涼風野外文学堂

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東浩紀はほんとうに駄目になってしまったのか?

2007年07月31日 | 読書
 前回のトピックスに対して、せっかく馬頭親王様から鋭いコメントを頂いたのに、日常の瑣末な事柄に追われまくっているうちに半月以上も放置プレイ……あまりに申し訳ないので、馬頭様への返答を兼ねて、最近の東浩紀に対して涼風が思うところを少々。

 とか言いつつ実際のところ、涼風は「動物化するポストモダン」から先の東浩紀の著作をろくに追いかけていません。『郵便的不安たち』が明晰な書物であり、これに比べれば『動物化するポストモダン』を始めとするその後の著作はクオリティが劣るものだと言わざるをえない、という点について、涼風は「ああ、きっとそうだな」と思える程度に同意できますし(この辺り馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」から6月4日付け「期待すればこそ」を参照のこと)、涼風が東浩紀の著作を追っかけなくなったのは、『動物化するポストモダン』以降、さまざまな場面で「がっかりさせられてきた」からだと言って差し支えないでしょう。
 さて、先日の記事で触れた『SIGHT』連載の東浩紀の記事『東浩紀ジャーナル第5回:現代思想の復活と新しい国家論』ですが、この記事は要約すると「萱野稔人と対談したら面白かったよ」というだけの超・自己満足テクストで「あーはいはい分かったから帰ってオナニーして寝てろよこのクズ野郎」と思わず言ってしまいたくなります。しかしまあ、そんな気持ちをぐっとこらえてこの記事をもう少し細かく読んでみると、要するに「福祉国家論の萱野vsリバタリアニズムの東」という議論が面白かったよ、という話です。フランス思想をホームタウンとする2人のことですから、アメリカ現代思想にはもしかしたら疎い(あるいは、興味がない)のかもしれませんが、リバ=コミュ論争の縮小再生産を今さらやってどうする。

 今回、このたかだか4ページの記事から、現在の東浩紀の立ち位置というものを、随所に窺うことができます。たとえば、

 現在思想の議論は、凡庸な状況認識と難解なテクニカルタームを一足飛びに結びつけ、自己満足に終わるものが多い。互いの政治的立場が異なっても、萱野氏と筆者は、そのような自己満足を避ける意志だけは共有していた。
 おそらくその意志は、筆者たちがともに、二〇代にポストモダニズムの洗礼を浴びながら、その力が急速に衰えていく時代を長く見てきたことに由来している。筆者たちは現代思想の力を信じているが、それがそのまま通用するとは思っていない。というよりも、思えない。その諦念が、抽象的な議論に、独特の手触りとわかりやすさを与えている。


 というような記載があります。はっきり言ってこの表現そのものが陥っている自己満足のまずさに比べれば、一般的な現代思想の言説が陥りがちな自己満足など可愛いものだ、とも思えるのですが、ともかくここから読み取れることは、東浩紀に「ニューアカデミズムの嵐とその爪痕」が常に大きな影を落とし続けているということ、そしてそれを回避しようとして、一般的な現代思想のテクニカルタームを回避しようとすればするほど、結果的にニューアカデミズムの例とよく似た陥穽に陥っているということ、であるように思えます。
 したがって、ここであえて意図的に、東浩紀に同情する視線でもって再読してみると、ニューアカの負の遺産というのは、東らの世代にとっては、ほとんどアレルギーと言うべき反応が示されるところのものなのだ、ということが読み取れるのです。ともかく、ニューアカの同じ穴に転落するわけにはいかない、という気持ちが何にも増して先立つので、小手先でいろいろ細かくこね回して回避しようとするから、その手垢に塗れた分だけ、テクストが明晰さを失っていく。先日の記事で涼風が東浩紀を「策士策に溺れる」と評したのは、要するに、そういうことだと思うのです。

