山崎幹夫の各種センサー

ここは現在イベント告知だけにしています。

石井秀人その1/石井秀人は詩人である

2011年03月30日 23時42分20秒 | 映画表現の辺境へ
石井秀人の詩集がほしい。
いま、私の思いつきでそう書いたわけではなく、石井秀人は詩をいくつか書いていて、それを同人誌に発表したことがあり、自分で自費出版で詩集を発刊しようという気がある。
ほんのちょいとだけ引用してみよう。

遠い彼方でゆれる小さな一日があった。
窓の外を見ている。火が燃えている。雪が降って来る。
白い陽が射して来る。洗濯物を干している。

どうスか?
けっこう正攻法でしょ。
で、石井秀人の映像作品でも、このような詩的なフレーズが石井秀人じしんのナレーションで挿入されたり、あるいは家族に語らせて挿入されたりしているのね。
言葉ってのは意外に古びるのが早いものだけれど、これまで何度も石井秀人の作品を上映してきて、驚異的におもうのは、石井秀人作品の「言葉」は何年経てもかわらぬ強度を保っていることだ。
とりあえず、こういうことが言えると思う。
石井秀人は、ひとつの詩を紡ぎ出すような態度で映像作品をつくり出している。

ラ・カメラ上映ラインナップ

2011年03月27日 23時20分50秒 | イベント告知
自作の完成にかまけてました。4月のラ・カメラの上映ラインナップを発表しましょう。一部、データ未確認の部分がありますが、これで決定です。

Aプロ
大谷高美『流刑地』2010年/8ミリ/16分
山崎幹夫『夜にチャチャチャ』1999年/8ミリ/14分
石井秀人『光』1999年/8ミリ/45分

Bプロ
山崎幹夫『夜のてのひらの森』2011年/HDV/26分
山田勇男『水晶リハーサル』1988年/8ミリ/10分
関根博之『石のしずく』

Cプロ
山田勇男『春ノ柔カナ夜気ト秋ノ月露』2011年/8ミリ/40分
関根博之『MAYA vol.2』8ミリ/50分

20日(水)19時半からAプロ
21日(木)19時半からBプロ
22日(金)19時半からCプロ
23日(土)15時半からAプロ、17時半からCプロ、19時半からBプロ
24日(日)15時半からCプロ、17時半からBプロ、19時半からAプロ

料金=1000円
添付画像は『夜のてのひらの森』より

大川戸洋介とECD

2011年03月17日 12時25分23秒 | イベント告知
ラ・カメラ上映と同時に5月の8ミリフィルム映画祭2011春@neoneo坐のプログラム作業も進めている。
昨日、大川戸から返信メールがきて『夏の灰』と『賛歌』を上映することが決まった。
「『賛歌』ね。そういえばECDが出ていたっけ。ECDはいまどうしているのだろう」と検索すると、なんとなんと著作が昨日(3月16日発売)だとか。それが画像です。タイトルは「何もしないで生きてられんねぇ」。本の雑誌社から刊行だそうで。
本の雑誌社のページ
おお、ウィキペディアなんかも見たりして。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ECD
ふーん、石田さんだからECDなのかぁ。
でも考えてみると、大川戸洋介がECDを撮っているということは新鮮な驚きかもしれない。1988年の作品だから、ECDもまだ20歳代だったわけだ。
どんな作品だったかは、はっきり言ってよく覚えていない。どうということない民家の室内で、ステレオで音楽かけてECDがこぶしを前に突き出しているポーズが思い浮かぶだけ。
おっと、自分が書いた作品解説メモがあるじゃないか。
短いので引用しちゃおう。
「和風の民家から右手を前へ突き出した男達が、暗黒舞踏ふうに歩き出してくる。やがて部屋の中でECD氏によるラップパフォーマンスが始まる。カメラは時に激しく動き、ECD氏は電ノコを手にしたりもする。最後は高橋泉とECD氏の寸劇風」
だそうです。14分の作品。

