禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

万能の神は自分が持てないほど重い岩を作ることができるか?

2015-09-30 11:41:38 | 哲学

インターネットで「パラドックス」を検索するとおびただしいヒット数がある。パラドックスというのは人々の好奇心を引き付けるものらしい。自分の思考にしびれるような刺激がほしい、そんな欲求が人にはあるのだろう。

本日のタイトルは、「神の非存在」に関するお手軽な証明に使われる設問である。 これのどこが問題となるのだろうか?

万能とはどんなことでもできるという意味である。だから「神が持てないほど重い岩」をも造れるのではなくてはならない。だが、神は万能ゆえに「神が持てないほど重い岩」をも持ち上げることもできるはずである。できなければ万能の神というものも存在しない?

矛盾率という言葉をご存じだろうか。同時に背反する事実は成り立ちえないという規則である。「そんなことはない、私はあの人を愛しているけれど、ちっとも愛していない。」という人がいるかもしれない。確かに愛しながら憎んでいるということはあり得るだろう。しかし、哲学でいうところの「矛盾」は心理学上の葛藤とは別のものであって、もっと厳密かつドライなものである。あくまで、「愛している」という感情があるという状態と、そのような感情がないという状態が同時に成立していることがないという意味である。

この矛盾率というのは私たちの思考の根本であると言われている。例えば、貴方が矛盾率を反証しようとしても矛盾率を使わないとそれを証明することができない。それで、(Wikepediaによれば)イブン・スィーナーという人は「無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ」と言ったそうだ。

それで、「万能の神」の話に戻ると、どうやらこの「万能」という言葉には問題がありそうである。ここでいう「万能」という言葉にはどうやら「言葉で表現できるあらゆることが可能である」という意味が込められている。しかし、言葉には矛盾する表現が可能である。例えば「丸い三角」というように。

三角形は丸くない。あるものが三角形でありながら同時に丸い、ということは明らかに矛盾率に背く。我々は決して丸い三角形を思い描くことはできない。つまり丸い三角形は形而上の領域のどこにも存在しない。我々は「丸い三角」と言葉としては言える、しかしそれが何を意味しているのかを自分自身知ることはできないのである。

「万能の神が持てないほど重い岩」も「丸い三角」と同様である、我々はそれを口にしながらその意味するところを知りえないのである。いくら神が万能であるからといって、意味不明なことまでできるだろうと要求するのはいうのは、過大というかあまりにも「テキトー」である。

今回は、禅にとっては最も縁遠いテーマを取り上げた。不立文字を標榜する禅においては、言語上の矛盾など生じようもないはずだからである。本日述べたことはすべて戯論と看過されたい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

婆子焼庵

2015-09-25 22:38:58 | 公案

婆子焼庵は公案の中でもとりわけ難透というカテゴリーに分類されている。つまり、難しいのである。しかし、なぜかインターネット検索でヒット数が多い公案の一つでもある。おそらくこの公案がセックスと絡んでいることが世俗的な興味の対象になっているのだろう。

≪ 篤志家のお婆さんが見どころのありそうな若い僧のパトロンとなって、生活の面倒を見ていた。20年ほど経た頃、その修行の成果を試したくなったので、若い娘にその僧を誘惑するように命じたのである。娘は僧に抱きついて、「どんな気持ち?」と聞いた。
 そこで僧は「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えた。冬の巌に立っている枯れ木のようなもので、何も感じないというわけである。
 それを聞いたお婆さんは、「わしはこんな俗物を長い間養っていたのか」と怒り、その坊さんをたたき出して、その庵も焼いてしまった。 ≫

公案に取り組むにあたっては、これを仮定の話と考えてはいけない。頭の中で「ああではなかろうかこうではなかろうか」と思案をするようなものではないということである。あくまで自分と公案が一体となって取り組むのである。そして私心を交えず誠を持って臨むということが前提となる。

一般に公案は修行者をのっぴきならない状態に追い込むような仕掛けになっている。この公案で言えば、娘を受け入れれば破戒僧になるし、冷たく拒否すれば慈悲の精神に背くことになる。一見、前に進むも後ろに退くこともできぬような状況から、八方丸くおさまるような機略を発揮しなければならないというのがこの公案の主旨である。

と、偉そうなことを述べてみたが、私はこの公案について実際に参禅したことはないことを断っておかねばならないだろう。そこに到達する以前に仏教に見切りをつけてしまったからである。なので、これはあくまで哲学的私見として述べていることをお含みおきいただきたい。

インターネットを検索してみて、曹洞宗の中ではこの僧と老婆の行為の双方を是とするような見解も一部にはあるらしい。状況の解釈次第ではそのような見方もできるかもしれないが、どうだろう、それではこの公案の意義がどこにあるのかが分からないような気がする。

