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アシジの聖フランシスの生き方を考える。

2011年09月07日 06時08分20秒 | アシジの聖フランシス

  またからだを殺しても魂を殺すことのできないものどもを恐れるな。むしろからだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。・・・マタイ10;19

 またシロアムの塔が倒れたために押し殺されたあの18人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うがそうではない。あなた方も悔い改めなければみな同じように滅びるであろう。・・・ルカ13;4

 いつの時代でも人々が安定した生活を営み始めるとともに、精神的には堕落が始まる。物が溢れ、刹那的な喜びを追い求め、自分を中心にした損得勘定の中で生きるようになりがちだからである。
 
現実社会においては、既成の宗教が大衆におもねるものになり、さらに信仰とは名ばかりのさまざまな新興宗教が幅を利かす。またそれに類似した社会事業が行われる。
 日本では、昨年の猛暑の中、ずっと以前に亡くなった親の遺骸を隠したままにして、その年金をずっと受取り続けていたという前代未聞の事件が多発した。独居老人の孤独死や、あらゆる世代の自殺や自殺未遂は依然として後を絶たず、日本社会はマスコミが描き出す華やかさとは裏腹に、現代は誰の目から見ても、戦前までの古き善き日本とは断絶した、末期的な様相を呈しつつある。
 
いっぽう、私たちがその中に住む大自然は、時として猛威を振るい、人為的に作り上げた全てのものを破壊し尽くしてしまうことがある。このことをどう受け止めるべきだろうか?
 
私は思う、この度の東日本大震災は東北地方の人々だけの災害として受け止めるべきではない。日本人ひとりひとりが、また地球に生まれてきたすべての人びとが、このことに思いを馳せるべき時なのだ。
 
近年に起きた地震を見ても、直前のニュージーランド、クライストチャーチで、ハイチやスマトラで、そして中東などで、ほぼ地球の全域にわたって大地震はたびたび起きている。特に後進国では甚大な被害が出ている。
 そんな中マスコミを通して、被災地の悲惨な有様を目にし、遺族の方たち、被災された方たちのことを思うと、胸が詰まり涙があふれてしまう。一日も早い復旧を願い、以前のように復興することを期待するのは私も同様である。
 
しかし復旧、復興と言って、以前と同じような物質的豊かな社会に戻ることが、果たしてこの国の今後進むべき道だろうか?世界を見回してみると、一日を1ドル以下で暮らす貧困層や、飢餓に苦しむ人々が地球上の人口の大半を占めている。日本はほんとうにこのままでいいのだろうか。
 
とかく私たちは目の前の経済的復興だけに囚われがちである。しかし、日本の現状を見廻したとき、政治的にはいよいよ低迷し、人々の価値観も表面的な豊かさに憧れている現代にあって、この時を契機として、今こそ日本民族の底流に流れている精神的な力を振るい起こすべく目覚める時ではないだろうか。私は感ずる、まさに歴史の審判者である神は、そして世界の人々は、そこに注目している。

今から800年前だが、ここにかつて一人の目覚めた人がいた。アシジのフランシスコと呼ばれている人物だ。さまざまな尾ひれが付いた資料の中から私なりに彼の本質を探ってみた。

<フランシスコの生い立ちと回心>
 彼は1181年ごろスペインの片田舎、アシジの裕福な織物商の一人息子として生まれた。青年時代は友人たちと語らって、放埓な日々を送っていたが、その頃の彼の願いは、騎士になって戦うことだった。
 それである時十字軍の遠征に参加した。そこで捕らえられて1年間の捕虜生活を送った。その後重い病に罹り、ほうほうの態で故郷に逃げ帰り、数年の療養生活を送った。
 この時の体験を通して、神は彼を真の幸福へと徐々に目覚めさせたのである。

