鏡の国のアリス:短評

鏡の国のアリスの本を読みながら短評をする

架空世界「鏡の国」と現実世界:『鏡の国のアリス』小論(1)

2008-12-25 22:12:38 | Weblog

1 はじめに 

 私たちが生きる現実世界がどのようなものかを私たちは知っていると当然思う。しかし実際にはそれは謎に満ちている。その謎を解く方法のひとつはおそらく現実世界を架空世界とを対照させることである。ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の中で架空世界「不思議の国」と「鏡の国」を描く。それらは現実世界の反映であるが同時にそれと異なる特性を持つ非現実世界である。この小論では一方で二つの架空世界のうち「鏡の国」の構造を明らかにしつつ、他方でそれと対照される現実世界のふだん意識されない諸特性を明らかするつもりである。

 2 夢と現実は別のものであるが同一の意識に属する:アリスは夢の中でも現実でもアリスだが夢の世界の赤の女王は現実世界では子猫となるという問題 

  鏡の国は霧のようになった鏡を通り抜けてアリスが入った非現実世界であり彼女がみた夢の世界である。それはチェスの赤の女王の国である。そこには白の女王もいるがあまり力がない。鏡の国からアリスが現実世界に戻るときの状況は次のようである。アリスは赤の女王のひどいいたずらに激怒している。その時アリスは夢から覚めつつあったが、その事態に対応して赤の女王が小さくなってしまう。小さくなった赤の女王をアリスがつまんで思いきり前後に振る。赤の女王は無抵抗。アリスは振り続ける。やがて赤の女王は黒い子猫に変わってしまう。赤の女王の国は失われ、子猫が住む現実世界にアリスは戻る。夢の世界から現実に戻る。この場合アリスは夢の中でも現実でもアリスである。ところが夢の世界の赤の女王は現実世界では子猫となる。この違いは何を意味するのか。「あんなに素敵な夢の世界から私を引き離し目覚めさせたのはお前よ」とアリスが子猫を非難するが、この非難の意味は何か。アリスは勝手に夢から覚めたので子猫が目覚めさせたわけではない。しかし赤の女王が子猫に変化したのを見てアリスは夢の世界が現実の世界と別にあることを知る。現実の世界の子猫がアリスが赤の女王とともにいた夢の世界の存在を告げるのである。子猫の場合と違ってアリスは夢の中でも現実でもアリスである。これは何を意味するのか?両世界でアリスがアリスであり続けるのは、意識が同一で両世界にわたって連続するためだと考えることができよう。その同一の意識が異なる世界に区分されていることが、夢の世界の赤の女王が現実世界で子猫となることによって、告げ知らされる。私たちにとってあまりに当然のことだが現実世界と夢世界は別のものであるが、同時にそれらが同一の意識に属することが、ここであらためて確認される。

イラスト: 赤の女王をゆすって……

 3 現実は夢に優越するのか、現実と夢は対等であるのか? 

 アリスが黒い子猫のキティに話しかける。「夢の中で聞いた詩は全部お魚の詩だった。お前が私と一緒に鏡の国にいたらお前が喜んだはず。明日の朝は現実のお魚を上げるわ!」と。鏡の国にいたのは赤の女王であって子猫ではない。赤の女王は魚を好きなわけではない。だから彼女がお魚の詩を喜ぶこともない。夢と現実は断絶している。ところが夢から覚めるとき赤の女王が黒い子猫に変形するのをアリスが目撃した。夢と現実は連続しているとアリスは思う。(つまり両者は同一の意識に属する。)要するに夢と現実は連続していて断絶している。つまり夢と現実とは一つの家の異なる二つの部屋のようなものである。 しかも①アリスは現実を重視し、現実の部屋の子猫が夢の部屋で女王の着ぐるみを着て女王を演じる(=魚を好きなわけではない)と考える。ただ着ぐるみを着ているのは子猫だから、女王はお魚の詩を喜ぶはずとアリスは現実の世界の子猫に話しかける。 これに対し②現実を重視しない見方もある。夢と現実は連続しているが、現実の部屋で子猫の着ぐるみを着る或る者が夢の部屋では女王の着ぐるみを着るのである。この見方では子猫と女王は対等であり、女王の着ぐるみを着る或る者は女王を演じ、子猫の着ぐるみを着る或る者は子猫を演じる。つまり現実と夢が対等であり、子猫の属性(=魚が好き)が女王の属性(=魚を好きなわけではない)と重なることはあり得ない。女王がお魚の詩を喜ぶはずだとアリスが推定することはありえない。 夢と現実が同一の意識に属するとしても現実が夢に優越する(①)か、現実と夢が対等である(②)かは未定である。

