はるのほっぺ

備忘録です。仕事柄、政治の話題が中心です。

政治と宗教団体の微妙な関係

2006年02月07日 | 政治
1月31日付けで宗教団体の政治参加について書きましたが、補足をかねてもう少し書いてみたいと思います。
立正佼成会が政治へ接近することになるきっかけが以下の事件だと考えています。
●読売事件
1948(昭和23)年には信徒数18,000世帯となり、短期間に急速に教勢が伸びました。その後も勢いは衰えず、信徒たちの努力により学校・病院を次々と建設するに至っています。
しかし、あまりに急速に発展したためにマスコミの餌食となり、1956(昭和31)年には読売新聞にて立正佼成会批判キャンペーンが行われることになりました(読売事件)。本部用地(大聖堂)取得に関して不正があったとされた事件です。
読売の記事は女性教祖の前歴を水商売と書きたてるなどセンセーションなもので、社会党の猪俣浩三衆院議員も国会で攻撃に立ち、4月30日には庭野鹿蔵(日敬)が衆院法務委に参考人招致されています。国会答弁に立ち誤解を解くことに努めましたが、反論の場が教団雑誌でしか与えられなかった佼成会の受けた打撃は大きいものがありました。
さらに9月には入会強要と脱会妨害が人権蹂躙に当たると、日弁連の後押しによる文部省の警告が出されたりしました。
こうしたダメージから信徒数は33万世帯から30万世帯へと後退、一時期の勢いは衰えてしまいます。
またこの事件の対処法などを巡って教団内に庭野批判が起こり、ついには「庭野を追放して長沼を教祖にしよう」というクーデターも計画されましたが、翌年に長沼妙佼が病気で死去したため、この騒ぎも沈静化していきました。
戦中、戦後の宗教弾圧から本来は公権力に否定的であったのが、読売事件が大きな転機となり政治権力=与党への接近を試みることになったのだと推測します。

そして試みの一つが大同団結という発想だと思います。それが新宗連です。
●新宗連の結成
政治との関わりを密接なものとしたのが、新宗連の存在です。正式名称は(財)新日本宗教団体連合会です。
まずは簡単に結成当初の新宗連の足跡を見ていきます。
1951(昭和26)年10月 新日本宗教団体連合会結成。
1953(昭和28)年3月 財団法人の設立許可。御木徳近氏が初代理事長に就任。
1961(昭和36)年11月 新日本宗教青年会連盟結成。
1962(昭和37)年4月 千鳥ケ淵戦没者墓苑で第1回「戦没者合同慰霊ならびに平和祈願式典」を開催。本年で第39回。
個々の新宗教の信徒数は少なくても、団体を結成することで政治的な発言力を増そうとしました。
直接的に選挙に関わるのは、参議院選挙全国区の自民党候補者を支援することから始まります。
先述したとおり立正佼成会は、1956(昭和31)年の用地取得に関して不正があったとされた事件ありました。翌年、長沼妙佼の病死から庭野日敬を中心にして大聖堂建立への政治的な動きが活発になります。
中央学術研究所HPに施設周辺図がありましたので下に掲載します。

本部や関連施設は、東西に流れる善福寺川を境に、北が杉並区、南が中野区に位置しています。
この杉並区と中野区、そして渋谷区が衆院選中選挙区時代の東京4区になります。代表的な代議士に自民党・粕谷茂、高橋一郎がいます。石原伸晃も最後の中選挙区制選挙では、東京4区から出馬しています。