やはり問題は、「枯木寒巖に依りて‥‥」という言葉にあるのではなかろうか。仏道修行は仙人修行ではないということである。何も感じなければある意味それは自由だと言えるかもしれないが、そのこと自体には何の価値もない。禅ではやたら「無」と言うので、ニヒルな印象も受けたりするが、決してニヒリズムにとらわれてはならない。ニヒルを尊ぶというのは仏教の主旨から大きく外れていると言うより真逆のことである。性欲を制御できないというのは論外だが、性欲の有る無し自体は本来仏教上の価値とは無関係である。

「枯木寒巖に依りて‥‥」の言葉には、自分の境地を誇っているような独善的な傲慢さが感じられる。坐禅をすれば不動心が得られるというのは本当だろう。しかし坐禅をするのは本来自己究明のためである、不変の真理を追究するため止むにやまれずするのであって、不動心はその結果付随してくるものである。「どんな気持ち?」と聞いた娘にとって、僧の不動心や境涯などどうでもいいことである。いい気持かどうか自分を好きかどうかを聞いたのである。

そのような観点から見るとき、「枯木寒巖に依りて‥‥」という言葉は少しずれているのである。はじめから試されていることを知っていたのなら僧の答えは100点だが、そうでなければ聞かれてもいないことに答えているのである。無私の心に徹していたならばそのような答え方はなかったはずだ。

僧はおそらく、自己究明ではなく不動心の方に価値を置いて坐禅していたのだろう。

 

(参考 ==> 「公案インデックス」

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やはり地動説でいこう

2015-09-23 17:05:30 | 哲学

前回記事では、天動説も地動説も架空のものであるというようなことを私は述べた。趣旨が誤解されるかもしれないので、もう少しこの件について述べておきたい。

この世界は一つのものであるとしても、視点によって見え方が様々なのである。しょせん天動説と地動説の違いも視点の相違によるものであり、それぞれがそれぞれの正当性をもつのである。

ただ、天動説は自己中心の単一の視点に依っているのに対し、地動説はより広範囲からの視点に耐えうるという点において科学的には優位にあると言える。夜空を肉眼で眺めている分には、天動説でも地動説でもどちらでもよい。直感的になじみやすいという意味では天動説の方が優れていると言ってもよいだろう。しかし、望遠鏡で惑星の動きを観測するようになると、途端に天動説は不利になる。惑星の複雑な動きも地動説によればシンプルに説明できるが、天動説ではアドホックな補足説明を付け加えざるをえなくなって途端に複雑になる。観測精度が上がれば上がるほど天動説の方はより複雑になって、ついには破綻してしまうわけである。

橋本凝胤師は科学者ではなく仏教の僧であり、自己を掘り下げることを旨としているわけで、天動説の立場をとるというのも理解できる。が、しかしどうだろう。仏教そのものが「一切皆空」というのである。絶対的な事実というものを認めていない。地動説が架空のものであれば天動説もまた架空のものである。

あえて天動説を主張するのも一つの見識だと思うが、固執すれば独断に陥る。仏教者は独断に陥ってはならない、空観は常に自分を相対化することを要求するはずである。

我々は究極の真実に到達できない。橋本凝胤師があえて天動説を主張したのはそういうことではなかっただろうか。つまり、我々は事実の世界に住んでいるのではなく、信憑性の世界に住んでいる。

かつて科学のない時代には、シャーマニズムがその役割を果たしていた。病気になったら、シャーマンが病巣に取りついた悪霊を追い払って治療していた。現代人は嗤うかもしれないが、確かにそれで病気が治癒することもあるのである。呪術によって悪霊を除くのと、抗生物質によってウイルスを排除することの間には本質的な違いはない。違うのは、それが拠って立つところの信憑性の基盤の広範さと強固さである。

現代人の情報量はかつてのどの時代よりも膨大である。しかもそれらの情報が緊密に絡み合っており、強固な信憑性の基盤となっているのである。私は決してシャーマンを嗤ったり軽蔑はしないが、やはり病気になったら、シャーマンではなく医者を頼る。虫垂炎はシャーマンには直せないだろうからである。

この世に信念対立が絶えないというのは、我々が究極の真実に到達できないということから来るのである。畢竟我々は有限な経験の上の論理的整合性に立つしかない。あえて主観的で偏狭な「真実」に執着することも論理的には可能である。「我々は事実の世界に住んでいるのではなく、信憑性の世界に住んでいる。」というのはそういう意味である。

