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ゼカリヤ書14章

2017年10月04日 06時16分14秒 | 小預言書
 エルサレムに対する神の裁きが語られる。これはすでに13章の8,9節で述べられたことの展開であると考えてよい。しかし、神殿再建後に語られたこのメッセージは、どう読んでも、これから後のこと、いわゆる終末的な出来事を語っているようであり、過去の特定の歴史的事件に当てはめられるようなものではない。エゼキエル(38-39章)や黙示録(14:17-20、16:14-21)で語られる、神の民に対する最終的な戦いに通じる内容である。となれば、町は占領され、踏みにじられる。そして捕囚の民が連れ去れるというのは、霊的な意味でのイスラエルの試練を物語っていることになる。通常の意味ではイスラエルは地理的、民族的なことばになるのだろうが、霊的な意味では、ユダヤ人も異邦人も含めた神を信じる者たちの集まりで、その者たちが通らねばならない終末の苦しみを語っていることになる。
しかし、その日、キリスト者は苦しみに捨て置かれることはない。ちょうど、キリスト者を迫害し追いつめようとし、ダマスコに向かっていたサウロにキリストが現れてくださったように、神はエルサレムを占領した者に、立ち向かわれる(3節)。そして、主の不思議な介入により、オリーブ山が二つに分かれ、その谷を通って民は逃れることができるという(5節)。主は常に私たちとともにおられる、と言う。
6節からは、主の臨在の祝福、そして黙示録21-22章を思い起こさせる内容となっている。キリスト者は、神の御国の支配が完成されることを強く願うのであるが、その日は、いよいよ主の支配が現わされ、主の栄光が現わされる時となる(9節)。
またエルサレムに与えられた祝福により、地上のすべての人々が祝福を受ける。神が、エルサレムに攻めて来た者たちを群れに加えられることに注目したい。敵が身内となる。彼らは「万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上ってくる」(16節)。つまり、主の日は、神の全権が認められる時であり、敵も味方もいなくなる。皆が主の権威を認めて、主のもとにひれ伏し、礼拝し、栄誉を帰す。完全な一致、調和と平和が実現する。
20節、「馬の鈴」が主への聖なるささげもとされる。もともとユダヤ人にとって馬は傲慢と王の虚飾と肉性の現われで、所有することすら禁じられていた。家庭用の器も完全に聖から隔絶したものであった。しかし、その日、それらが皆、聖なるものとして用いられる。それは、礼拝に来る人々の数の多さのために、神殿備え付けの用具では足りなく、家庭の用具までもが集められることを言っている。その日、「万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」もはや、主の宮が、商売の巣窟と化すことはない。私の家は祈りの家と呼ばれると、イエスが、神殿で商売する者どもを追い出し、宮清めを行ったことが思い起こされる(マタイ21:12)。実に、神の宮は完全に聖められ、神の栄光を純粋に崇め礼拝する場とされる。
このように14章最後は、終末的な意味でとらえてこそよく理解される。聖書が語るのは、やがて私たちが神の前に立つ、神がこの世のすべての帳尻を合わせられる時が来るということだろう。またその日、すべての民族、国語、国民が一つにされる(黙示録7:9)ということだろう。神の壮大なご計画が示されている。そしてその御心にそって、私たちの教会のあらゆる活動が進められていく必要がある。主の日に向かう、心構えと思いを持って歩ませていただこう。

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