政治との接近の一例として交通アクセス問題を見てみます。
●地下鉄・丸の内線開通
杉並区、中野区、渋谷区を選挙区とする旧東京4区。立正佼成会あげて自民党議員への選挙協力は絶大なるものがありました。
当時の代議士秘書をしていた方は「小選挙区になった今でも、ポスター貼りや電話作戦を協力してくれるのは佼成会の教徒さん。当時の選挙では是が非でも協力してもらわなければいけませんでした」と語ってくれました。
大規模な教団施設や関連施設を建設していくのですから、交通アクセスの問題も浮上してきました。
そこで解決策として、地下鉄・丸の内線を分岐することが検討され始めます。一口に言ってしまえばギブ・アント・゛テイクの構図です。政治家の選挙を支援する代わりに、教団の要望を現実にすることが政治家の課題になったわけです。
丸ノ内線(まるのうちせん)は、東京都豊島区の池袋駅~杉並区の荻窪駅間を結ぶ本線と、中野坂上駅~方南町駅間を結ぶ分岐線(通称:方南町支線)があります。
地下鉄開通と教団施設完成の歴史を重ねてみます。
1961(昭和36)年2月 
荻窪線新宿~新中野間・中野坂上~中野富士見町間 開業
1962(昭和37)年3月 
中野富士見町~方南町間 開業
1964(昭和39)年5月 
大聖堂落成式典
1970(昭和45)年4月 
普門館落成式典
こうして見るとわかりやすくなります。
もちろん交通アクセスは一例にすぎませんが、立正佼成会と自民党政権との距離が非常に近くなっていきます。

しかし自民党との蜜月も、リクルート事件など政界を巻き込んだ汚職事件から雲行きが変わります。このころから立正佼成会も政治浄化運動と表現を代えて、政治参加の意義を教徒に説明し始めます。
●自民党に翻弄される
立正佼成会が政治への対応に苦慮したのは二度あります。
一度目の苦慮は1993(平成5)年。7月の総選挙で自民党が過半数割れ、いわゆる「55年体制」が崩壊したときです。8月には細川護煕・非自民党8党連立内閣が成立してしまいます。この政権に公明党が参画、国務大臣まで誕生します。
この時、下野した自民党が政局に利用したのが政教分離問題です。創価学会を支持母体とする公明党への警戒を強めた自民党議員によって「憲法二〇条を考える会」(代表・亀井静香代議士)が結成されました。
当時、野中広務や亀井静香の攻撃は、池田名誉会長の証人喚問さえ要求するほどでした。結局は秋谷会長が国会で答弁をしましたが、自民党のこうした攻撃姿勢に立正佼成会を中心に新宗連も呼応します。
「憲法二〇条を考える会」の呼びかけにより、「四月会」(信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会、代表幹事・俵孝太郎)の発足に加わっていきました。
「四月会」発会式には当時の河野洋平・自民党総裁自らが出席。特定の宗教団体を背景とする公明党が加わる政権に危惧を表明しました。
結局は、自民・社会・さきがけ三党による村山連立内閣が誕生することで、反公明党勢力の活動も縮小していきます。
そして二度目の苦慮は1999(平成11)年。自民・自由・公明3党による連立政権の誕生です。参院の過半数割れから自民党と公明党連立が、“選挙協力”という切っても切れない関係にまでなってしまいます。当時の幹事長が野中広務であったのも皮肉です。
結局は、創価学会との対立関係から自民党からは距離を置き、教団としての統制を緩め選挙区単位で政策の利害が一致する候補者を支援するようになりました。
もちろんどの小選挙区でも自民党候補者の多くが公明党の推薦を取り付けていますから、立正佼成会の推薦は民主党が多くなっています。

政治を利用するのか、上手な関係を保つのかが分かれ目のような気がしています。
創価学会のように割り切って公明党を作ることの一つの決断でしょう。
立正佼成会のようにその場その時で、判断を変えていくのも一つの方針。
有権者の選挙離れが叫ばれるなかに、宗教団体の持つ統率力や動員力に政治家が目を付けるのはみえみえです。宗教団体としてそれを解りながらどう振る舞っていくのかが難しいのでしょう。
日本では宗教法人法という法律の下で宗教団体が守られているのも事実です。こうした状況下では政治・行政側からの庇護にあると言っても過言ではありません。
政治と宗教団体、難しい関係です。

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