【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書21章

2017年02月21日 13時45分47秒 | イザヤ書
「海の荒野」とは、バビロンを意味することが9節でわかる。バビロンについては、すでに13-14章で取り上げられている。ここは単なる繰り返しではなく、イザヤの悲しみの心情を加えたメッセージとなっている(3,4節)。
この預言は、BC689年、セナケリブが率いるアッシリヤ軍がバビロンを陥落させたことで実現した。まず、イザヤは、何の警告もなく住民がいつものように飲み食いしている日常の光景を見ている。そこにアッシリヤ軍が攻めてきて、迎撃への非常招集がかかる(5節)。しかし、それは虚しい応戦であり、殺戮の惨劇が繰り広げられる。神の裁き、と一言で言うが、それはあまりにも悲しい。イザヤはその幻に同情を感ぜずにはいられなかったのであろう。神の裁きは厳粛に実行される。それは、「心乱れて聞くにたえない」「恐ろしさのあまり、見るにたえない」(3節)ものだ。そこでイザヤは、そんな裁きを受けてはならないと、声を大にして語らざるを得なかったのである(10節)。
ただそれは心地よいメッセージではない。苦いメッセージである。神の裁きを語り、悔い改めを促す行為は、出産の苦しみにたとえられている(3節)。それは、実を結べば喜びであるが、そこに至るまでは痛みを伴うものであると。しばしば多くの主の働き人が経験しているように、神のことばは痛みをもって語られる。神のしもべとして立ち、語ることは、易しいことではない。しかし、この務めに立つ者を神は探し求めておられる(6:9)。語ることなくして悔改めも起こり得ないからだ。
11、12節は、ドマに対する裁きのメッセージである。実際にドマという地名はなく、一字違いのエドムのことを言っているのではないかと考えられている。イザヤは、エドムを襲う裁きについても、深い悲しみを覚え、語らざるを得ない。これは実際には、BC712年にサルゴンに率いられたアッシリヤ軍にエドムが滅ぼされることを預言している。それは暗黒であり終わりなきものであることが、夜回りとの対話でもって比喩的に語られている(12節)。13-17節は、アラビヤに対するメッセージ。アラビヤにも、危険は差し迫っていた。それは後1年の内に起こることであると(16節)。ケダルの勇士は、アラビヤ人の中でも勇敢で強いとされた戦士たちである。しかし彼らも徹底的に打ち砕かれるとする。
神の裁きと言えば、終末の日の裁きがあることを、私たちは忘れてはいけない。やがて来る主の日の裁き、それを火の池や血の池で苦しむ地獄絵図でイメージする人も多いことだろう。しかし、聖書が与えるイメージは、永遠に神から引き離されることであり、誰もいない暗闇に放置されるものである。人間にとって何よりもの悲しみ苦しみは、ただ一人放置されることだろう。それはまさに地獄である。それが永遠であるとは、耐えがたい苦しみである。そんな悲しみ、苦しみは誰も味わってはいけない。だから、なんとしても、一人ひとりが、神の悔改めに至ることを願わざるを得ない。家族が、友人が、知人が、真に救われる事を祈らざるを得ないのである。


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