 彼にまつわるいくつかのエピソードの中のひとつはこう記している。
 ある日、道で一人のライ病人に出会った。彼は、この汚いライ病人が道をよけてくれないかと一瞬、心に思った。しかし、すぐに、このもっとも小さい兄弟をも愛するようにとのキリストの教えを思い起こした。そして彼は大胆にも、それまでの嫌悪感と、感染するのではないかとの恐怖を追い払って、その病人に接吻した。
 この時から彼の中に、言葉では言い表せない神の愛が沸き起こり始めた。そしてそれから毎日のように不潔なライ病院を訪ねた。彼らを看病し、傷口を洗い、包帯をしてやったり、慰めたりした。こうして彼は次第に自分のことを顧みなくなり、それまでの遊興的な生活とはまったく違った人生を歩み始めたのである。
 またもうひとつのエピソードでは次のように語られている。
 療養中のある日、目覚めると一羽の小鳥が目の前に飛び跳ねていた。彼はそれをつかまえようとしてベランダを降りて屋根に上った。小鳥は一時彼の手中に捕らえられた。しかしすぐに抜け出して大空へと飛び立って行ってしまった。
 このことから、彼は自分も小鳥のように自由に大空を羽ばたきたいと願うようになった。「何が自分を地上につなぎ留めているのだろうか?」と思いめぐらしていると、キリストの言葉が次々と彼に迫って来た。

 以下「Brother Sun Sister Moon」という彼の生涯を綴った映画のセリフの一部から、例によって私訳を紹介します。画像をクリックすると、「Donovan」が英語で歌っているyoutubeが開きます。最小化して訳詞を読みながらご鑑賞下さい。
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<大自然への賛美>
 鳥たちは甘く低い声でさえずっている。
 あのゆるやかに伸びつつある梢の間から
 柔らかく心地よい風が吹いて来る。
 この心地よい日
 私は牧場へと向かう
 蝶のようにあちこち飛び交いながら。
 花々は何と私の目を楽しませてくれることだろうか!
 この心地よい日
 いつまでもそうであるようにと私は祈る。
 そんな日には生きることは実に心安らぐ!
 誰の上にもこの安らぎがあるようにと私は願う。
 この心地よい日に
 ラーラーラリーララ、ラーラーラリーララ、ラーラーラリーララ
 この心地よい日に
 
 誰の上にもこの安らぎがあるように。
 この心地よい日に

<太陽と月を仰いで>
兄さんの太陽よ、そして姉さんの月よ
私はめったにあなたを見上げることもないし、
めったにその調べに耳を傾けることもない。
自分の惨めさに囚われて、心がいっぱいなのだ。

兄さんの風よ、そして姉さんの大気よ!
どうか私の眼を開いて下さい。
貴神の美と
私の周りを囲む(貴神の)栄光を、
何のわだかまりもなく清らかに、私が見ることができますように。

私は神に創られたもの、その一部だ!
(貴神の)愛が私の心に湧き上がるのを私は感ずる。

兄さんの太陽よ、そして姉さんの月よ!
今こそ私は、貴神を見たてまつり、御声を聞くことができる、
見渡すものすべてに溢れる貴神の愛に包まれて。

私は神に創られたもの、その一部だ!
(貴神の)愛が私の心に湧き上がるのを私は感ずる。

兄さんの太陽よ、そして姉さんの月よ!
今こそ私は、貴神を見たてまつり、御声を聞くことができる、
見渡すものすべてに溢れる貴神の愛に包まれて。

<肉の父への語りかけ>
 お父さん、お父さん、私はあなたと喜びを分かち合いたいのです。
 私たちの宝はここ地上にではなく天にあります。
 お父さん、こんなものの奴隷になってはいけません。
 すべてを投げ捨てて下さい。私がしているようになさって下さい。
 それはとても簡単なことです。
 そうして、自由になってください、お父さん!

