日々の寝言~Daily Nonsense~

内田樹「下流志向」読書メモ

学校システムの「リスク化」と「二極化」
「リスク化」とは、社会の不確実性が増し、良い大学を出ても、
大企業に入っても、それが生活の安定や幸せを保証してくれる
かどうかが不確実になっていることであり、
「二極化」とは不確実性の中で、たまたま努力が報われたものと
報われなかったものとの間の格差が大きくなることである。

その結果として、学校システムに不信を抱き、
そもそも努力しなくなると、さらにそれによって没落し、
格差が広がってゆく、という悪循環。(P.96)

リスク社会では、そこがリスク社会であると認める人、
すなわち、不確実性を意識させられる人に、
リスクが降りかかる可能性が高く、
そういう人はそれによってさらに不確実性の意識を高めてゆく。

一方、巧みにリスクをヘッジすることができる人々は、
それによってシステムへの信頼を失わずに済み、
あたかもリスクが存在しないように振舞うことが可能になる結果、
その相互信頼によってさらに巧みに
リスクをヘッジすることができるようになる。(P.99)

リスクヘッジすることにより、
正しいソリューションを確定するために必要な
コストを削減することにもつながる。(P.111)

無駄をゼロ(=効率最大)にするためのコストの大半は
おそらく無駄であり、無駄をゼロ(効率最大化)にしたことによって
生じた利益よりも、そのコストのほうが大きい
ということはごく普通にありえる。

「間違ったら死ぬ」というような条件ではじめて、人間は
「正解するにはどうするか」ではなく「間違わないためには
どうするか」を優先的に考える。(P.113)

選択した政策が正しいか間違っているか、それをあらかじめ
言うことができない以上、それが正しかった場合も間違っていた場合も、
「丸損」しないように手を打っておくのが治国の基本である。(P.115)

「無駄ゼロ」「正しいソリューションだけを選択するべし」というような
ことを平然と言える背景には、社会のリスク、不確実性が
極めて低かったということがある。

リスクヘッジというのは「集団として生き残る」
という明確な目標を掲げ、
そこで集団的に合意されたプランにしたがって、
整然と行動する人々のみが享受できることである。
「個人がリスクをヘッジする」
ということは原理的に不可能である。(P.120)

このことは、山登りでのパーティーを考えればよくわかる。
その中の生還者の期待数を増やすことを目的として、
裏切らないという関係で結ばれた集団によってはじめて
リスクがヘッジされるのであり、一人ひとりが自己決定していたら、
たとえばガイドは真っ先に逃げ出すことになり、
単純に弱いもの、あるいはたまたま運が悪いもの、から順に
犠牲になるだけのことで、リスクヘッジなどありえない。
その結果、生存した人がもう少しだけ我慢すれば
死ななくても済んだかもしれない命が失われることになる。

もちろん、自分の資産の中でポートフォリオを組んで
リスクヘッジするということはありえるが、
ここで話しているのは、
一人の人間の生存にかかわるようなリスクに関することである。

無駄ゼロとリスクヘッジは両立しないということも重要だ。
リスクをヘッジするということは、そのためにとった行動の
いくつかは無駄になる、ということが前提だ。
それでも、全体としての期待効用が上がればよい、
ということである。無駄をゼロにしてしまうことは、
最も見込みがあるプランAしか準備しない、
それ以外のプランB、Cは無駄だ、ということであり、
リスクに対して非常に脆弱になるということである。

国家というのは、本来、リスクヘッジのための組織でもあるのであり、
そこにおいて「無駄ゼロ」というようなおかしなことが
平然と言われているという状況はまさに天下の奇景だ。

「自己決定し、その結果については一人で責任をとる」
というのはリスク社会が弱者に強要する生き方=死に方である。(P.120)

「リスク社会をどう生きるか」という問いは、
「決定の成否にかかわらずその結果責任をシェアし、
薄めることができる相互扶助的集団をどのように構築することが
できるか?」という問いに置きかえられねばならない。(P.121)


「銀の匙をくわえて生まれてくる人間」というのは、
生まれたときにすでに無数のステークホルダーたちの
ネットワークに搦め捕られている人間のことです。
彼らのアドバンテージは、主に彼らが自己決定を放棄したことの代価
として提供されたものであり、彼らの属する「強者連合」が
彼に期待している役割を遂行している限り、彼が冒すリスクは
集団全体がヘッジしてくれる、そういう相互扶助組織の中に
ビルトインされている人間が、今の日本の強者たちを形成しています。