イラスト: 結局ホントに子ネコでした

4 鏡の国の構造:赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する 

 鏡の国にいる双子トイードルディーが「赤の王様は夢を今、見ている」と言う。そしてアリスに聞く。「彼は何の夢を見ていると思う?」と。「誰もそんなこと、わからないわよ」とアリスが答える。ところがトイードルディーは「君についての夢だよ!」と叫び、勝ち誇ったように手をたたく。現実の世界でならアリスの答えが正しい。しかし鏡の国ではトイードルディーの答えが正しい。どうしてか?鏡の国は現実世界と異なる固有の構造を持つからである。これについて以下、見ていこう。 トイードルディーが不思議な質問をアリスにする。「赤の王様が君ついての夢を見ることをやめたら、君はどこにいることになると思う?」と。これは実は鏡の国の構造にかかわる質問である。しかしそんなことをアリスは考えたりしないから当然にも「私が今いるところに決まってるでしょ!」と答える。日常的現実の世界ではアリスの答以外にありえない。 ところが「君は今いるところからいなくなるんだよ!」とトイードルディーが軽蔑して言う。「君はどこにもいなくなる。君は、赤の王様の夢の中の一事物にすぎないんだから 」と続ける。さらにトイードルダムが付け加える。「そこにいる赤の王様が目覚めて夢が終わったら君は消えてしまうんだ、パッと、蝋燭みたいに!」と。 なんと不思議な言明だろう。実は鏡の国は赤の王様の夢としてしか存在しないのである。これが鏡の国の構造である。赤の王様は鏡の国の全体を自身の夢として所有する。赤の王が眠りから覚めると、赤の王の夢の世界が同時に現実世界だから、鏡の国の一切が消える。赤の王が寝ている限りで鏡の国は存在可能である。 鏡の国は赤の王様の夢としてしか存在しないという構造にアリスが反抗する。「私が消えるはずないわ!」と怒って彼女が叫ぶ。「それに私が赤の王様の夢の中の一事物にすぎないとしたら、あなたたちは何なの、知りたいわ」と彼女が続ける。「右に同じさ Ditto 」とトイードルダム。「右に同じ、右に同じ! Ditto, ditto! 」とトイードルディー。ところがトイードルディーがあまり大きな声で叫ぶので、アリスはつい言ってしまう。「静かに!そんなに大声をあげたら、赤の王様を起してしまう」と。アリスは自分が赤の王様の夢の一部かもしれないと心配し始めたのである。 日常の現実では夢が同時に現実であることはない。ところが鏡の国では夢が同時に現実であるという。これはひとつの思考実験である。

イラスト: 夢見る赤の王さま

5 鏡の国はアリスの夢か?赤の王の夢か? 

 アリスが黒い子猫に尋ねる。「夢を見ていたのはいったい誰だったのかしら?」と。「私の夢かしら?」それとも「私の夢の中の赤の王が見た夢かしら?」とアリスは迷う。なぜなら「私が赤の王の夢の中にいたのも本当なのだから」とアリス。 ①アリスの現実世界からすれば“夢を見ていたのはアリスである”。アリスの現実世界には赤の王がいないから夢見ていたのが赤の王であることはない。 ②しかし鏡の国の現実からすると“夢見ていたのは赤の王であって”アリスではない。寝ていて夢見ているのは赤の王でアリスは起きている。赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する、これが鏡の国の構造である。要するにアリスの現実世界からすると鏡の国はアリスの夢であるが、その鏡の国は赤の王が寝て夢見ている限り存在するという構造を持つのである。

 6 鏡の国では現実と夢が同一の世界として完結する 

 ここで鏡の国の構造についてもう少し分析しよう。鏡の国では、赤の王様が鏡の国の全体を自身の夢として所有する。さてここで現実の中にいる者が、同時に彼が見ている夢の中に存在するとはどういうことか? すでに述べたように、これは一つの思考実験である。今、鏡の国の現実の中にいる赤の王を人Aとし、赤の王の夢の世界の中にいる赤の王を人aと表記しよう。鏡の国では現実の人Aが見た夢の世界が同時に再び現実である。鏡の国の現実は人Aを介して夢の国となり、この夢の国の中にいる人aが現実の人Aと同一である。つまり鏡の国では現実と夢が同一の世界として完結する。現実と夢が連続する。鏡の国の現実の赤の王が見ている夢の世界が、鏡の国の現実と連続する。もう少し詳しく見てみよう。現実の人Aと夢の世界の人aが同一とはどういうことか?それは現実の中の人Aの身体と彼が見た夢の世界における人aの身体が同一ということである。赤の王の身体(それは人Aの身体であるとともに人aの身体である)こそが現実と夢との結節点、現実と夢とを連続させる装置である。 PS:『鏡の国のアリス』の別の章では赤の王が起きて様々に活躍しているから、この議論は4章、10-12章のみに限る。