<祭司への告白>
 ある者は光を求めつつも、暗闇の中にずっとおります。
 かつて私も、暗闇の中におりました。
 でも(ある時)兄弟である太陽が私の魂を照らして下さいました。
 そして今私は、はっきりと(この世界を)見ることができます。
 ちょうど神が太陽を創造され、聖なる衣をまとわれておられるように、
 ああ、私もそうありたい、・・・幸せでありたい!
 空の鳥のように生きたい。
 彼らが体験している自由と清らかさを、私も体験したい。
 ほかのことは私にとって無用だ。
 何の益もない。
 どうか信じて下さい。
 もし人生の目的が日々のこの愛のない労苦にあるならば、
 それは私のためではない、もっと良いものがあるはずだ。
 ・・・なければならない。
 人間は・・・ひとつの霊だ。
 私には魂がある。
 それを私はもう一度捕らえたい、私の魂よ!
 (ほんとうの意味で)私は生きたい。
 (そうだ)私は野で生きたい。
 丘の上を闊歩し、木に登り、川で泳ぎ回りたい。
 靴を履かず、足の下に大地の固さを感じたい。
 何も所有することなく、私たちが召使と呼ぶそれらの影なしに(生きたい)。
 私は乞食になりたい。
 そうだ、そうだ、乞食だ!
 キリストは乞食だった。そして彼の使徒たちも乞食だった。
 彼らが自由に生きたように、私も生きたい。
 
 「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。」

 私は今もう一度生まれたのだ!

<肉の父との訣別>
 お父さん、私はあなたに属するものすべてをお返しします。
 あなたの衣服、あなたの持ち物。あなたの名前も・・・。
 もう(私には)父はない。
 (私はあなたの)子ではない。

 「誰でも天の父のために、家、兄弟、姉妹、父を、あるいは母、子ども達、畑を捨てた者は、来るべき世では百倍以上を受ける」。・・・

<勧めの祈り>
 もしあなたの夢が叶うようにと願うならば
 それをゆっくりと確実にやりなさい。
 小さな始まりはより大きな結末に
 心を込めた働き(の種)は清らかに成長していく。
 もしあなたが自由に生命を生きたいなら
 あなたの時間がゆっくりと進むようにしなさい。
 少しのことをして、でも、それらを丁寧にやりなさい。
 単純な喜びは清らかだ。
 日ごとに石を積み重ね
 あなたの秘密(の種)をゆっくりと育てなさい。
 (そうすれば)日ごとにあなたも成長するだろう。
 (そうして)あなたは天の栄光を見るだろう。

 もしあなたの夢が叶うようにと願うならば
 それをゆっくりと確実にやりなさい。
 小さな始まりはより大きな結末に、
 心を込めた働き(の種)は清らかに成長していく。
 もしあなたが自由に生命を生きたいなら、
 あなたの時間がゆっくりと進むようにしなさい。

<兄弟ベルナルドとの会話>



 _フランシスコ、君は大丈夫かい?
  私はすごく元気だ、ベルナルド。それで君は?
_私の言うことをほんの少しだけ聞いてくれ。私は君を助けたいんだ。
・・・言葉だ。
 言葉だよ、ベルナルド。
 かつては私も言葉を信じた時があった。

 _牢獄にいた間いつも、我々は君のことを話していた。君は死んだにちがいないと思っていた。解放された時、私は十字軍のところに行こうと決めた。そしてエルサレムで、君が生きていると聞いた。だが(それから)、私は驚いた。君がかつてあんなにも愛していた生活を捨てて、新たな目的を、新しい意味を探していると人々が言うので・・・
 _もちろん、君は正しい。私もそれをやってみようとした。だが、私の場合は、それに失敗した。そうだ、私の感ずるこの・・・失望感、この虚しさ、この不満足・・・
・・・そのために、十字軍を責めるのはあまりにも簡単だ。戦争の恐怖、私たちの理想の崩壊がその一部だ。でもそのほかに何かがあると私は感じている。
 _私は息が詰まりそうだ、私の過去を思い、生い立ちを思うと。・・・それらはもはや私には何の意味もない。
 _そして君は、フランシスコ、君はほかの誰よりも私が理想なしには、何か信ずるものなしには生きられないということを知っているはずだ。
 _多分私は間違っている、多分人はもっとひねくれていて、理想を忘れるべきなのかも知れない。私には分からない。それでここへ来て君と話そうと思ったのだ。
・・・どうしたのだ?

