∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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R-1>『系圖纂要』に記載された水野氏

2007-11-22 17:41:06 | R-1>水野氏系圖・名簿
R-1>『系圖纂要』に記載された水野氏

◎『系圖纂要』名著出版 の「凡例」から抜粋編輯――
1.「系圖纂要」全 102巻103冊は、内閣文庫所蔵にかかる原本と、これを謄写した東 京大学史料編纂所本の二本があるのみで、いままで世に広く知られていなかった秘本である。
1.内閣文庫本は、編者の草稿本と思われるものである。
1.本書の編著者については、原本について見るに、巻頭や巻末に序跋(書物のはしがき と、おくがき)もなく、従来不明とされていたが、近時、前東京大学史料編纂所教授太 田晶二郎氏の研究によれば、本書は、幕末の国学者で、「大日本野史」291巻の著者で ある、飯田忠彦の編にかかるものであろうとされている。忠彦は、安政の大獄に連座 し、桜田門外で取り調べを受け、蔓延元年(1860)六十二歳で自殺した。本書本文の記 事は、おおよそ安政三年(1856)末頃までのものが見られる。


◎飯田忠彦――出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋編輯
 飯田 忠彦(寛政10年12月18日(1799年1月23日) - 万延元年5月27日(1860年7月15日))は、幕末の徳山藩出身の国学者・歴史家。諱は初め恒憲、後に持直、忠彦と改名し、出家して黙叟と名乗る。通称は要人、刑部、左馬。字は子邦。雅号は環山、野史氏、夷浜釣叟。法名は志信院黙叟理現居士。『大日本野史』の著者として知られる。
野史とは、官命によらず在野の人が編纂した歴史書で、私撰の歴史、外史、私史、野乗とも称され、「大日本野史」の略称でもある。
 徳山藩士・里見義十郎兼門の次男として生まれる。幼少より歴史に関心があり、2~3歳の頃は菅原道真の像を見せると泣き止み、5~6歳の頃には自ら道真の絵を描いていたという。8歳で『武鑑』、12歳で『大日本史』を愛読する。特に後者に感動した忠彦は、その記述が後小松天皇の時代で途絶している事を嘆き、続編の執筆を志すようになる。13歳で藩校に入り、翌年には同藩士・松尾恒貞の養子となり「恒憲」と名乗って江戸に遊学して兵学などを修める。だが、藩主・毛利広鎮に近侍していた文政元年(1818年)、女性問題を咎められた事から出奔してそのまま京都に上る。後に河内国八尾の郷士・飯田謙介(忠直)の婿養子となり、「飯田持直」と改名した。だが、ここでも養父との折り合いが悪く、文政6年(1823年)には妻と離縁し同家を出奔。飯田の姓を残し名を「忠彦」と改め、江戸に遊学し予てからの念願である『大日本史』の続編編纂のための史料集めに奔走した。
 嘉永元年(1848年)、親友であった有栖川宮の諸大夫・豊島茂文の誘いによって帰洛した忠彦は、韶仁親王の世子幟仁親王の家来として宮家に復帰した。この頃までに『大日本野史』の編纂を終え、嘉永4年に全291巻の清書が完成した。
 著書には『大日本野史』の他に『門跡伝』(22巻)、『諡号考』(10巻)、『諸家系図』(62巻)などがある。














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