7 名前を持たない現実:名前がないと①代名詞しか使えない、つまり②直接の出会いの時しかコミュニケーションできない 

 鏡の国には「事物に名前がない森」という不思議な場所がある。ここにアリスはたどり着き森の中に入ろうとして言う。「さあ入るわ、入るわ、エーと何のなかに入るんだっけ?」と。彼女は名前を思い出せない。また木の下でアリスが言う。「エーとここは何の下だっけ?わからないけど、ともかくこれの下!」と。彼女は名前がわからず、木について「これ」と言うのみである。 さてこの場合、名前がないとはどういうことを意味するのか考えてみよう。名前がなくても①これ、あれ、それなどの代名詞は使える。これは言い換えれば②二人の人間が共通の環境の中にいれば、つまり彼らが直接出会っていれば、かれらはコミュニケーション可能だということである。彼らは“これは面白い”・“それはかわいい”・“あれは美しい”などと言うことできる。つまり共通の環境の中の事物を“これ”・“それ”・“あれ”などと指し示し、それについて述語を与えることができる。したがって彼らはコミュニケーション可能である。 では事物に名前がなく、①これ、あれ、それなどの代名詞しか使えず、しかも②二人の人間が共通の環境の中にいなかったら、彼らはコミュニケーションできるだろうか。“今、私は森の中にいます。私は木の下にいます。”と手紙に書きたいのに森・木という名前がなかったら何と書いたらよいのか。“今、私はそれの中にいます。私はこれの下にいます。”と書いても相手には何の中にいるのか、何の下にいるのかわからない。 要するに事物に名前がないときは、①これ、あれ、それなどの代名詞が使えたとしても、②二人の人間が共通の環境の中にいない限りつまり彼らが直接出会っていない限り、コミュニケーションできない。逆に言えば事物に名前がなくても直接の出会いがあればコミュニケーション可能である。コミュニケーションの基礎は直接の出会いにある。そして共通の環境にいないときコミュニケーションを可能にするために事物に名前がつけられたのである。

8 無規定な主語に規定=述語を与えるものが“名前”

 直接の出会いでないとき、つまり共通の環境にいないとき、コミュニケーションを可能にするため、事物に名前がつけられたと前節では述べた。ここでは名前の欠如は主語の欠如として語られている。しかし名前にはもうひとつの機能がある。名前は無規定な主語に規定=述語を与えるものである。この場合、名前の欠如は述語=規定の欠如である。これについて、以下、見てみよう。 「事物に名前がない森」にいるアリスのところにそのとき小鹿がやってくる。小鹿はアリスをこわがらない。アリスも小鹿に抱きつきなでる。小鹿がたずねる。「君は自分のことを何て呼ぶの?」と。名前を聞かれてアリスは「私だって名前を知りたいのに」と思い悲しそうに答える。「なんでもないものなの Nothing 」と。今度はアリスが尋ねる。「君は自分を何て呼ぶの?それがわかれば私も名前を思い出せるはず!」と。小鹿は「ここでは思い出せないよ。ここをでたら教えてあげる」と答える。二人は親しく森の中を歩く。 森を出ると小鹿は突然「僕は小鹿だ!」と名前を思い出す。続いて「君は人間の子供だ!」とアリスが何者かわかり怯えて逃げ去る。アリスは仲良くしていた友達を突然失い泣きたくなる。「でも私も名前を思い出した。アリスだわ。よかった。もう忘れない!」と言う。 さてこの場面から著者キャロルが“名前がない”事態をいかなるものと考えていたか考察しよう。ここでは名前がないことは主語の欠如ではない。主語は与えられている。一方にこの自分、他方にこの小鹿。ただし、ここでお互いにわかっているのはそれぞれが相互に対等で、同じように心つまり主観を持ち、コミュニケーション可能な主体だということだけである。この主語についてそれ以上の規定つまり述語はない。これが“名前がない”という事態である。だからアリスは名前を失った自分について「なんでもないものなの Nothing 」と説明したのである。“名前がない”という事態はここでは述語=規定の欠如である。 無規定な主語に対し、規定つまり述語を与えるものが“名前”である。事物に名前がない森から抜け出したとき、各々の主体は「小鹿」・「人間の子供」という名前を思い出し自分・相手に対し規定を与える。「小鹿」という名前には人間に危害を加えられるという規定が含まれ、「人間の子供」という名前には小鹿に危害を加えるという規定が含まれる。小鹿は驚いて逃げアリスはそれを認めるしかない。 しかしアリス自身に関して言えば彼女は「名前がわかってよかったわ。アリス、アリス、もう二度と忘れないわ!」と言う。アリスという名前が思い出されたことによってこれに含まれる一切の規定が回復された。無規定な主観一般としての主体から、規定された個別的な主観を持つ主体としてのアリスに今や戻ったのである。「なんでもないもの Nothing 」だったアリスが、彼女を彼女とする本来の一切の規定を持つ個別的、具体的なアリスになったのである。(続く)(2008/12/23)

イラスト: 子鹿とアリス


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