 あそこにある、あの石は使える。首(かしら)の石にできそうな、固くてしっかりしている石だ。
 ベルナルド、君はあれをどこで手に入れた?この近くの石切り場からかね?
 _そうだ、そう遠いところではない。もし良ければ君をそこに連れて行ってあげるよ。
 ありがとう。
 
 ああ、来たまえ、そして君自身が霊なる神の宮の、生きた石になるのだ!

<信仰の賛美>
 許してやれ、そうすれば君は許してもらえるだろう、そして素朴に生きて行こう。
 何て祝福されていることだろうか、憐れみを示す人たちは!
 憐れみが彼らに示されるだろう。
 何て祝福されていることだろうか、平和を作り出す人たちは!
 神は彼らを自分の息子、娘たちと呼んで下さるだろう。

<平和への祈り>
 ああ、主よ!
 私を平和の道具として下さい。
 憎しみのあるところに、愛を種蒔かせて下さい。
 傷みのあるところに、許しを、
 疑いのあるところに、信仰を種蒔かせて下さい。
 与えることで、与えられ、
 許すことで、許される。
 死ぬことで、新しく生まれる。
 すなわち、永遠の生命へと生まれかわる。

<クララの回心>
 _私はこの気持ちをあなたに話さずにはいられません。
 たとえ、全世界がそれを聞いて(笑って)もかまいません。
 これからはずっと、私はあなたが生きているように生きたいのです。
 私が少ししか力のない、かよわい女だからと言って、どうか追い返さないで下さい。
 もう私は自分が理解されようとは願いません。
 私は理解したいのです。
 私は自分が愛されることを求めません。
 私は愛したいのです。
 悲しみのあるところに、喜びを発見することができますように。
 どうか、どうか、私を助けて下さい。

<愛の賛美>
 天地のすべての父よ
 母なる光の世界よ!
 私たちの窮状をなだめ、心をやわらげて下さい。
 憐れみの中で楽しませ、キリストの中で喜ばせて下さい。
 この戦いに私たちが勝つように、助けて下さい。
 大空は私を招いています。
 吹きすさぶ風の中で、私を呼んでいる声が、
 (神の)栄光を讃える歌が聞こえて来ます。
 地には私を挫こうとする痛みが、悲しみの町にはため息が満ち、
 暗黒の影が広がりつつあります。
 (しかし)すべての人への愛があの御方の中にあります。
 友の友であるあの御方が(私の中に)目覚めつつあるのです。
 熱狂的な喜びが爆発しようとしています。
 (その御方は)私たちのところにやって来つつあります。

 すべてのものの父よ
 光の母よ
 私たちの窮状をなだめ、心をやわらげて下さい。
 憐れみの中で楽しませ、イエス・キリストの中で喜ばせて下さい。
 この戦いに私たちが勝つように、お助け下さい。


<教皇との会話>
 どうしてですか?何故ですか?
 空の鳥を見て下さい。
 彼らは蒔くことも、刈り取ることも、倉に蓄えることもしない。
 それなのに天の父は彼らを養って下さる。
 あなた方の間で誰か、心配をしてその寿命を1秒でも加えることができるでしょうか、あるいはその背の高さに1フィートを加えることができるでしょうか?
 どうしてあなた方は、富に心を囚われるのですか?
 野のゆりがどんなふうに育っているかを考えてみて下さい。
 それらは働くことも紡ぐこともしない。それなのにソロモンも、彼のすべての輝きを以ってしても、これらのひとつほどにもめかし立てられてはいなかった。
 あなた方の信仰は何と小さいことでしょう。
 あなた方は尋ねます。「私たちは何を食べようか?何を飲もうか?何を着ようか?」と。
 これらすべてのものは、異邦人が追い求めるものです。
 あなたの心を神に向けて下さい。そして何にもまして御心がなるようにと祈って下さい!
 そうすれば他のすべてのものはみなあなたのところにやって来るでしょう。