 これと比較すれば、彼のデビュー作と言うべき『ソルジェニーツィン試論』辺りを含む『郵便的不安たち』が明晰な書物であったことは、むしろ当然のことなのでしょう。簡単に言ってしまえばそれは「若さ」なのかもしれません。姑息な計算が先に立たず、あっけらかんとしていることが、テクストに活力と明晰さを与えるのでしょう。
 そのような観点からすれば、この『SIGHT』誌全体が「あっけらかんとした作り」である中で、東浩紀だけがただ一人「苦悶し、試行錯誤し、のたうち回っている」がゆえに「姑息な計算が鼻につき、活力を失し、明晰さを欠いている」という結果に陥っている、との説明も成り立つと思います。
 かような事態を打破するために、東浩紀にはどこかで「軽やかさ」を身に付けていただきたい、と、涼風は願います。ここで「軽やかさ」と言うときに、涼風の脳裏によぎる第一の人物は柄谷行人で、第二の人物はアガンベンです。思い返せばデリダにも、時空を自由自在に泳ぎ回るような、ある種の軽やかさが常に伴われていたのではないでしょうか。願わくば、東浩紀もそのような「軽やかさ」の方向へ足を踏み出してもらいたいものです。現代思想のテクニカルタームを毛嫌いして遠ざけるのではなく、手懐けて使いこなしてこそ、道が開けるのではないでしょうか。ハイカルチャーもサブカルチャーも、政治も思想もエロもオタクも、分け隔てなくごった煮にして語っていただきたいものです。

 補足。
 リバタリアニズム批判については、涼風の専門分野ですので大いに語りたいところですが、ここでは簡単に以下の2点を指摘するにとどめます。

1:リバタリアニズムはその前提として、ロック由来の「自然人」のイメージを描いており、これは「真に自律的な主体」という幻想を抱いているものと批判できる。現代思想のテクニカルタームを用いれば「主体≒現存在の被投性」を無視した架空の議論であり、したがって実験室の実験と同様、特定の条件の下で特定の帰結をもたらすことの観察としては興味深いとしても、現実の社会の分析に当てはめるには、不適切なツールである。

2:ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がロールズ『正義論』の批判として記された経緯から、両者は「自由至上主義的リバタリアニズム」と「福祉国家的リベラリズム」の正典であるかのように扱われ、種々の(往々にして不毛な)議論を呼んだが、そもそも自著がこのような運動を引き起こすことは、ノージックの本意だったのかどうか。読み方を変えれば同著は「ロックの自然状態からスタートするもっとも極端な仮定から論を展開しても、やはり『最小国家』としての国家を否定できない」という、国家擁護論として採用することも可能なのではないか。


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2 コメント

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リバタリアニズム批判が専門とはこれまた (馬頭親王)
2007-08-01 20:54:41
畏ろしいことを仰いますね(汗
わたくしは、そのあたりは完全に門外漢なので、素直にお教えを請いたいところなのですが、涼風様が書かれている"「真に自律的な主体」という幻想"と、それに対する"「主体≒現存在の被投性」"というのは、次のような解釈でよいのでしょうか?

「人間は身体的特徴や所属する家族・地域・社会といった自ら選ぶことの出来ない要素にまみれて生まれてくる。したがって、真に自律的な主体(デカルト的主体?)は幻想としてのみ可能なものであり、実際には主体および主体の思考はさまざまなバイアスの強い影響を脱し得ない。したがい、自らの存在を自然人(=リバタリアン)と規定し、その立場から発せられた思想・言論は、当人の属する社会に易々と回収されてしまう」

まあこれは生徒の答案みたいなものですが、どうでしょうか。
そういう意味では何万人のリバタリアンが居たところで、その社会に対する影響はコミュニストのそれと大した違いはないのであり、それはノージックの著作にも暗示されているのだけれど、うまく読まれていない、ということでよろしいですか?

ちなみに先日、ジジェクの『厄介なる主体』の第二巻の邦訳がようやっと完結いたしましたので買ってきたのですが、この書物のテーマは「デカルト的主体の擁護」というものでした。残念ながら完読には至っておりませんが、ハイデガーにも造詣の深い著者のこと、おそらく主体とその被投性をめぐる議論にも多くの示唆を含んでいることでしょう。

思うに、たしかにリバタリアンとしての「幻想」は捨て難いものであり、きっと人間はあと何百年経っても、それを捨てることは出来ないのではないでしょうか。誰も「自分は考え行動しているようで、実はあらかじめ既定されたものを考えさせられ、行動させられている」とは思いたくないでしょうし。
なんだかジジェクとサルトルを折衷したような結論に行ってしまうのがナンですが、自らの被投性を引き受け、それを自ら欲する(意図する)ものと合一させるというあたりに、逆説的な「主体の確立」の道があるのではないでしょうか。ちょい抽象的な話で申し訳ありませんが。

それでは、べつにお返事急ぎませんので。また……
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専門は言い過ぎでした。 (涼風。)
2007-08-26 02:24:08
 お返事急ぎませんのお言葉に甘えて甘えすぎました(汗)。
 専門分野というのはちと大仰な物言いでした。大学で政治哲学を学んでいた関係で、ゼミ論のテーマにノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」を選んだ、というだけのことなのですが。

 そもそも、ゼミ論のネタに同書を選んだ理由は、リバタリアンの聖書とも言うべき評価を受けている同書について、ポストモダンにヤラレた若者の頭で罵倒し尽くすことを予定していたためだったのです。
 ところが、大学4年の夏休みを返上して、就職活動もせずにひたすら読み返すうちに、これはちょっと当初の予定と違うぞ、と感じてきました。ロックの自然状態を前提として、演繹的に最小国家の正当性を肯定する手法は、確かにノージックが確立して多くのリバタリアンの教科書となったものですが、それにしては、大半のリバタリアンは同書の言う「ユートピア」の部分をろくに評価していないのではないか。というより、ノージックの言うユートピアというのは、ある意味コミュニタリアン的なのではないか、という誤算に突き当たったのです。

 私がこのエントリで挙げた「真に自律的な主体という幻想」だの「主体≒現存在の被投性」だのについて、今さら馬頭様に対して補足説明する必要はないと信じておりますので(というより、馬頭様のコメントが実に的確な補足説明になっておりますので)、ここでは「アナーキー・国家・ユートピア」の涼風的解釈の部分についての補足を中心に書かせていただきます。
 コミュニタリアンによるリバタリアン批判の典型的なパターンとして、リバタリアンの描く最小国家において尊重される「自由」とは、「行為」についての自由(何をするか=doing)であり、この最小国家は「存在」についての自由(どのようなものとしてあるか=being)に無関心であるので、却って不自由をもたらす、というような言説があります。
 このような批判をかわす装置をノージックは同書のうちに既に用意していたものとみえ、それが第3部において(大半のリバタリアンからすればほとんど付け足しのように見える中で)語られる「ユートピア」の部分であると思われます。
 ノージックはそのユートピアの中で、beingの欲求に対応するコミュニティを想定する一方で、コミュニティの政治的自力執行権を禁じ、その「外枠」としての最小国家(したがって「最小」国家と言いつつも、その領域的には決して小さからざることが想起される)に警察権を委ねることを考えています。
 このようなユートピアを、現代的な「国家」の領域的広がりにおいて解釈しようとすることはおそらく誤りであり(こう言うとき私は、ユーゴスラヴィア連邦の悲劇的な終焉を想起しています)、むしろこのユートピア論の部分は「世界国家論」的に解釈するのが正解なのではないかな、と思います。
 とすると同書は、巷間に溢れるリバタリアンたちの「国家の干渉がより少ない『最小国家』こそが正当である」というような、いささか短絡的にすぎる、(領域的に)狭隘な解釈の射程を超えうるものなのではないか、とも思えてくるのです。ううむ、やるなノージック。そこらの二束三文のリバタリアンどもとはわけが違うぜ。

 それでもなお、ノージックも「ロックの自然人」を前提に置いている点において多くのリバタリアンと変わりはないので、その部分については、自然人に当然備わっているものとされる自己決定能力や自己統治能力について疑問を向けることが、有力な批判たりえます。
 そしてそれは、デカルト的主体(最後に疑うことのできないコギト)に対し、現代思想が加え続けてきた批判を、ほとんどそのまま応用できるものです。そのような意味合いから、現代思想をある程度学んでくると、リバタリアニズムなどという潮流にはなかなか容易に与することができないものなのですが、さて、それなのに東君ときたらエロゲのやり過ぎで頭がおか(以下自粛

 ところで、ジジェクの『厄介なる主体』については、1巻を買ったきり積ん読の山の中に埋もれております(汗)。いや、これは俺絶対読まなきゃいけない本だろ、と自覚してはいるのですが、最近そもそもろくに本を読んでおりませんで。
 おそらく現代思想に通底する「デカルト的主体の呪い」とでも言うべきものはなかなか拭いがたいものであって、ポスト構造主義をある種の終着点とする現代思想の一大潮流は、ひたすらこの呪いに打ち勝つべく「悪霊払い」を繰り返してきたという分析も可能なのでしょう。そうした悪霊払いが急速に力を失いつつある昨今、ネオコンだの市場原理主義だの「呪い」にほとんど無抵抗で絡め取られているような輩がでかい面をしている状況を、(涼風を含め)多くの「かつての左派言説の支持者」たちが苦々しく見つめる中で、希代のひねくれ者ジジェク君が、いかにして「デカルト的主体の擁護(再評価?)」をやらかしてくれるのか。ゆっくりと読み進めてみようと思います。
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