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ゼカリヤ書6章

2014年06月27日 06時42分44秒 | 小預言書
 第8の幻、四台の戦車の幻である。第1の幻にも馬が四頭出てきている(1章)。第1の幻では、馬は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼らは、ペルシヤ帝国に平定された地を行き巡り、イスラエル回復の望みがないことを伝えていた。第8の幻は、戦車は、二つの青銅の山から、全地に出ていこうとしている。青銅は、不変性と力の象徴である。神の不変性と力を背景として現れたというのだろう。だからこの四台の戦車は、それぞれに天の四方を駆け巡るものとして、神の使命を帯びて遣わされていく。黒い馬は、北の地へ、白い馬はその後に続き、まだら毛の馬は南の地へ、それぞれ遣わされていく。特に、北の地へ出て行った者は、神の怒りを静めるという。北は、バビロンを指している。黒い馬は、神の民を抑圧していた国バビロンを討ち滅ぼすのだろう。それに続く、白い馬は、バビロンの裁きによって神の怒りが和らげられた後に、平和がもたらされることを意味している。また南は、エジプトやアラビヤ、イスラエルから見て南である。もはや世界的支配権力に対して、主は勝利を収められた。先の5章で描かれた幻の完成を意味する。新しい時代の幕開けである。しかしながら、これは、単に捕囚からユダヤ人が解放されることを言っているだけではない。どうも、例によって、現代の私たちにもかかわる黙示的な意味があるようだ。
後半9節からつなぐように語られる神のことばは、捕囚の民が持ち帰った金銀を用いて、冠を作り、大祭司ヨシュアの頭にかぶせるように命じている。大祭司が、王冠をかぶらされることはありえない(2歴代誌26:16-21)。だから、本来冠を被らせられたのは、総督ゼルバベルで、後の時代の状況に合わせて原文に修正を加えた、という議論もある。確かに、ペルシヤ時代において、まもなく、大祭司はユダヤの地方総督を兼ね、政治的権力者となっている。シリヤ時代独立を果たしたマカバイオスのハスモン王朝にしても、政治的権力者が大祭司を兼ねている。それが再び分離するのはローマ帝国下のヘロデ時代である。ただ、こうした中間時代の歴史に合わせて原文を修正した、と見るよりも、あくまでも預言として理解すべきものであり、さらには、新約時代のメシヤ預言をそこに酌むべきものなのだろう。
12節「見よ。一人の人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す」、直接的には捕囚後の神殿建設を物語っている。しかし、これも「神殿を打ち壊し、三日で建てる」と語ったイエスの来臨を預言していると考えたい。13節は、一つの王座に二人が着くのか、二つの王座があるのか理解し難い記述である。だが、王の権威と祭司の権威が一人の人格に調和される、つまり、祭司であり、王である二つの職務の融合は、イエス・キリストにのみ許されたことである。イエスを指し示す型、つまりメシヤ預言であると理解すればよい(ヘブル7:1-3)。となれば、ここで語られる神殿の再建は、終末的再建を臨み見たものであり、6章全体が、メシヤ預言を兼ねていると考えてよい。
大事な点は、私たちが主のみ声にほんとうに聴き従うなら、イエスを王とし祭司とする、神の国が完成される、と語っている点である。私たちは「すでに」神の国が来ていると同時に「いまだ」それが完成していない時代に生きている。いよいよ良いわざに熱心な者とさせていただこう(テトス2:14)。

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