週刊金曜日な日々

「週刊金曜日」、一読者のB級時評
題名に「週刊金曜日」と使用する事は、編集部の許可を得ています。

浜岡原発について、地元静岡新聞の特集記事がスゴイ

2011-05-07 00:17:01 | 週刊金曜日
福島の原発について
誰が誘致運動を始めたのかとか
誰が当時の通産大臣だったか?誰が県知事だったか?

ネットで調べても、なかなか出てきませんでした。


が、

浜岡原発だけは、地元の静岡新聞の特集記事が未だにUPされています。

静岡新聞「浜岡原発の選択」

当時の町長の名前から、議員の名前まで
バンバン実名で・・・

読み応えのある、すばらしい記事です。

以下、一部抜粋

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「金の卵産む鶴」 寒村に飛来した計画 /第3部 歴史(1)



落ち着いた表情だったが、一つ一つの言葉には力強さがあった。1967年5月末。旧浜岡町の企画課長(後の浜岡町長)だった鴨川義郎(82)=御前崎市佐倉=は、当時町長の河原崎貢(故人)らとともに上京し、水野成夫(故人)と面会した。(2009年3月20日 静岡新聞朝刊)


 「泥田に金の卵を産む鶴が降りたようなものです。お受けなさい」。名誉町民の称号を受けていた郷土の重鎮は、諭すようにそう答えた。

 42年たった今も、鴨川には水野の声の響きが忘れられない。

 中部電力から水面下で伝えられていた原子力発電所建設計画。この計画について意見を聞くことが面会の目的だった。水野は国策パルプ社長などを務め、財界四天王の一人と言われていた。その「大物」がふるさとを泥の田んぼ、原発を鶴に例え、迷う河原崎の背中を押した。

 鴨川には「河原崎町長はこの時に腹を固めたはず」との思いが強い。水野の一言が「原発の町の行方を決定づけた」と、地元で語りつがれている。

 河原崎はその1カ月前の町長選に助役から出馬して、初当選したばかり。「原発の計画を知ったのは就任してから2日目だった」。元町職員の鈴木俊夫(70)=同市下朝比奈=は後に、河原崎からそう聞かされた。鈴木は「まだ原発がどういうものか分からない時代。町長は本当に驚かれたと思う」と推測する。

 鴨川ら数人の幹部職員は、基礎知識から徹底的に原発を調査するよう指示を受けた。慌ただしい日々の中で、外部に漏れないように神経も使い続けた。鴨川は「本当に極秘だった。役場内でもほとんどの職員が、原発計画を知らなかったはず」と振り返る。

 水野が泥の田んぼと評した旧浜岡町は1955年、いわゆる「昭和の大合併」で1町4村が集まって誕生した。60年代になっても緑茶生産などを主要産業とした典型的な“農村”。町の財政は多くを国の交付金に頼っていた。

 町の職員が使用済みの封筒を裏返しにして張り直し、議員や町内会長あての郵便物に使った。経費節減のための、そんなエピソードも残る。

 「自主財源わずか30%そこそこ。財政力の弱い町は職員の給料を支払うのが精いっぱい。何一つ仕事らしい仕事はできない。国や県に陳情を繰り返し、金をもらったり借りたりして歩くことが“最大の仕事”というつらさを味わった」

 河原崎は自著「山桃の郷」に、町長就任直後の様子をそうつづっている。

 町は財政好転の期待をかけて工場誘致にも力を入れた。ところが、交通事情の悪さなど都市基盤のぜい弱さから結果が出ない―。原発計画はそんな「八方ふさがり」の状況下、突然、降ってわいた。

 水野と河原崎たちの面会から約2カ月後に計画は報道された。9月末、中電からの正式な申し入れに対して、町は安全確保などの条件付きで受け入れを表明した。=敬称略



 中部電力の浜岡原発リプレース(置き換え)計画で、30年以上にわたった1、2号機の運転が終了した。大きな時代の変化を迎えた地元、御前崎市。関係者の証言などから浜岡原発の歩みをたどった。(浜岡原発問題取材班)

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 ▼水野成夫(みずの・しげお、1899―1972年) 佐倉村(現・御前崎市佐倉)生まれ。1940年に大日本再生製紙を設立。46年に経済同友会幹事、51年に国策パルプ社長、58年に産業経済新聞社長などを歴任し、時の池田勇人内閣を支えた「財界四天王」の一人に数えられた。


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耐震性に疑念今も データ公表残る責務/第6部 教訓(2)


 「30年以上も前の話。設計者でさえも日本の地震の怖さを今ほど意識していなかった」。5月上旬、千葉県内のワンルームマンションで、元技術者の谷口雅春さん(67)が4年前の告発の真意を静かに語り始めた。原子炉メーカーの関連会社の技術者として中部電力浜岡原発2号機(御前崎市)の設計に携わった。2005年4月、「2号機の耐震性に疑念がある」と静岡県庁で会見した。 (2009年5月29日 静岡新聞朝刊)


 2号機の設計は1972年ごろ。谷口さんは炉内構造物の設計を担当していた。当時の手本は米国の原発だった。「米国の図面通り造っておけば日本の地震でも大丈夫だろうという空気があった。図面も基本的には米国の流用で、設計と言っても、極端に例えれば英語の図面を日本語に訳したり、インチをセンチに直したりするくらいだった」。東海地震説が発表されたのは、それから約4年後のことだった。

 中電が1、2号機の廃炉を決定したのは08年12月。「驚きはなかった。たとえ廃炉にしたとしても、1、2号機が本当に東海地震にもったのか、もたなかったのか―を明確にする説明責任は残る。このまま『ほおかむり』することは許されない」。谷口さんの疑念は、ますます強まった。

 05年1月。「現状で耐震安全性はあるが、さらに耐震性に余裕を持たせる工事を行う」。中電は突然、5基すべてを対象に全国初の「耐震裕度向上工事」を自主的に行うことを発表した。

 東海地震の2〜3倍に相当する1000ガルの揺れにも耐えられるように配管や排気筒などを補強する工事。中電は「東海地震の不安がある地域で原発を運転するにあたり、住民の安心感を一層高めてもらうため」と説明する。

 1、2号機を1000ガルの揺れに耐えられるようにするにはどうしたらいいか―。3〜5号機とは対照的に、検討は難航した。

 「08年7月ごろになって、建屋の免震化が必要だと分かってきた」。中電の担当者が明かした。免震化は、基礎と建屋の間にゴムや鋼板などでできた免震装置を設置して、地震の横揺れが建屋に直接伝わらないようにする工法。1、2号機の場合、既存の原子炉建屋と基礎の間に免震装置を取り付けなければならない大工事になる。国内に先例もなかった。

 工事費は1500億円とはじき出された。研究期間も入れて10年以上の工期が必要だった。加えて、免震化でカバーできない縦揺れに対して余裕を持たせる補強工事などに1200億円、炉心隔壁(シュラウド)の交換に300億円―。1、2号機の運転再開には計3000億円もの巨費が必要とされた。こうして、「廃炉」が現実味を帯びていった。

 「免震化まで検討していたなんて。東海地震に耐えられるという説明は本当だったのか」。地元住民のいぶかる声も聞かれる。1、2号機と同じように、30年以上前に設計された原発は国内に20基ほどある。住民への説明責任や知見の共有のためにも、中電には1、2号機の耐震データの公表が求められている。 (浜岡原発問題取材班)

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