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マタイの福音書2章

2017年12月06日 05時58分23秒 | 福音書
イエスがお生まれになったのは、6世紀のローマの修道院長ディオニシウス・エクシグースにより紀元元年と定められたが、実際には数年のずれがあり、どうやら、AD5、6年には生まれていたと考えられている。マタイは、ベツレヘムでイエスがお生まれになった時、東の方からやってきた博士たちのエピソードを取り上げる。東の方は、アッシリヤ・バビロン方面であり、BC6世紀に滅ぼされたエルサレムの主要人物が捕囚で連れ去れたところでもあるので、ユダヤ人の宗教についてはかなりの知識を持っていたのであろう。新改訳2017では、「その方の星が昇るのを」と新しい訳を採用し、博士たちが完全に奇跡的な光に導かれて来たことを印象づけている。
この星については、様々に議論されてきた。星の大爆発説、流れ星説、彗星説、そしてケプラーが唱え、最も妥当とされる、800年に一度BC6-7世紀頃に生じた土星、木星、火星の会合説である。ただ聖書に書かれていることは、いつでも科学的、合理的に説明できるものでもない。本来神は万物の創造者であり、超自然的なしるしを起こしうる方であるのだから、これが特別で奇跡的な出来事であった、ということもある。大切なことは、神の子は、神の特別な配慮と守りの中で、生まれ、その後の成長を導き守られたことである。そして世界に何かが起こり始める空気が流れた、ということだろう。
だから、ヘロデは動揺した。彼は、パレスチナの治安を回復し、サマリヤの再築、高架式の水道橋の整備、エルサレム神殿の拡張、修築事業、エリコの冬の宮殿や正田の要害の整備など、次々に多くの事業を行い、その政治的な手腕を振るった有能な王であった。しかし、血統としてはユダヤ人の王にはふさわしくないエドム人であった。彼は、ユダヤ人の王朝ハスモン王朝の王妃を妻とし、その劣等感を埋め合わせていくが、やがて、猜疑的になり、王位を脅かすと思われる者を肉親に関らず次から次へと殺害する冷酷な王と成り果てた。そこへ「ユダヤ人の王」と噂されるイエスが誕生したのである。ヘロデのみならず、エルサレム中の人が恐れ戸惑ったのは、そんな背景があったからである。
王は、即座に、イエスを殺そうとした。王は二歳以下の男の子を殺させた、当時の人口からすればそれは20人程度であったとされるが、二歳以下というのは、イエスが、誕生して、しばらく時間が経っていたことを意味している。東方の博士たちの礼拝と、ルカが描く羊飼いたちの礼拝は同時期ではなかったのである。
ともあれ、イエスの誕生は、単にヘロデのライバルが生まれたというだけのことではなかった。東方の博士たちがわざわざ礼拝しに来たのは、それがユダヤ人の王のみならず、世界の王であることを意味している。世界的に影響を及ぼす大王の誕生である。後にイエスは、「私の国は、この世のものではない」と語ったが、マタイはこれ以降、イエスが神の国の王であることを明らかにしていくのである。
しかし、それとイエスを理解する者はいなかった。マタイは、イエスが約束のメシヤであり、聖なる神の子であり、全世界の王であることを語る。「これは、預言者たちを通して~言われた事が成就するためであった」(15、17、23節)と旧約聖書から待ち望まれた王であることを語る。しかし実際にはイエスは、「ナザレ人と呼ばれ」受け入れられることはなかった。本来ならば、ダビデ家の王子として生まれるはずが、ダビデ家は既に没落し、イエスは、世界のどん底から神の国をスタートしなくてはいけなかったのである。だが、ナザレは、イザヤ書11:1の「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という預言の中の若枝と全く同じ文字であり似た発音である。つまり、かつてエッサイの子ダビデも、屈辱的な貧しいエッサイの家からスタートしたように、イエスもご自身の王国のために賎しいスタートを切った、ということだろう。ここに神の力強さがある。無から有を生じさせる神が、いかなる人生にも素晴らしい御業をなすという信仰を抱くところである。


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