かつて、「アポロ宇宙船は月になど行っていない。あれはスタジオで撮った画面をテレビで流しているのだ。」と主張する人がいたのを覚えているだろうか。常識的には突飛にみえても、哲学的厳密さでもって彼らの主張を論駁することは、実はそれほど容易ではない。彼らは彼らで論理的整合性のあるものの見方をしているのである。ニーチェは「真実などない あるのは解釈だけだ」と言った。この世界の解釈の仕方は実は無数に存在する。

だから、「ナチスのガス室はなかった。」とか、「南京大虐殺」は捏造だった」、「従軍慰安婦は純然たるビジネスであった」とか言い出す人もいるわけである。実証的な歴史学者の言うことに耳を傾けないで、自分たちの受け入れやすい事実だけをフォローしていけば、第三者から見れば奇矯に見える仮説に論理的一貫性をもたせることも可能である。

問題は、その命題が拠って立つところの信憑性の基盤がどれだけ広範であるかによる。社会的な問題では、私たちは常に自分を相対化することが必要である。受け入れにくい情報も進んで受け入れなくてはならないのである。現代に生きる我々はやはり天動説に固執するべきではないだろうと私は考える。

(関連記事)=>「天動説でもええやないか」


高麗川べりの曼珠沙華 (埼玉県 日高市)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天動説でもええやないか

2015-09-13 10:47:55 | 哲学

橋本凝胤というお坊さんをご存じだろうか。40年近く前に亡くなられたが、法相宗の管長で薬師寺の貫主をされていた。この人があるとき徳川夢声と対談をして天動説を主張したことがあって、それで一躍有名になったらしい。

  夢声 : ‥‥ それで天の方がぐるぐる回ってるんですか?
  凝胤 : まわっとるんです。
  夢声 : その方が便利かもしれないが‥‥。
  凝胤 : いや便利もなにも、その通りなんですよ。あんたら勝手に‥
  夢声 : 「あんたら」とおっしゃるが、その方が大多数です。
  凝胤 : 日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。
        そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。

そう、たいていの人はそう教えられたから地動説を信じているだけのことである。橋本凝胤さんは東大の印度哲学科を卒業している。一応地動説についてもそれが整合性のある説明であることは理解していると考えるべきだろう。そのうえで、「こっちがじっとしているのに、朝になっておてんとうさまが出てくる。向こうが勝手に動いてるのやよってにな。」という実感(事実)を忘れてはいけないということを言っているのだと思う。

もともと科学というのは仮説の集合である。天動説も地動説も推論により構成されたモデルに過ぎない。要は我々の経験を矛盾なく説明できればよいのである。一部の天文マニアを除いて、天動説で説明できないような経験をする人はまずいないだろう。見たまま聞いたままの「ありのまま」の世界が第一義とする仏教徒なら、唯識の学者僧である凝胤師が、より実感につながりやすい天動説を主張するのも理解できる。

これが禅僧であったならどうだろう。無門関の第29則に「非風非幡 」という公案がある。

風にはためいている幡(はた)を見て、二人の僧が言い争っていた。  
  僧A 「あれは幡が動いているのだ。」
  僧B 「違う風が動いているのだ。」
そこにちょうど、六祖慧能が通りかかり、次のように述べた。
   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない。
    お前たちの心が動いているのだ。」
さらに「無門関」の編者である無門慧開が次のような解説を加えている。
   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、
    心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」

二人の僧は幡がパタパタと翻っている同じ光景を見ながら、「あれは幡が動いている」、「違う、風が動いている」と異なる見解を述べる。同じ現状認識を持ちながら、原因分析が違う。しかし、禅僧の分析に如何ほどの意味があるだろうか?分析は科学者の仕事である。禅の世界観は原因ではなく結果重視である。(これはあくまで世界観の問題である。決して科学を軽視するということではない。)禅的に言えば、二人の僧は同じ事柄を違う言葉で表現しただけのことなのだ。

天動説も地動説もともにあくまで仮説なのである。問題は、学校で教わった地動説を「事実」そのものであると思い込んでしまうことにある。橋本凝胤師の「日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。」という言葉は、そのことに対する警鐘であると受け止めれば意味が通じるのである。

禅における不立文字というのは、概念を組み立てて出来上がったものが真実なのではなく、まさに眼前に展開されているありのままの状況が真実なのであるという真理観に基づいている。そういう意味では地動説だけではなく天動説もまた架空のものであると言える。

(関連記事)=>「やはり地動説で行こう」

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禅はカルトか?

