前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

ワタリウム美術館 『ハートビート展 時代にキスして I LOVE ART 11』

2011-03-06 00:52:17 | 美術関係
≪哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない≫


これは、私の「座右の書」とも言うべき、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)
に書かれている、ウィトゲンシュタイン自身が語った言葉です。

ウィトゲンシュタインが書いた著作については、
『論理哲学論考』(もちろん翻訳版)を拾い読みした程度で、きちんと精読したことはなく、
また、たとえ読んだとしても理解することは到底無理でしょう。

ですから、私がウィトゲンシュタインについて"知っている"ことは全て
永井さんをはじめ、他の方々がお書きになった入門書、解説書を通してのみ、です。


そのような身で、ウィトゲンシュタイン自身の言葉について何事かを語るのは
甚だ僭越であり、冒涜ですらあるのかもしれません。
そのような謗りを覚悟で、冒頭の言葉を自分なりに"解釈"すれば、

  自分自身が「格闘」している問題について、徹底的に思考し探求するためには
  ある共同体(に属し、その)内部で常識とされていること、
  暗黙の了解となっていることに影響されてはならない

ということではないか、そう理解しています。


実際にこのような姿勢を貫くことはとてつもなく困難であり、自身にとって極めて厳しいものです。
とても普通の人に真似のできることではありません。
むしろ私のような凡人は、ある共同体に属し、そこでの常識や暗黙の了解を共有し合うことで、
ある時は安心し、またある時は優越感を感じたりしているのですから。

しかし、凡人にはできない、他の人には作れない「何か」を創造しようと格闘する人たちは、
皆、本来そうせざるを得ないのでしょう。
だからこそ、私のような凡人は、そのようにして生み出された「何か」に
感動し、戦慄を覚え、衝撃を受けるのです。


勿論、ウィトゲンシュタインも他の哲学者との交流は当然あったでしょう。
これは、自分を外界から遮断して孤高を保ち、別の考え方や新しい技術を受け入れない、
という、独りよがりとは全く別の次元のことだと思います。



≪哲学者はいかなる・・・≫の「哲学者」の部分を「芸術家」に変えても
この言葉はそのまま通用するのでは、と考えます。


「ワタリウム美術館」は、"とある事情"でもっとも頻繁に行く美術館の一つです。
国内外を問わず、様々なコンテンポラリーアートを紹介する私設美術館です。

しかし、行く度にいつも同じような思いを抱きます。そこはあるのは私にとって「芸術」ではないと。
そこは、ある「観念共同体」に属する者同士がお互い認め合う場所、理解し合う場所だと。


その「観念共同体」に属さない私にとって、
それらははっきり言って中学高校の「文化祭」の展示物に等しい(あるいはそれ以下の)ものです。

少なくとも、そこには「目を見張るような技術の研鑽」の痕跡が見い出せません。
かと言って私には見えない「違う世界」を見せてくれてるわけでもない。
私が見ているのと同じ世界を「変わった言葉」(彼らが属する観念共同体だけで通じ合う隠語)で
表現しているに過ぎない・・・そう感じます。


決して無駄な時間を過ごしているとは思いません。
おそらくこれからも、何度もワタリウム美術館に足を運ぶでしょう。
それによって確認できる「何か」があると思っていますので。


(注)
今回の展示は、一人の作家の作品だけが置いてあるわけではないので、
中には「共同体」に属していない(と思われる)作品(ウォーホルやマグリットなど)もあります。
おそらく河原温も。

河原温の作品は、以前に東京都現代美術館で観ました。
その作品を「芸術」と呼ぶべきかどうかはわかりません。単なる「記録」に過ぎないとも言えます。

しかし河原温は、私が普段見ている世界、私が住んでいる世界を、
日常の"数"や物を使って「全く違った世界」に作り変えてしまいます。
そこにはある種の"狂気"が潜んでいます。

ただ、その"狂気"が姿を現すためには"時間"が必要なのですが・・・。
("時間"が"狂気"を生み出し、"時間"が「記録」を「芸術」に変えるのかもしれません)



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