【速報】ラ・カメラ4月上映&neoneo坐5月上映

2011年03月11日 22時44分05秒 | イベント告知
ごめん、内容は出品作家さんの了解を得てからなのでまたあとで。
打ち合わせをいたしまして、3プログラム構成しました。
それを当初の予定よりも一日ふやして、4月20日から4月24日までで、1プログラムにつき3回上映するという感じでいきます。
4月20日(水)21日(木)22日(金)は19時半からの1回上映。
23日(土)24日(日)は15時半、17時半、19時半の3回上映。
私の作品は、さんざん書いている新作の『夜のてのひらの森』のほかに、『夜にチャチャチャ』をやります。
山田さんの方は、『水晶リハーサル』(10分)と『春ノ柔カナ夜気ト秋ノ月露』(40分)がいちおう新作ということになりますが、どちらも過去のフッテージの再構成のようです。
ほか、ゲスト作家3人の4作品を予定していますが、OKいただいたら公表したいと思います。
あ、例によって私の新作だけがHDV。あとはみんな8ミリだ。

neoneo坐の方の8ミリフィルム映画祭2011春も日程だけ決まりました。5月13日(金)から15日(日)です。これからプログラミング作業になります。

大川戸洋介その4/非アイデンティティ映画

2011年03月03日 23時19分30秒 | 映画表現の辺境へ
自分のこれまでの人生で、わりとよく知っている友人で「おれは悟りを開いたぞ」と言い出した人間が2人いる。「おお、それはおめでとう」と言いながら、内心は「あわれなやつ」と思っていた。
こんなこと書くと怒りを買うかもしれないけれど、その2人とも、もともとのプライドが高いにもかかわらず、社会的な地位だとか、収入だとか、周囲からの評価が、それに見合ってなかったのだろう。そんな内心の矛盾が積もり積もって、ある意味、妄想が発症するかのような具合で「私は悟りを開いたのだ」と思い込むに至ったのだと思う。
大川戸洋介はそんな境地とは無縁な人物だ。いや、性欲も物欲も名誉欲もあることは間違いないけれど、少なくともつくり出す映画においては、そんな俗世の欲望とは無縁だ。
おぎわらまなぶが「何か不幸がなくては日記映画にならない」と思ったのとは、真逆で、大川戸は「カメラがあり、フィルムを入れてカメラを回せばそれが映画になる」という構えなのだ。アイデンティティ(自分は何ものであるのか)という問いかけなどない。必要ない。
表現衝動があって、あとから映画というメディアが選択されるという、芸術大学出身のアーティストにありがちな回路で映画をつくっているのではない。そこに8ミリというメディアがあって、おこずかい程度でフィルム代と現像代が出せるから映画が生まれてしまうのだ。
しかも撮影場所は自宅やその周辺(多摩川)、カメラが向けられる対象は家族や友人、カメラを三脚に乗せてシャッターロックすることで自分もしょっちゅう作品に登場する(添付画像がそれ/『夢主人』より)。
見ているうちに「ああ、それでいいんだ」という気分になってくる。そうすると、じつに、楽になったような気がして、なぜか感動していたりする自分に気づく。
それでいいんだ。
物語などなくてもいい。不幸などなくてもいい。珍しい景色や特異な人物、いい女やいい男などなくていい。
でも、それで映画を成立させてしまうのは、大川戸洋介だけかもしれない。

大川戸洋介その3/蠅のカメラワーク

2011年03月02日 23時03分17秒 | 映画表現の辺境へ
横光利一の掌編小説で『蠅』という作品がある。蠅の視点から人間たちに起こった悲劇を記述した小説だ。
大川戸洋介の「理に落ちない」映画を「これはいったい何なのだ」と考えているときに、ふと「これは蠅の主観のカメラワークなのかもな」と思ったのだった。
人間世界に生息して、人間たちにまとわりつきながら、べつに人間どもがどうなろうとかまわないで生きている。そんなカメラワーク。蠅は昆虫だから、おもな関心事は光だろう。
そう、大川戸の映画はやたらと光に反応する。沈みゆく太陽や、多摩川の川面に反射する光、家のなかに差し込んでくるさまざまな陽光のありさま。
添付画像は『夢主人』より。場所はぴあの映写室で、くつろいだ格好で座っているのは森永憲彦。外から差し込んだ光が森永に当たって、まるで光の玉を抱いているようにも見える。
べつに工夫がほどこされているわけではない。大川戸の使っているフジカZ450は、レンズ内部にカビが生えていて、それがソフトフォーカス効果をもたらしてこんなふうに光がにじむ。それだけのこと。
カビかぁ。
そうだ。8ミリカメラにはよくレンズにカビが生える。ビデオカメラではあまりそういう話は聞かないな。
8ミリカメラって、基本、湿っているのでしょうかね。