その反対の極に社会的弱者がいます。
弱者とは端的に言えば「相互扶助組織に属することができない人間」
のことです。獲得した利益をシェアする仲間がいないというとは、
困窮したときに支援してくれる人間がいないということでもある。
それがリスク社会における弱者のあり方です。(P.122)

リスクヘッジに不可欠な相互扶助・相互支援というのは、
平たく言えば「迷惑をかけ、かけられる」ということなのだから、
「迷惑をかける」「迷惑をかけられる」ような他者との関係を
原理的に排除すべきではない。(P.126)

排除されるべきは、「迷惑」が知らない間に、
一方的に、ある階層や特定の人々(=弱者)に集中して
押しつけられているという状況だけだ。
しかし、日本の社会は、いままさに、そういう状況にある。

自己決定・自己責任という生き方を貫けるのは強者だけだ。
そして、リスク社会における「強者」とは、その定義からして、
相互扶助・相互支援のネットワークに属しており、そのおかげで
リスクをヘッジできているものに限定される。したがって、
論理的に言えば、リスク社会には自己決定・自己責任を貫けるような
強者は存在しない。いるのは、自己決定・自己責任という誰かに
押しつけられた原理に忠実な弱者だけである。(P.127)

「百パーセントの自己決定、自己実現」という有りえないものを
求める人間は、論理の必然として、自分以外に誰が存在しても、
それが自己実現の妨害者になるという不快な条件を生きなければならない。

「自立」というのは、属人的な性格ではない。
「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても、
それだけでは自立した人間にはなれません。
その人の判断や言動が適切であることが経験的に確証されたために、
周りの人々から繰り返し助言や支援や連帯を求められるようになった人が
「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。
「自立」は名乗りではなく、呼称です。周りの人から
「あの人は自立した人だ」という承認を受けるということです。
「自立」というのは集団的な経験を通じて事後的に獲得される外部評価です。
多くの他者にとりかこまれ、そのネットワークの中で絶えずおのれ自身を
造形し、解体し、再改訂し、ヴァージョンアップするのが「自立した人間」
です。(P.129)

「自立した人間」と「孤立した人間」は全く違う。
市場経済が、(見かけ上)一人でも生きられる安全で便利な
環境を整備しているため、この二つが
間違えられやすくなってしまっている。

社会全体のリスクが高くなってきたために、
「孤立していること」の脆弱さが明確になってきただけだ。

相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、
「将来のことを考えるよりも今を楽しみたい」と思うほど
「自分には人よりもすぐれたところがある」という<自信>が
強まるのである。(P.133)

「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、
きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張する彼らの
言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性に僕たちは驚愕する(P.136)

国母選手「自分らしさは貫けたから
(試合に負けても)よかったと思う」

一定数の子供たちは、学びを放棄し、
学びから逃走することから自己有能感や達成感を得ている。(P.137)

「自己決定すること、それ自体がよいことである」という思想を、
「みんな」が共有することが声高に求められている(P.142)

自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益を
もたらすものであってもかまわない、という
自己決定フェティシズム(P.140)
それが、社会の深層的基盤であればまだよいが、
日本の場合には、たまたま国策として共有され、
教育の中で注入されているだけ(P.143)

「みんな自己決定、自己責任の時代なんだから、
きみもみんなと同じように自己決定しなさい」(P.143)

教育を受けることは権利であり、
それを義務として規定していないのは、
空腹になったらご飯を食べなければならない、
というようなことが規定されていないのと同じことだ(P.147)

転職を繰り返すのは「よりよい雇用条件」を求めて
行われているはずだが、実際には、転職を繰り返す人は、
主観的にはキャリアアップをしているつもりでも、
長期的には階層下降しているケースが多い。(P.154)

「こんな仕事やってられるか」という不満を抱えて
仕事している人間が周りの人から尊敬されたり、
信頼されたりすることはむずかしい。

仕事がつまらないから、職場での人間関係に投資しない、
仕事の質を上げる努力も怠る、その結果、勤務考課は下がり、
さらにつまらない仕事しか与えられなくなり、
耐えきれずに転職する、という悪循環。それでも本人は
「よりクリエイティブでやりがいのある仕事を求めて転職した」
と総括する。(P.154)

反復強迫の罠にはまった人間は、
自分の過去の決定を成功とみなしたことを維持するために、
無意識的に間違った決定を繰り返す。(P.156)