2015-09-07 17:14:26 | 哲学

≪ 戦争や原発事故が起こって 初めて罪が発生するのではない。 戦争前、事故前の平和な時に 何もしないこと、 無関心でいることは 罪を犯しつつあることなのです。≫

ハンナ・アーレントを連想するようなメッセージであるが、臨済宗妙心寺派管長 河野太通老師の言葉である。日本臨済宗の最高指導者がこれほど明確にリベラルな立場を表明するのは珍しいことだ。老師ははっきりと安保法案にも反対しておられる。鎌倉時代から一貫して権力に寄り添ってきた臨済宗にあって、為政者の方針に異を唱えるのは歴史上はじめてのことと言っていいのではなかろうか。

河野老師も戦時中は当然のように軍国少年であったという。国家に身をささげるつもりが、敗戦で生きがいが崩れた。主義主張にとらわれない生きざまを見つけようと、仏の道を志したのだという。しかし、仏教団体も戦中は軍部に加担していたと知り衝撃を受けた。そのことに対するざんげと反省から声を上げねばと思ったのだという。

坊さんは世俗のことにあまり首を突っ込むなという意見もあるが、戦前戦中には日本の仏教界は皇国史観にやすやすと組み敷かれた実績がある。今この時期に仏教者として明確な態度表明しておくのは、河野老師の高い見識のあってのことだと私は思う。

禅語に「随所作主」というのがある。雑念なく真の意味で主体性を持っていれば、それがそのまま真実の境涯である。」というような意味であろう。しかしこれがなかなか難しい。真実の源泉というものは自分の内にしかないというわけだから、なかなか反省というものがしづらく、「泥棒するときは泥棒になりきればよい」というような独断的な考えになりかねない。わずかな私心でも混入していれば、我々の主体性は自由を失うのであるが、なかなか自分ではそれをチェックできないのである。

今私は「禅と戦争」(ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア著)という本を読んでいるのだが、その中で取り上げられている鈴木大拙の言葉を次に紹介する。

≪ 禅とは、武士と永遠の命、正義、神の道、道徳的観念を、必ずしも論じたわけではない。ただ人が一つの結論に達したとき、合理的であろうが非合理的であろうが、直進すべしと励ますのみ。哲学は知識人に安心してまかせればよい。禅は行動取るのみ。決心した以上、最も能率的な行動は、ふりむかず前進するのみ。この意味では、禅こそがまさに武士にふさわしい宗教である。 ≫ (「禅と戦争」114p.)

鈴木大拙が悟道の達人であり、高潔な人物であることは疑わないが、私には上述の言葉はカルトと区別がつかないのである。大義名分さえあれば迷わず人殺しでもすると言っているのである。魂の救済であると信じて、ボアするオウム真理教と同じではないのか?

「禅と戦争」には、井上日召の血盟団事件についても触れている。井上日召は山本玄峰の指導を受けていたのだという。山本玄峰は臨済宗の管長にして、終戦の詔勅「耐えがたきを耐え‥」を進言した人物である。山本老師は弁護人として井上を悟道の面から肯定的に称揚したという。

彼らは、「随所作主」から「天にかわりて不義を撃つ」ことを簡単に導出しているわけだが、真の主体性というものをはき違えているのである。彼らは自己犠牲がそこにあれば即それは純粋な行為、それは真の主体性に基づく行為だとしているのだが、それは浅はかなことのように思える。その自己犠牲という純粋性に陶酔している時点で、すでに時代性に取り込まれているのである。真の主体性は真に自由でなくてはならず、その判断は普遍的でなくてはならない。普遍的であるとは時代や地域に左右されないということ、例えばその人が例えばアメリカに生まれていたとしても、同じ結論に到達できなければならないということでもある。どんな人も聖人ではない、時代やコミュニティの風潮に束縛される。自由ではないのだ。「随所作主」は理想であっても実現は難しい。人は天にかわることなどできないのである。

一般に禅をやる人には不殺生戒を軽く見る人が多いような気がする。不殺生戒の対象はあらゆる生物になるので、現実には実行不可能であることから、意図的にこれから目をそらそうとしているようにも見受けられる。しかし仏教徒であるなら、実現不可能だからと言って無視してよいということにはならない。我々は他者の命を犠牲にしなければ生きていけない。その矛盾が釈尊の出家の動機の一つにもなっているのである。釈尊と同じように悩みながら不殺生戒となんとか折り合いをつける。禅がカルトに陥らないためには、それが必要なことのように私には思える。

井上日召はテロの正当性の根拠として、無門関第14則「南泉斬猫」を引き合いにしていたという。南泉の猫を斬る行為を大慈悲心によるものとして、同様に自分も大慈悲心よって革命(テロ)を行うのだと。彼はこの公案から、猫を斬る名分を読み取ったようだが、その前に南泉に猫を斬らせないという切実な気持ちを持ってほしかったと私は思う。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする