「経験」と「言葉」 | |
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西田幾多郎の純粋経験論は天地有情の哲学だと言われている。われわれの喜怒哀楽といった感情はわれわれの内側にあるわけで、天や地に備わっているわけではない。またその他の特徴として、「無の自覚的幻影」、「すべてのものに二面性が見て取れる」、「善の研究について歴史的実在の世界であると考える」というったものが挙げられる。 西田は純粋経験を言葉で表現される前の「それ自身」としてとらえるものだと説明した。たとえば「赤」と一般化してもその個性を表現することはできない。赤いものを赤いと判断するとき、われわれは知らず知らずのうちに過去の「赤い」と比較している。真の感覚というものは感じる前の状態であり、風がザワザワ吹いている状態であったら主語のない「ザワザワ」の部分だけ感じる。「経験」は光が当てられる前の主体、「言葉」は光が当てられることで生じた影絵のようなものだ。ものの美しさに魅了されるとしたとき、たとえばそれを○○色の花として受け取っている。言葉になる以前の経験をそれのみで取り出すことは不可能なのだ。原経験を言葉に変えるのは、自分の中にある世界理解の働きである。 言葉は一つ目には「考えるため、考えたものを表現するための道具であり、自分の思索に形を与えるもの」と考えられる。これは分節されたものひとつひとつに言葉を乗せていくという考え方だ。この場合、「思想あっての言葉」ということが言える。二つ目には「それを通して自分たちの思想を作るもの」。これは言葉によってそのものが分散されるのだ、という考えである。この場合、「言葉あっての思想」ということが言える。前者はシニフィエを前提に、後者はシニフィアを前提にしているとでも言おうか。 生物はそれぞれに機能にあったUmwelt(環境)を持つと考える。人間はそのUmweltを言葉で分節する点で他の生物と異なっているとVexkullは言う。 | |
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西田幾多郎, 純粋経験, 日本語, 言葉 |