「他者との交換をする」ことへの
やけつくような欲望がすべての社会制度の根本にある。(P.163)

労働に対して支払われる賃金は、
労働者の作りだした価値から「交換のための原資」を
控除した残りである(P.164)

労働とは本質的にオーバーアチーブである(P.162)

労働には、それを可能にするインフラが必要であり、
さらには、それを整備拡大してゆく必要がある。
したがって、労働者が差し出す労働に対して得られる賃金は、
労働と等価なものではありえず、常に少ないものになる。

したがって、労働することは、アンフェアな交換である。

そんな「割りの悪い」交換には応じられない、
と思う人には、何も与えられない。

消費者というのは、自分が買う商品のスペック、
自分にとっての価値を既に知っているということが前提になる。(P.174)

しかし、教育については、自分が学ぶことの価値が
あらかじめ分かっているなら、それを学ぶ必要は無い。
労働についても、自分がすることの価値があらかじめ分かっている
ということは本来少ない。それが可能であるように見えるのは、
完全に規格化された生産工程があるからだ。

したがって、教育、学び、労働、より広く、
人間形成の場面に、合理的な消費者として向かうこと、
そうした場面において、市場における等価交換の言葉を使う
ことは不適切であり、さまざまな、偽問題を生み出す。

「それを勉強することにはどんな価値があるんですか?」

市場において「割りの良い/お得な取引」「おいしい思い」
が出来る者がスマート・有能であり、「割りの悪い取引」
をしてしまうのは馬鹿・無能である、という価値観は、
こうした割にあわない取引を拒否、忌避し、
できるだけ割りの良いものにしようとする(値切る)態度を産む。

しかし、学びも、労働も、より広く人間的な成長を
もたらすような営みには、本質的に情報の非対称性が
あるはずで(だからこそ成長の余地がある)、
必然的にアンフェアな取引を内包している。

自分にとって意味のわからないものを
「なんだかよくわからない」ままに受け止め、
いずれその意味が理解できるような成熟の段階に自分が
到達することを待望する。そのような生成的で時間のかかる
プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができる。(P.181)

逆に言えば、あらかじめ自分の枠を用意しておき、
すべてをその中に整理しようとするものにとって、
「学ぶ」ことは難しい。

知性とは、自分自身を時間の流れの中に置いて、
自分自身の変化を勘定に入れることだ。(P.182)

無知とは、時間の中で自分自身もまた変化するということを
勘定に入れることができない思考のことだ。(P.182)

市場における消費主体として生きる、すなわち、
無時間的な即時の等価交換、投資の速やかな回収、
を最上の価値として生きることから、
おのれの無知に固着する欲望、
交換主体である自分は変化してはならない
という禁忌が生まれる。(P.183)

子供の発信するノイズからシグナルを読み取ることが、
親の最大の役割である。(P.199)

無能な親は、無能な経営者・管理者と同様に、
ノイズ=意味のわからない知らせ、を
聴きたくない知らせ、として故意に聴き落とす。(P.199)

同じことは、たとえば恋人や夫婦同士の間でも容易に起こる。
だから、一般化して、他者が発信するノイズから
シグナルを読み取ることが、社会的な人間にとって
最大の問題である、とも言えるだろう。

ノイズだったものがシグナルに変わるプロセスが
「学び」のプロセスである。(P.200)

コミュニケーションというのは時間的な現象である。
文の最後の言葉を聴いてはじめて文の最初の言葉が何だったかがわかる
ということがある。(P.201)

実際にやっていることは、センテンスの最後まで聴いてから
最初に戻って文頭の語の意味を確定して、それから文末まで戻って、
というような時間の中での「行きつ戻りつ」である。(P.201)

チェリビダッケ「最後の一音を聴いて、最初の一音の意味がわかる」を思い出す。
そうではなくて、途中の音の美しさ、つながりの流暢さ、心地よさなどに
目が行くのは、滑らかだが内容のないスピーチを聴いているようなものか。

生きるということは、いわば一つの曲を生涯をかけて
演奏するということだ。(P.202)

孔子の六芸のひとつに「楽=音楽」が掲げられているというのは、
「時間意識を持つこと」、「人間は時間の中の存在であると知ること」
が知性の基礎だということを古代の聖賢は熟知していたからではないか。
(P.203)

「製品」は歌わないけれども、子供は歌っている。
それを歌として聴きとれるのはとりあえず親しかいない。(P.204)

