すごいなぁ..これは終戦後の極限状況のなかでこそなのでしょうか.
まだまだ「愛」について考えているんですけど,今日,半分観た(途中から観た)『赤い月』(常盤貴子主演)の「生きていくために愛するのです」というのに,まいった..です.
先日の哲学カフェでは,愛を「愛する」と「愛される」に分けたりして,どちらが「人に不可欠か」を検討したんですが,圧倒的に「愛される」に軍配が上がりました.
参加者のお一人は,「愛されたいけど,愛したくない」とおっしゃってましたし(笑) 「愛し方がわからない」とおっしゃる方もおられました(笑)
「たぶん損得を考えてしまうんですよね」と同意まではせずとも,なんとなくわかるなぁ....(苦笑)
しかし,この『赤い月』の女性(母親)の場合,「愛する」ことが「生きていくこと」でした. 前半の物語がどういった事情だったかわからないのですが,夫の訃報を聞いて間もなく違う男性を愛し,その愛ゆえに生き返り,そして得た命の力強さでわが子を抱きしめます.
うーん...いろいろと読み込むことはできますが,いちばん単純に思いつくのは,極限状況での男女差を描こうとしていたんだろうということです.「疲れ果て」「死に行く」者は,老若問わず「男」だという,あからさまなストーリー性のなかに,その思いを感じました.
志願してシベリア行きに参加する夫.「ボク,もう疲れたよ」とつぶやく男の子. 紙くずになった満州のお札を放り投げる男性.対称的に,満州にありがとうを言う主人公の女性(母親). エンドロール.
愛という名で呼ばれているものの多くは自己愛だろうと思います.たぶん人々はそれが「ヒトがこの世を生き抜く術だから」と信じこんでいるからでしょう.「人に不可欠か」を「生き抜く」ことだとすると,これも自己愛ってことになるんでしょうか.ヒトが<他者>をほんとうに愛するということなんてできるんでしょうか...なんてことを考えてみました.
愛って,かなり難しいです
この鬱々とした気分は,「産婦人科医院の普通ゴミから胎児が出てきた事件@神戸」があってから,余計に考えざるを得なくなりました...もちろん,今回は「単純ミス」なのかもしれませんが,とてもやるせない気分です.
「納豆あるあるダイエット」よりも,見過ごせません.