音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

ブログなるものを始めました~通し狂言「神霊矢口渡」

2015-11-25 01:24:59 | 日本の音楽
最初に何をどう書きだすか思案したのですが、今更「徒然なるままに…」でもあるまいし、ブログを書くことにした訳を述べても他人様には興味のない事でしょう。そこで、本日観てきた歌舞伎の感想をもって始めることします。

今日は国立劇場で通し狂言「神霊矢口渡」を観てきました。歌舞伎に足しげく通うようになったのは 退職後自由な時間ができたここ1年のことなのですが、はまりそうです。

子供の時から西洋音楽に親しんできた私にとって今日の舞台で感動した場面が二つありました。

一つは中村吉右衛門が演ずる由良兵庫之助が主君 新田義興(義貞の子)の子・徳寿丸の身代わりに我が子の首をはねて追っ手にその首を差し出した後、お家再興のため苦しみに耐える笑いです。亡骸を抱く妻・湊を横に、息子は忠義に満足しているぞと言って「わっ、はっ、はっ、…」と豪快に始まるもののだんだん声質・リズム・テンポ・表情が変わってゆき、最後は笑ったまま悲しみのどん底に落ちてゆく場面。ここは背筋がゾクッとするほどのすごみがありました。さすが吉右衛門です。こういう場面こそ役者の力量が問われるのですが、見事というほかありません。もちろんここは伴奏は無音です。こんな場面につける音楽なんてありえない。静寂の中でしか表現できない長い緊張感のある笑い、否、最後は笑いながら泣いていました。

歌舞伎は大衆芸能として広まったものなので、話の本筋は古いイタリア・オペラのごとく単純なものが多々あります。ただ、各幕ごとに様々な仕掛けがあり、出し物として独立して使えるようになっていることろに特徴があります。今日の大詰(終幕)「頓兵衛住家の場」前半は、新田義興を殺した極悪非道の賞金稼ぎ頓兵衛が二匹目のドジョウを狙って義興の弟・義岑(よしみね)を殺害しようとするが、身代わりになった彼に恋する自分の娘・お舟を刃にかけてしまう。しかも瀕死の娘 お舟 を助けるどころか、獲物を逃がしたといって殴る蹴るの暴行を加えた挙句放置したまま義岑を追って行ってしまうのです。
一人になったお舟は瀕死の傷を負いながらも義岑確保の偽の合図、太鼓をたたこうとする。そこにやってきたのが下男の六蔵。お舟に思いを寄せるも手柄を立てたいがために太鼓を打たせまいともみあいになる。このもみあいが見せ所。最後はお舟が六蔵を刺して太鼓を叩き、義岑を追っ手から解放して息絶える。
この「頓兵衛住家の場は80分にも及ぶ長丁場なのですが、お舟役の中村芝雀は出ずっぱりで場を引っ張っていました。恋するうぶな乙女と、逃げる義岑を必死に守ろうとするひたむきな女の二つの姿を一つの場の中で見事に演じ分けていたのが印象的でした。途中苦しみながら海老反り(イナバウアーのイメージです)なる場面があるのですが、これが色っぽいこと。苦しみと喜び(恋)の二面性を持つからでしょう。お見事でした。
おもしろいことに、この場面、伴奏の三味線は都節(短調)ではなく終始明るい民謡音階で、凄惨な場面と対照的な雰囲気を作り出していました。舞台の状況と正反対の音楽を流すことによって緊張感を高める手法は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)の殺傷場面でも使われており、歌舞伎の世界では常套手段なのかもしれません。
そこで思い出すのがアルバン・ベルクの「ヴォツェック」の最後。母親マリーも死んでしまったのに、何も知らない息子は三輪車に乗って一人で遊んでいる。この場面、バックコーラスによって歌われるのは明るいわらべ歌だった。
表現技法というのは洋の東西を問わない共通性があるのです。でもあの笑いはオペラでは表現できないなぁ。




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