私たちが(等価交換=ビジネスの)無時間モデルに魅入られてしまうのは、
その単純さ、リアクションがすぐに返ってくる点が多くの快楽を
提供するからである。(P.206)

それはつまり、ギャンブルの快楽、パチンコやスロットの快楽だ。

こういうショートスパンの活動は人間に強烈な快楽を与える。
人間が生きる上でこういう無時間的な活動のもたらす快楽は
やはり必要だと思われる。けれども、無時間モデルの罠は、
あまり気持ちがいいので「それだけ」になってしまうということにある(P.206)

師たる人は自分の意見を述べない。
「わたしはこう教わった」と言う。

「師であることの条件」はたった一つ「師を持っている」ことです。
弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっている
という感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、
自分は一つの環である。長い鎖の中のただひとつの環にすぎないのだけれど、
自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を
抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ
(P.210)

師匠を持たないものは敗れる(P.212)

師弟関係で重要なのは、どれほどの技量があるとか、
何を知っているという数量的な問題ではないんです。
師から伝統を継承し、自分の弟子にそれを伝授(パス)する、
師の仕事において絶対に不可欠なのはそれだけなんです(P.212)

この簡単なことが忘れられ、
学級崩壊が教師の質のせいにされ、
教師の技量の定量評価や再教育が行われる・・・
なんという滑稽、なんという無駄。

もちろん、技量の差はあるだろうし、
中には不適格な人もいるのだろう。
しかし、上のことに比べれば、些末と言わざるを得ない。
そして、そうした些末にかまけることで、さらに教師は忙しくなり、
大切なことが失われてゆくという悪循環。

職業には適性というものがあるわけで、
一言で言えば、その職業を通じて何か社会の役に
たちたいという使命感のことである(P.226)

かつて自分がそうであり、これから自分がそうなるかもしれないもの
として「家庭内弱者」をとらえたときにはじめて、
家庭内の誰かに過度の負担をかけることもなく、
行政に丸投げするのでもなく、弱者たちをどういうふうに
細やかにすくい上げてゆくかという問題が「自己救済」の
問題として立てられることになる(P.236)

親し過ぎず、疎遠すぎずというようなあいまいな親密圏を
作るノウハウを僕たちは六十年かかかって棄ててしまった。(P.238)

今は家の中に(お手伝いさんのような)他人を迎え入れて共生する
能力がなくなってしまった。ふすまと障子だけの仕切りで
公私の切り分けができるというのは、かなり気配りができないと
むずかしい。かなりの身体・言語能力である(P.241)

各種の便利な道具にサポートされた
不規則で自由な生活は予測可能性を低下させ、
時間シミュレーションの能力を減退させる。
それによって時間感覚や時間をかけて変化することが
忘却され、刹那的なセンセーションのみが価値となる。

生活の中に時間性を回復するためには、(イチローのように)
自分の「ルーティーン」を確立することが重要であり、
それが出来る者だけが、刹那的に消費されるものではなく、
何か長期的に形のあるものを残すことができる。

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こうして書きぬいてみると、いくつかのトピックが並列している。
まず、「消費者としての存在」がある。
それが、割の悪い取引を忌避し、
学びや労働からの逃走をもたらす、という論点。

もうひとつは、「リスク社会をどう生きるか」。
日本人はリスクが極めて低い社会に慣れてしまったために、
リスクヘッジの仕方を忘れている。
そのことがまた、理想的な等価交換や自己決定への固執、
を産み、学校システムが機能しない状況を加速している。

そもそも「消費者として存在」することが
ここまで肥大できたのも、リスクが少ない、
きわめて安定した消費市場基盤が存在していたためだ。
そういう意味では、この環境に適応したということが
一番の根ということになりそうだ。

高度に発達した消費市場基盤
→消費者としての存在&リスクヘッジの忘却
→理想的な等価交換や自己決定への固執
→人間形成の不全
というふうにまとめることができそうだ。

リスクをヘッジするような関係というのは、
意図的に結ぶことはなかなか難しい。
山岳パーティーのような目的がはっきりしている場合は別だが、
それにしても、なぜこいつと?という問題が生まれる。

だからこそ、先験的に存在する共同体、
というような形で与えられることが一番自然なのだ。

人工的な祭りのために人工的につくられる共同体が
どこか嘘くさくて不自然なように、
改めて作るとなると難しい。

しかし、それが有効に機能しない今、
そういうものを持たない人は、
なんとかそれを自分で作らなくてはならない。
それはかなり大変なことだ。特に、弱者にとっては。
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