「安全性」と「基地問題」を混同しているオスプレイ沖縄配備への反対運動
10月1日、オスプレイの沖縄配備がいよいよスタートした。地元では反対運動が激化しているが、
米軍は粛々と計画通りの運用を10月中旬より開始する予定で、日本政府もそれを認めている。
今後も反対運動は続くだろうが、彼らの要求は無視されるだろう。
ということで、反対派と賛成派の遺恨試合は、これからも続く。
反対派は「沖縄を踏みにじる日米両政府」を非難するだろうし、
オスプレイ容認派は「反対派は日本の安全保障を分かっていない」と批判する。
どうも議論がかみ合わない印象だ。
オスプレイ配備の是非をめぐる言説は、今年7月の大騒動の頃に出尽くした感があるが、あれから3カ月が経過し、
改めて振り返ってみると、議論が進まない理由がいくつか見えてきた。
要するに、下記の3つの論点がごちゃ混ぜになっているのだ。これらは本来、まったく質の異なる問題である。
(1)オスプレイは欠陥機か否か?
(2)在沖縄米軍基地をどうすべきか?
(3)日本政府の対応に問題はないか?
論理に正当性がないネガティブキャンペン
まず1つめの論点は、「オスプレイは欠陥機か否か?」だが、本来、今回のオスプレイ配備問題は、
これに尽きる。そもそも巷間言われているような欠陥機であれば、
そんな危険なものが日本国民の頭上を飛び回っていいはずはない。
住民の反対は当然なことで、そんな暴挙に出る米軍も、それを許した日本政府も到底許されない。
しかし、結論としては、上記のような話にはならない。
オスプレイには構造上の欠陥はなく、他の米軍機に比べて、特に危険ではないからである。
すでに広く報道されている通り、
沖縄に配備されるMV-22オスプレイの飛行10万時間あたりの重大事故率は、
他の海兵隊の航空機の平均値よりも低い。
といっても、それほど突出して低いわけでもないので、要するに“普通”ということになる。
姉妹機の空軍特殊作戦用CV-22オスプレイ機は事故率が非常に高いが、
これはそれだけ過酷な運用をしているのが原因である。
例えば、自動車でも乗用車とF-1マシンの事故率を比べても意味がないように、航空機の事故率を、
その運用事情を無視して比較してもしかたがない。
また、すべての航空機は通常、開発・試作段階から配備初期に事故が起こりやすく、
2012年4月のモロッコでの墜落事故、
および6月のフロリダでの墜落事故(こちらは特殊作戦用CV-22)の原因究明調査を踏まえ検証した結果、
「機体の安全性には特段の問題はなく、
MV-22オスプレイが他の航空機と比べて特に危険と考える根拠は見出し得ない」と結論付けられた。
上記のモロッコとフロリダでの相次いだ墜落事故が、オスプレイ危険説のいちばんの論拠だったが、
米当局の調査結果では、いずれも人為的な操作ミスであり、機体の欠陥が原因ではなかったとされた。
十分に根拠のある内容であり、反対派がこれを“論理的”に否定することは不可能であろう。
そうなると、反対派としては、「日本政府も米軍も、事実を隠蔽しているに違いない」との陰謀論に頼るしかなくなるが、
少なくとも米軍当局が、米兵の生命の安全に直結する問題でそのような隠蔽工作をしたら、大変な大スキャンダルである。
仮にそんなことをしたとしても、到底隠せるはずがない。要するに、陰謀論は荒唐無稽な妄想なのだ。
反対派からはこの他にも「大量の事故機を隠している」「欠陥機であることを現場兵士は承知しているが、
米軍上層部が口止めしている」「軍産複合体がウラで暗躍している」といったトンデモ陰謀論がいくつも出ているが、
いずれも根拠のまったくない空想の話にすぎない。
もう少しまともな反対論としては、「たとえ機体の欠陥でなくとも、
人為的な操作ミスが頻発するような操作性の悪い機は、安全とは言えない」との指摘がある。
確かにそのとおりだ。しかし、オスプレイはたまたま2件の操作ミス事故が続いただけで、
決して他の航空機より事故が多いわけではないことは、数字が証明している。
このように、反対派は一所懸命にオスプレイの安全性に対するマイナス要素を探し出し、
それを基にネガティブキャンペーンを仕掛けるが、そのことごとくが論理の正当性を逸脱しており、
破綻している。
最終的には、「それでもオスプレイは絶対に落ちないとは言い切れない」といった言い方がされるが、
そもそもすべての航空機は100%の安全性など担保できない。
問題なのは、あくまで安全性を阻害する機体の欠陥の有無であり、結局のところ、
オスプレイは他の海兵隊の航空機より危険とは言えないのだ。
基地反対運動の攻撃材料に
しかし、それでもオスプレイが危険だと信じている国民は少なくない。
反対派に同調するマスメディアが、大々的にネガティブキャンペーンを続けているからである。
ここで留意すべきは、オスプレイ反対論の中心にいるのは、基地反対派であるということだ。
彼らは、オスプレイだから反対しているのではなく、沖縄の米軍そのものに反対している。
彼らは基地反対運動のための攻撃材料を常に探しているが、そこにオスプレイが現れた。
そこで、オスプレイは危険だとのキャンペーンを仕掛けたのである。
これは宣伝戦・心理戦としては大成功で、普段は基地問題に無関心な人々も、
危険な欠陥機が日本の上空を飛び回るなどという話には過敏に反応する。
テレビで「危険な米軍機がやって来る」などという話を聞けば、誰だって不安を覚える。
お断りしておくが、筆者自身は沖縄の海兵隊に関しては、「大幅に縮小すべし」と考えている。
在沖縄米軍の存在は抑止力として認めるものの、現在の規模は日本に必要な抑止力のレベルを超えており、
沖縄が過大な負担を強いられていると思っているからだ。
その意味で、筆者はむしろ基地反対派の側に軸足を置く立場だが、それでもオスプレイ反対の論拠は邪道だと思う。
基地反対の議論と、危険な機体ではないかという議論はまったく別のもので、そこを故意に混同すべきではない。
いくら宣伝戦で成功したといっても、アンフェアな仕掛けは、正当な議論のためにはマイナスではないかと考える。
「安全保障のためにオスプレイが必要」という反論は有効か?
