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ミカ書6章

2017年09月08日 09時09分45秒 | 小預言書
難しいことは何一つ言われていない。率直に、私たちがどのように神に従うべきかが語られている。「立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。」(1,2節)面白いことに、神は変わることのない不動の山々を陪審員として法廷に立ち、人を訴えている。神はいったい人に何をしたというのか、どんな損害を与えたのか、と。神は、これまで自分がどのようにイスラエルの民と共にあったかを思い起こさせようとしている。神は民を奴隷の家エジプトから救い出された。そして出エジプト後、カナンの地に至るまで、多くの奇跡と哀れみと恵みを持って導かれた。神は、契約に忠実であったのだ。
 6-8節は、そのような神の告発に対し、民が、反問の形で自分の正しさを主張している。6節「一歳の子牛」は、最良のささげ物を意味する。つまり、神に最上のいけにえをささげるとよいのか。7節「幾千の雄羊、幾万の油」つまり大量にささげ物をすればよいのか。「私の長子を」つまり、犠牲の深さがあればいい、というのか。そうではない。どれでもないのだ。私たちがどのように神に従うべきか、と言えば、それは、「ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むこと」(8節)である、という。
透明性のある、真実な性格をもって、謙遜に神と共に生きていくこと、これに尽きる。当たり前の日々の生活の中で、無器用ながらも、真実に神のいのちに触れる歩みをしていくこと、神との関係を大事にしながら生きていくことである。神を信じるということは、特別なことではないし、ある種の宗教儀式を務めとする以上のことである。日々、いな一瞬一瞬、神と心を合わせながら歩む事である。神の聖さに触れ、神の愛に触れ、神の義しさに触れて、神を感じながら、神と語りながら、神の旅路の同伴者となることである。
 そこで後半においてミカは、人間の日常性の中での、神との交わりの破たんしている状況を指摘する。具体的に商人の詐欺行為を告発している。不正なはかりと欺きの重り石を使う商人と神は共に歩むだろうか。歩くまい。実に、神と共に生きるというのは、教会でのことではなく、日常性の中で問われていることなのである。
 13節、「あなたを打って痛め、あなたの罪のために荒れ果てさせる」この神の裁きは、具体的に、BC701年アッシリヤ帝国による侵略によって実現した。しかし、このことばはユダ南王国にも語られている。「あなたがたはオムリのおきてと」つまりユダ南王国は、イスラエル北王国の歩みを倣い、イスラエル北王国の滅びを追いかけた。BC586年南ユダ王国は、確かに、神の警告通りにバビロンに滅ぼされていくのである。
 神が何を裁きの中心としたのかに注意しよう。神は、生きておられることを認めず、神のいのちに触れない歩みをしている者たちに警告を発しておられた。その目に見えるところは敬虔であり、宗教的であり、正しいようであっても、真実に神と共に生きるという部分が出来ていな人々に戒めを与えられた。信仰は特別なことではない。日常的なこと、当たり前の生活の中にこそ、神を認め、崇める真実な歩みが求められるのである。今日も目には見えないが、生きておられる神に心を合わせる歩みをさせていただこう。

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