと見比べています。私は「はい」と答えるしかないのです。

私は昭和25年、肺結核で療養を命ぜられ、福岡逓信病院の結核病棟の人となりました。しかしパス、ヒドラジットの薬効かどうか分りませんが、死にませんでした。今も時々酒にまみれて、下車駅を忘れるなどして生きています。

私は戦争賛美者ではありませんが、原田君も池田君もどうせ死ぬんなら、凛々しい七つボタンを着て、大日本帝国のために、さっそうと戦死して欲しかった。こんなことを思うのは死者に対して不謹慎でしょうか。

◆寄稿者紹介など
・出典 九州逓友同窓会誌「相親」2002年4・5月号
・寄稿者 木寺昭二郎 福岡県
 長崎逓信講習所普通電信科 昭22年卒
 昭和2年生れ 平成28年逝去・享年88歳
・本寄稿は、福岡でお元気に暮らしておられる木寺夫人に電話をし、寄稿としてブログ掲載を承諾いただきました。厚くお礼申し上げます。私にとって木寺氏は、福岡勤務時代(昭32当時)お会いして以来、尊敬してきた先輩でした。お元気なうちに一度お目にかかりたいと願いながら、とうとう果たせなかった。合掌。


コメントを投稿