禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

時間はあるか?

2015-07-14 10:22:21 | 哲学

時間については昔からずいぶん議論されてきた。しかし、いまだに決着がつかないのは、「これが時間だ。」と指示する対象がないからだろう。純粋で単一な概念として抽出できないからには、「時間」は多義的な概念であると見るべきである。そのことが、ウィトゲンシュタインの言う「一般的なるものへの我々の渇望」(前回記事を参照)と激しく衝突するのである。

再び「青色本」からウィトゲンシュタインの言葉を引用してみよう。(この記事は前回記事の続きである。)

 一般名辞の意味を明確にするためにはそのすべての適用を通じて共通する要素を見つけねばならぬという考えが哲学にかせをはめてきたのである。その考えは何の成果もあげなかっただけではなく、その考えのために哲学者は[一般名辞の]具体的適用例を、[問題に]関わりがないとして見捨ててしまった。ただその適用事例だけが、一般名辞の用法を理解するうえで哲学者を助けえたものであるのに。 (p.48)

我々が、「時間」という言葉を研究するにはその言葉を使用している[具体的]ケースを枚挙すべきだと言っているのだ。「時間」の意味は実際に言葉を使用しているその適用の中にしかない、というプラグマティックな見方は明らかに禅的視座に通じるものがある。

では、禅者なら「時間」についてどのような見解を示すだろう?

残念ながら禅僧は哲学者ではないので、「時間」という概念を学問的に追及するなどと言うことには関心がない。しかし、公案を通して「時間」に対する態度をうかがうことはできる。このブログでも過去に取り上げたことのある無門関第二十八則「久響龍潭」を再び参照することにする。

<< 徳山は金剛経の学者で、南の方に金剛経の教えを広めようとしてやってきた。そこに茶店があったので、団子(原文では点心)でも食べようと思って立ち寄った。以下はその店のお婆さんと徳山のやり取りである

婆   「あんたの荷物は一体なんじゃ?」
徳山 「金剛経とわしの書いた注釈書じゃ。」
婆  「では聞くがのう、金剛経には『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』と書かれているがあんたはどの心で団子を味わうのかのう?」 
徳山 「‥‥‥」

これには徳山も黙ってしまった。 >>

過去はもう過ぎ去っている。現在は幅のない瞬間で、文字通り「間もなく」過去になってしまう。未来はまだやってこない。それぞれの心などとらえようもない。どの心で団子を味わうのかと問われても、徳山には答えようがなかった。

禅者にとってはこれはひっかけ問題のようなものである。禅的視座から見れば、過去や未来などと言うものはどこにも無い、過去は記憶にすぎず未来は想像にすぎない。「過去」も「未来」も現在想起しているものでしかないのである。「過去・現在・未来」というのは物理学が計算のために導入した仮想空間つまり便法に過ぎない。禅では「只今即今」と言う。禅者には今しかないのである。

禅では不立文字と言う。ここで言う「文字」は概念のことである。概念を用いずに「考える」のが禅である。『過去、現在、未来』と言う概念を排除して団子に臨むなら、「過去、現在、未来のどの心で団子を味わうか?」などと言うのはたわけた愚問でしかない。

徳山は黙って団子を口に放り込めばよかったのである。そして、一言「うまいっ!」と叫べば婆さんも喜んだに違いない。団子はひたすら食べるためにあるものだからである。ここには「時間」にまつわるなんの不明瞭さも混乱もない。

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