線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

大平街道

2013年08月08日 20時42分45秒 | 歴史
今日の飯田市出張が案外早く済んだので、帰りはかねてから気になっていた大平街道を通って、木曽へ抜けて松本へ帰ることにした。

大平街道は、中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ山間の街道。飯田と南木曽を往還する街道は、飯田峠、大平峠(木曽峠)の2つの峠を越える。かつて伊那と木曽を結ぶ道は、「木曽へ木曽へとつけ出す米は…」と歌われた「伊那節」で知られた権兵衛峠しかなかった。それが、飯田藩によって伊那谷と妻籠宿を結ぶ街道が開かれたのが江戸時代中期。これにより、伊那と木曽とを往還する街道として、賑わったという。山中には「大平宿」まで置かれ、交通の要所でもったのだそうだ。

それも、かつて伊那電鉄と呼ばれた飯田線の開通や国道建設によって、大平街道も衰退する。昭和45年には住民が集団移住したことにより、現在では宿場のままの風景を残すのみとなっている。

場所は、飯田市街地から砂払温泉の前を通り、名水猿庫の泉の脇を通り抜け、進んでいく。道は狭くなるものの、舗装はきちんとされている。

途中、旧道をはずれ舗装道路へ行く。するとなかなか珍しい道標があった。

「振袖道標」だそうだ。かつては別な場所だったそうだが、見やすい場所に移したという。振袖から出た指が、方向を示す味のある道標だ。

さて、どんどん進んでいくが道はどんどん淋しくなる。しかし、道すがら石仏が番号ごとに建てられていたり、沢や洞の名前を示す看板が、大変ていねいに設置されていた。

途中には水も湧いている。飲めるのかどうかは分からなかったが、さわってみるとかなり冷たい。


かなり進むと飯田峠のピークになる。

古びた「大平街道」という道標も目に入る。


まだまだ進むようだ。ようやく川沿いに「大平宿」の看板が見えた。

だんだん家屋が見えてくる。ようやく集落らしくなる。

目立つ道標の奥に、未舗装の道と宿場らしい雰囲気の家並みが見えてきた。思わず自動車を降り、歩いてみる。








何とも時代劇のセットのようだ。集団移住して約40年ほど。大平宿を残そうという動きもある中で、寂れた廃墟という雰囲気はない。宿泊体験等、受け付けてくれているようだ。

かつては学校もあったのだそうだ。その校舎の前に集団移住の記念碑が建てられている。

不便になったとはいえ、故郷を離れることを決めた住民の方の思いはどんなものだったのだろう。想像もつかない。便利な時代になって、呑気に自動車で来てみると、なつかしさを感じはさせるが、かつて住んでいた方のことは想像を絶する。学校が残されているのも、何だか生きている感じがする。

ちょっと付近を探検してみると、神社もあった。

おそらく鎮守の神様なのだろう。草深くてお参りは断念したが、大平宿を守っている神様なんだろう。

さて、もう少し進んでみる。おお?何という木だ!?

何とも絡む木だ。どうやらカツラの木のようだ。近くに行ってみると、根元に壊れてしまった小さな祠が見えた。また近くには「盆小屋」とかかれており、かつて昭和5年まで木地師の住居があったという説明があった。何とも、歴史を感じさせる。

さらに行くと、今度は大平峠だ。

「木曽峠」と書かれた看板もある。これで飯田市から木曽郡南木曽町になる。まさに木曽と伊那とを結ぶ道なのだ。途中、県民の森といったキャンプ場などもでき、その豊かな自然を味わえるようになっている。

やがてパッと視界の広がる場所になる。木曽谷の山々が目に入る。

ここが木曽見茶屋だ。

木造りの歴史を感じさせる建物だ。残念ながらお休みだったので、どんな感じかは分からなかったが、数多くの大平街道を往き来する方々の休みどころとして知られた場所なのだろう。

これできれいに植林された林の中の道を下ると国道256号線に合流し、清内路峠から下ってきた道といっしょになる。

今日ははじめて大平宿を中心とした街道をドライブしてみた。大平宿を残す動きがある中で、ていねいな看板が至るところにあって、昔ながらの地名が示されていた。なかなかできることではないだろう。この熱意には頭が下がる。また機会があったら、通ってみたい。

 
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