∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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R-4>江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]3/3

2008-02-05 20:13:18 | R-4>水野氏諸他参考資料
R-4>江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]3/3

●職制――――
――遠国(おんごく)奉行

[伏見奉行]
 大坂、京都町奉行に次ぐ要職にはあるが、三奉行所は距離的にいっても近接しており、伏見奉行は一人で勤めるに充分であった。また京都町奉行所と共に近江、丹波も支配したが、寛永二年(1625)伏見城を廃止してからは、単に奉行を置くに留まった。
 奉行は大番頭などから抜擢され、寺社奉行を除く他の奉行が旗本から選出されるのに対して、伏見奉行は小大名が任命されことから「大名役」として区別されている。従ってこれを勤めると大名役の奏者番か、万石級の大名格である留守居に昇進する。
 赴任に際しては時服三領、羽織を拝領し、引越借金千五百両が支給された。芙蓉の間席でも上席で役料は三千俵がつき、与力は十騎おり、八十石高譜代席、同心は五十人で十石三人扶持、牢番は一名、現米五石三人扶持であった。

[京都町奉行]
 京都町奉行所は老中支配であるが、役儀上では将軍直属である京都所司代の管轄に入る。職務は山城、大和、近江、丹波の勘定奉行を兼ね、五畿内の寺社・御朱印地・公家領および諸大名を掌握して寺社奉行も兼ね、京都の市政、訴訟を掌った。これは江戸の三奉行兼帯と御目付的職務であり、かつ京都所司代が江戸へ参府で不在の際には、これの代理を務めるという広範囲の職責であった。これにより遠国奉行の中では、最も重い職で、この職を勤めた者は大目付、町奉行、留守居、小性(*16)組番頭などに昇進することが出来る。
 およそ二三千石級の旗本から選ばれ、定員は東と西の両奉行の二名で、千五百石高であったが、慶応三年(1867)から場所高を廃して二千五百両支給となった。現米六百石の役料がついた。奉行の下にはそれぞれ与力二十騎、同心五十人宛が付いた。駿府奉行、目付、奈良奉行などを勤めた者から就任するものが多い。
 土地柄、何せ扱いの面倒な階級と、しきたりのやかましい所であるから、なかなか骨の折れる役儀であった。

[大坂町奉行]
 大坂に町奉行が置かれたのは元和五年(1619)九月で久貝因幡守正俊が東町奉行に、島田越前守直時が西町奉行に任ぜられたのに始まった。元禄年間(1688--1704)には三名となって堺までその管轄とし、その内の一名が江戸に在府したが、元禄十五年(1702)、堺奉行を復活し、二名定員の月番制となった堺奉行から大坂奉行に上がり、さらに京都奉行所と昇進するのが順序である。およそ二三千石級の旗本から選ばれ、千五百石で高で役料として現米六百石が支給される。慶応三年(1867)には場所高を廃して二千五百石が支給された。
 役権は大坂の民政だけではなく、大阪町方三郷の行政、司法権と摂津、河内、和泉、播磨の行政司法権も握っていた。両町奉行とも、与力三十騎、同心五十人が付いた。

[長崎奉行]
 長崎奉行は文禄二年(1593)寺沢志摩守が初めてであるといわれているが、『讀史備要』(*17)では慶長八年(1603)小笠原一庵が初めてとなっている。寛永十年(1633)二月以降、二人制となり、貞亨年間(1684--1688)には三人であったが、以降はおよそ二名制であった。
 目付、普請奉行などから抜擢され、大目付などに上がる。寛永三年(1626)から水野河内守守信(旗本三千五百石後五千石・常滑水野監物守隆の庶子)が、寛永6年(1629)まで長崎奉行を勤めた。これは諸説あり定かではないが、「長崎港草」(熊野正紹)(*18) によれば、長崎奉行水野守信が、寛永三年丙寅(1626)に踏み絵を始めたとされ、その実施された事例は、寛永八年(1631)、雲仙地獄におけるものを初見とするといわれている。また守信は、この後堺奉行に転じ、さらには大目付に就任している。
 千石高ではあるが役料として四千四百俵支給されるから奉行としては最高であるが、席次は大阪奉行の下である。長崎奉行はこのほか舶載品を原価で買える特権と、八朔銀といって貿易商人や地役人からの献納金があるので大変良い収入であった。
 責務は長崎の市政を掌り、外国貿易および海防の任があり、定員二名の内一名ずつ一年交替で江戸に戻り、八、九月頃交替した。
 特筆すべき事に、長崎奉行というのは、九州の目代(目付)であるから、御固め両家、
松平筑前守(筑前博多城主黒田家)と松平肥前守(肥前佐賀藩主鍋島家)を指揮し、外国に関することを掌るので、十万石の格があり、道中にも家老、医者という名目の者を従える事を許されていた。

[山田奉行]
 伊勢山田の大廟を守護し、遷宮祭祀を掌り、伊勢志摩両国の訴訟を聴断する役で、定員は一名である。千石高で役料千五百俵である。
 赴任の時に時服四領、羽織を拝領し、引越拝借金三百両を支給された。
 慶長五年(1600)に設けられ、後に二名となったが、享保十一年(1726)再び一名制となった。与力は定員六騎で八十石高、同心は定員七十名で三十俵二人扶持から、十五表壱人扶持で、譜代准席から抱筋まである。
弘化二年(1845)、山田奉行所はほぼ全焼したが、翌弘化三年(1846)改築された。当地に「山田奉行所記念館」が建てられている。

[日光奉行]
日光東照宮を守衛して、修繕、祭祀を掌り、併せて日光の土地の政事、訴訟を行う。定員は二名で一年交替で九月に参府する。二千石高で、役料は五百俵。
 配下では、支配組頭は定員六名で三百俵、二十人扶持、同心は三十俵二人扶持から十五表二人扶持まで、定員は三十六名。支配吟味役の定員は七名で百俵高、扶持持五人扶持、役料金五両で、赴任の折御暇金十五両が支給される。

