禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

心はどうやって生まれるのか

2016-12-20 17:32:51 | 哲学

先日、NHK-ELのサイエンス・ゼロという番組を見たんですが、心を人工的に造り出すという試みにチャレンジしている人たちがいるそうです。科学によって意識というものも少しずつ解明されているということも言っていました。

しかし、この「心はどうやって生まれるのか」というタイトルには少し違和感を感じるんですね。もし科学がもっと進んでいけば、神経細胞がこのような状態になった時このようなことを人は考えている、ということが正確にわかるようになるかもしれません。そうなれば、本当に人間のように価値観を持ち、主体的に施行する人工頭脳をつくることができるかもしれない。

それでも、はたして心を造ったと言えるのか?という疑問は依然として残るような気がします。それは、ただ単にそのように反応し、そのように作動する機械を造っただけのことではないのか、という思いは消えないような気がするんです。

例えば、その機械が空を見て、「ああ、空が青いなぁ」と言ったとします。その時その機械の中には本当に青のクォリアが生じているのかどうかは確かめようがありません。その機械を作った人間から見れば、青い空を見たら「ああ、空が青いなぁ」と発言するメカニズムは既に分かっています。しかし、そのメカニズムは初めから最後まで物理現象によるメカニズムです。その機械の網膜に相当する部分に映る像は確かに青い色をしています。しかし、それは第三者としてのぼくがその網膜に映った像を見れば確かに青く見えるのですが、その機械の中では電気信号になって脳に送られます。そしてそのプロセスの中のどこをさがしても、電気的な作用があるだけでどこにもぼくが実際に見ている青い色あいそのものが見当たらないのです。

これがいわゆる心身問題です「意識のハードプロブレム」とも言います。が、特定の波長の光が視神経を刺激すればぼくたちには青く見える、ということは現在でも既に分かっていることです。しかし、物理現象がどうして意識上の青い色になるのかがどうしても説明できない。これ以上科学が進んでもより精密なメカニズムが分かるだけのことで、根本的に心身問題が解明されることはないように思えます。

そこで気づくのですが、物理現象から意識現象を説明する、ということがそもそも逆転した発想ではないかとぼくは思うのです。あえて主客二元的な構図で説明しますと、通常は客体があってそれを主観がとらえるというふうにぼくたちは考える。つまり、リンゴという客体があるから、ぼくという主観に赤くて丸いものが見える、と思いがちです。しかし、現象学的な表現でいえば実はこれは逆で、赤くて丸いものが見えるから、そこにリンゴがあると確信するわけです。つまり因果でいうと、客観が因で主観に果が生じるのではなく、主観が因で客観に果を想定しているわけです。

ここで、エルンスト・マッハの科学についての見方をご紹介しましょう。

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫(Wikipediaより)

感覚諸要素とは我々が直接見聞きする現象のことです。いわば「空が青い」というようなことです。「関数的関係を記述する」とは、光の波長や視神経パルスというような概念を使用して「空が青く」見えていることのメカニズムを明らかにすることです。「思考経済の原理に沿って」というのは、出来るだけ余分な概念を使わないでシンプルに説明する、ということでしょう。マッハにとっては、光だとか波長というのも、それを想定すればもっとも簡単に説明できるという、構成された概念であるということです。あくまで実在するものは「感覚諸要素(現象)」であります。

もう一つ、西田幾多郎の「善の研究」から引用します。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

明確に意識現象だけが実在で、物体現象というのは各人に共通で普遍的関係を抽象したものである、と述べております。マッハと西田について共通に言えることは、我々が実在している物理的世界というのは「構成された」一種のモデルであるということです。本当に実在するのは、「空が青い」という我々の意識がとらえた現象のみであるということです。

「空が青い」という我々の意識がとらえた事実から、「青く見えるときの光の波長は‥‥」であるという物理学的対応を導き出しているわけです。すなわち、「主」から「客」を導いている。

ところが、何事にも理由を知りたがる現代人はここで、「光の波長が‥‥だと、どうして青く見えるのだろう?」と問うのです。私にはこの問いがナンセンスなように思えます。そのように問いたくなるのは、物理的世界が実在であって、それが原因となり我々の意識が結果として生まれてくるという発想があるからでしょう。どうしても、「客」から「主」を導き出したがるわけです。

事実は逆であります。実は「空が青い」ということがまず何より第一義的な事実なのです。このような見方は禅仏教における真理観とも符合します。禅仏教においては実存的視点から見える光景がそのまま真実であり、その背後に隠れている真実など無いのであります。「柳は緑、花は紅」というのは端的にそのことを表す言葉です。

ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ひろい食いはいけないか? | トップ | 自然〈じねん〉について »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
哲学の起源 (hasunohana1966)
2016-12-20 22:24:19
『哲学がどうやって生まれるのか』と問われと...やはり違和感がありますね。
心理学を専攻した観点から見ると、『心はどうやって生まれるのか』と問われたら、しかし馴染みがあって違和感が持てないです。
過去の学習によって、心の様式が変わるとしたら、現在の考え方を変えることによって生まれた心を成長させることができるのではないでしょうか。

コメントを投稿

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL