【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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雅歌7章

2017年01月30日 05時25分18秒 | 出エジプト記
関係を回復した夫が妻に語り掛ける。1-5節は、愛する者の、女に対する賛辞というべきか。夫の視線が足から順に上へと動き、女性の美しさを歌いあげている。4章や6章の賛辞と比べて明らかに違う点は、女性の服をまとわない美しさが歌われていることだろう。夫婦であればこその賛辞でもある。夫婦は互いの裸を恥じなくてもよいし、二人だけの楽しみもある、というわけだ。バテ・ラビムの門、ヘシュボンの池、レバノンのやぐら、カルメル山、現代の日本人には、イメージのわきにくいたとえもあるが、それは単に外観を称賛しているのみならず、内側の品性をも讃えているようだ。確かに、愛を交わしあう夫婦の関係であれば、外見だけではなく、内面的なことも認めあえるものだろう。人にはわかりにくいよさを認めるのも、連れ合いの特権である。
「ああ、慰めに満ちた愛よ」(6節)。愛に使われているヘブル語は、アハバー。旧約学者スネイスは、この単語によって表現される愛を「選びの愛」と呼び、ヘセドの愛(契約の愛)と区別した。アハバーは、非合理的、感情的な愛、ヘセドは理性的、意思的な愛で、結婚の契約に対する「誠実」さや「忠誠」さを特徴とする愛である。「選りすぐり」決定した相手であっても、ただ感情的に大好きであるという非合理的な愛だけでは、その関係は長くは続かない。ことに結婚においては、契約の相手に対しては、どこまでも誠実を守るヘセドの愛が、お互いの間に維持されない限り、そのきずなは破綻しやすいものである。しかし、ヘセドの愛だけということもありえない。6節で語られている愛は、アハバー、慰めに満ちたは、それが喜びに満ちた、ということであり、甘美な時を意味する。関係の回復された夫婦には、甘美な時もあるのだ。
10節からは妻の応答である。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う」(10節)。このことばは2章6節、6章3節にも繰り返されて来た。妻は相手の愛を確認し、さらに、自ら夫を誘っている。妻が自ら積極的に夫の愛を受け入れ、夫に愛をささげよう、と語っている。愛される者が愛する者に変わっていく部分である。愛は互いに確認し、互いをささげあう。愛は互いを征服し、互いを自分のものとする。「恋なすび」は、いも科に属し、紫色の花を咲かせる植物である。すももの実に似た果実をつけ、不妊症に効果があると言われる。5月、つまり春に咲く花である。命に満ちた春は、愛を語るにふさわしい時なのかもしれない。
ともあれ、愛は、一方通行ではない。相互に求め合い、満たし合う。神の私たちに対する愛も同じである。私たちは神に満たされることだけを考えていることがしばしばである。神に対する愛を示すよりも、神の愛を執拗に求めるだけであったりする。私は、私の愛する方のもの「私の愛をあなたにささげましょう」(12節)という私たちから神に向かって行く愛が問題なのである。既にみて来たように、神の愛は、私たちに対して盲目であり、裏切らず、不合理ですらある。そんな神に対して「私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです」(13節)と私たちからささげていく愛が問われているのである。


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