[堺奉行]
 関ヶ原の戦いの後の慶長五年(1600)、堺政所を置いたが、貞亨頃(1684--1688)から堺奉行と改称した。
 大阪城代の指揮を受けて、大坂町奉行と協議して、堺市内の管理と訴訟の決裁を行い、港湾監査に当たった。大坂町奉行に合併されたこともあったが、再び再開され千石高で、役料として現米六百石が支給された。

[箱館奉行]
 享和二年(1802)二月、蝦夷奉行二人を置いたのを、三月に箱舘奉行所と改称した。場所初め亀田であったが、文化四年(1807)、松前に移した。文政五年(1822)、土地を松前氏に返却するとともに廃止したが、安政元年(1856)六月、再び奉行三名を置き、一名は箱舘在府、一名は蝦夷地巡回、一名は箱舘在勤とした。二千五高、役料千五百俵である。




[註]
*1=柳営(りゅうえい=将軍家)勤仕(きんし=つとめつかえること) 録(ろく=記したもの)。柳間席の大名である大関増業(おおぜきますなり、下野黒羽一万八千石)が、殿中での立ち居振る舞い等を記した書。
*2=ちょうあい。寵愛して特別に待遇すること。
*3=いぎ。礼式にかなった、重々しく威厳のある態度・動作。
*4=ほい。幕府には六位の叙任がなく、幕府で決めた布衣という格がある。朝廷の六位以下は無紋の狩衣を着用し、これを布衣(ほうえ)と呼んでいるのに相当し、布衣(ほい)と呼び習わし狩衣と同形で無紋の布衣を着用する。三千石以上の無役や、低い御役の頭はたいていこの布衣である。
*5=じょうし。幕府・藩などから上意を伝えるために派遣された使い。
*6=笏(しゃく)とは、日本において束帯の着用の際、右手に持つ細長い板である。
中国発祥のものであり、中国では官人が備忘として書きつけをするための板であったとされている。六世紀に中国から伝来し、日本では初めは、朝廷の公事を行うときに、備忘のため式次第を笏紙(しゃくがみ)という紙に書いて笏の裏に貼って用いていた。後に、重要な儀式や神事に際し、持つ人の威儀を正すために持つようになった。
*7=きもいり。
 (1)あれこれ世話や斡旋をすること。また、その人。取りもち。
 (2)江戸時代、名主・庄屋の異名。
 (3)江戸幕府の職制で高家(こうけ)や旗本の寄合の上席。高家肝煎・寄合肝煎など。
*8=『明良帯録』史籍集覧本 2巻 (東京 : 近藤瓶城 , [明治中]刊)
*9=こひつみ。古筆とは日本の古書、主に写経、歌文の写本、古文書をいうので、これを鑑定することを古筆見という。鑑定書は大高檀紙か、奉書の折紙に書かれている。
*10=ちょうだん。訴えを聞いてとりさばく。聴決。聴訟。聴獄。
*11=かんさつ・だんきゅう。調査し監督する役で、罪状や責任を問いただして、とがめることを職分とする。
*12=世話をして後見したり、また差配・指図したりすること。
*13=きしき。定まった作法。きまり。さだめ。
*14=しょだいぶ。 五位の大名・旗本。
*15= ようえき。律令制下の労役の総称。特に、雑徭(ぞうよう)つまり雑用と歳役(さいえき、都で土木事業に使役、又は代わりに庸として布や米で納付)。
*16= こしょう。本字(略字・俗字などに対して正体の漢字。正字)は、「扈従」と書いた。
「扈」は音で「コ」、訓は「したがう」で、君主の後に従う。おとも。従者。
「従」は漢音で「シュウ」。訓は「したがう」、前の人について行くの意。
このことから「扈従」は「こしょう」と読み、意味としては「貴人につき従うこと。また、その人。おとも。こじゅう」となる。本来の表意文字なら「扈従」であり、幕末までの系譜などには、この本来の文字が書かれているものも散見される。
近世は「小姓・小性」などと一般的に表記されているが、これは古代から漢字の“音(おん)”のみを借りて日本語の音を表記した万葉仮名に由来している。つまり万葉仮名は臨時的な文字で、本来の漢字の使い方ではない使い方、つまり意味を持たない漢字「仮名」で表記してきた歴史がある。従って「扈従」の表意文字を「小姓・小性……」の「仮名」で表記したのであり、書きやすく、また誰にでも読みやすい文字として定着していったものと推測される。(出典:『音聲學大辞典』、『世界の文字の図典』、愛知学院大学講義・文学Ⅱ・教養部河野敏宏教授)
*17=『讀史備要』東京大学史料編纂所/編 講談社or内外書籍会社
*18=『長崎叢書 』(下) 長崎市役所/編 原書房 1973.04
年表第一「寛永三年丙寅 奉行 水野河内守 〇此年大に天主教徒を駆逐す改宗する者は耶蘇の像をを踏ましめ且薄冊に捺印せしむ此輩を轉ひの族と云ふ其改めさる者は之を逐い其山中に隠れ暇屋を造りて住する者亦皆之を逐ふ踏繪の法實に此時に濫觴す」
この年(寛永三年(1626))大いにキリスト教徒を駆逐する。改宗する者は、キリストの像を踏ませ、さらに帳簿に捺印させる。この連中を「転びの族」という。それを改めない者はこの者を追放し、山中に隠れ仮小屋を造って住む者もまた追放する。踏み絵の法律は、まさにこの時を初めとした。(踏み絵の起源)

                                                                                《 了 》



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