「オスプレイは危険か否か?」という、すでに真相が明らかな論点を巡る宣伝戦にかまけている間に、
本来、議論すべき問題が影に隠れてしまっていることを指摘したい。普天間飛行場の移設問題だ。
オスプレイが特に危険な航空機ではないとしても、普天間飛行場の環境そのものが極めて危険だということは間違いない。
したがって、普天間飛行場の移設問題こそ、早急に取り組むべき問題である。
筆者自身の考えは、嘉手納統合がベターというものだが、これにはさまざまな考えや立場の人がいるので、
ここではこれ以上言及しない。ただ、「普天間の危険性」と「オスプレイの危険性」は、関連はするが別個のイシューであり、
これを故意に混同すべきではない。オスプレイが配備されなくとも、既存のヘリだけで普天間は十分に危険なのである。
他方、オスプレイ賛成派・容認派の側には、オスプレイが必要な理由について、安全保障上の観点から論じる議論があるが、
これも反対派との議論をおかしくしている。
海兵隊がオスプレイを導入することで、在日米軍の能力は強化され、ひいては抑止力も強化される。
それは事実である。
しかし、オスプレイ反対派による「危険な欠陥機だ」との主張に対する反論としては、抑止力強化論は有効ではない。
仮にオスプレイが危険な欠陥機であるなら、「日本の安全保障のために、
沖縄県民の生命を危険に晒してもいい」というロジックになる。「オスプレイは抑止力として必要だから、
危険だけれども我慢してくれ」と言われても、これは沖縄県民には受け入れられない話だろう。
“日本の安全保障”と“沖縄県の負担軽減”は、沖縄駐留米軍問題の2つの核心で、
もっとも重要な論点だが、かといって、オスプレイが危険な欠陥機であるかどうかは、直接はリンクしない。
沖縄の声を軽視する政府も問題
オスプレイの問題点は、実際には危険な欠陥機ではないオスプレイを、基地反対派が強引に争点に持ち出したことにある。
その論理が破綻していることは上述した通りだが、それでも、マスメディアを巻き込んだネガティブキャンペーンはかなり成功し、
多くの日本国民が「オスプレイは危険だ」と誤解する状況になっている。
そこで新たな問題として浮上するのが、第3の論点である「日本政府の対応は適切だったか?」である。
日本政府は日本国民を代表して政策を決定するもので、アメリカ政府のためにあるのではない。
原則論を言えば、仮に日本国民の過半数がオスプレイを欠陥機だと誤解し、同機の日本配備に反対するなら、
日本政府はオスプレイの日本配備を認めるべきではない。日本政府が国民の誤解を解消する努力をするのは当然のことだが、
たとえ間違った認識でも国民の意識がそうなっているのなら、それに従うのは民主主義の原則である。
野田佳彦首相は今年7月23日、「日本が主体的に事故原因の究明を行い、安全性が確認できるまで飛ばさない」と表明した。
日本国民の代表者として、当然の判断だ。
しかし、実際のところ、米軍の調査報告を基に9月19日に森本敏防衛大臣と玄葉光一郎外務大臣が安全の確認を宣言した。
多数の日本国民が「危険だ」と誤解している中で、米軍の予定通りの配備を追認したことになる。
政府は米軍に対し、なるべく安全な運用を要請し、それが受け入れられたとしているが、
そんな曖昧な口約束に不信感が持たれるのは当然のことだ。
米軍側もそんな努力目標の口約束など、まったく意に介することはないだろう。
現に沖縄県民に反対の声が根強い中、日本政府は「そんな沖縄の声を軽視し、
米軍の都合を優先させた」と批判されてもしかたない。たとえ安全性が確認されたとしても、
「NO」という声が国民に多くあるなら、政府は慎重に進めるべきである。
米軍の運用計画に支障が出ると日米同盟が傷つくとの意見もあるが、そんな些細なことで日米同盟が揺らぐはずもない。
いずれにせよ、これは日本政府の政策決定のあり方の問題であり、オスプレイが実際に欠陥機かどうかということとは、
また別のステージの問題である。
今後、米軍は粛々と自らの計画のままにオスプレイを運用していく。
反対派は、日本政府のアメリカ追従ぶりを非難するだろうが、
その際、またオスプレイ欠陥機説を繰り返し持ち出すだろう。
こうして、本来は別の話である
「オスプレイは欠陥機か否か?」
「在沖縄米軍基地をどうすべきか?」
「日本政府の対応に問題はないか?」が、あるときは故意に、あるときは無意識に混同され、
不毛な論争が続いていくことになる。沖縄基地問題が、あまりにも「右」対「左」の二極化に偏りすぎていると感じるのは、
筆者だけだろうか。