 あなたがたはその宝を、この地上に蓄えて来ました。そこではしみが付き、蛾がそれを食い荒らします。そこでは盗人たちが入り込んで、それを盗みます。
 しかし、あなたの宝を天に蓄えなさい。そこではしみも付かず、蛾もいないし、盗もうとする泥棒もいない。
 何故ならあなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 
 あなたがたは何と小さな信仰を持っていることでしょう!
 誰も二人に主人に仕えることはできません。なぜなら彼は一人を憎み他の一人を愛するからです。一方に献身し、一方を疎んじるからです。あなたがたは神と金銭の両方に仕えることはできません。

 
 私はよく私の家の周りの原っぱでひばりを見ました。彼らはあまりにも、遜った、つつましい生き物で、ほんのひと口の水と木の実を、生きるために、そして天に舞い上がるために、必要としています。
 ある日、私は、私たちもそのひばりのように、少しのもので満足しているなら、幸せでいられるのではないだろうかと考えました。
 もし私が、彼らが生きているように生きることができるなら、歌いながら私たちを創って下さった主に感謝しながら生きることができるならば、・・・と。
 そしてあなたの助言をいただくために、私たちはローマに来たのです。

 _うむ、どんな助言を私は君にしてあげられるだろうか?私の若い兄弟よ。神は君に最も素晴らしい賜物をお授けになった。彼の愛する、その被造物を通して彼に近づく恵みを。
 あなたはそれ以上に何を望むのか?

 素朴な人たちは私たちのことを解かってくれます。でもほかの人たちが・・・たぶん私たちは何か間違いをしているのです。これが私たちの知りたいことです。聖なる父よ、私たちの主の教えに従って生きることはできないのでしょうか?あるいは私たちは思い込みから罪を犯してしまっているのでしょうか?もしそうであるなら、あなたに私たちの間違いを教えていただきたいのです。

 _最愛の子よ、間違いは許されるであろう。我々は原罪に執着して、ともすれば原始の無邪気さを忘れてしまうものだが・・・、あなたにはそれが起こらないようにと願う。
 愛する子よ、あなたは私に大いなる喜びと、そして少しの悲しみをもたらした。私も、また、私の仕事を、・・・ああずっと前だが、あなたと同じように始めたものだ。だが、時と共に、そのすべての熱心が過ぎ去ってしまい、そしてあなたが見るように、教会政治の責務が私をとらえてしまった。
 だが、あなたたちの後に来る人々には何が起こるだろうか?あなたはそれらについて考えたことがあるか?

 しかし、それが私たちにとって真実なら、どうしてそれが彼らにとって真実でないことがあり得るでしょうか?
 _私たちは富と権力の厚い皮で覆われてしまっている。(そして)あなたたちは、その貧しさを通して、私たちに恥ずかしい思いをさせる。
 ああ、フランシスコ、フランシスコ、私たちの主、イエス・キリストの名の中で進み行きなさい。すべての人に真実を語りなさい。あなたの弟子たちが何千倍にも増え、やしの木のように繁茂するように。主が、あなたと共にあるように。あなたの手に、そしてあなたの足に・・・(教皇がフランシスコの足に接吻する)

<太陽の賛歌>
 善き主よ、いと高く全能であられる御方よ
賛美と栄光と誉とすべての祝福は貴神にこそあれ!
 御名を呼ぶにふさわしき者は、この地上にはひとりもいない。
 ほむべきかな主よ、あなたが創られたすべての被造物によりて、
特に兄弟である太陽のゆえに
太陽は昼をつかさどり、地上を照らす。
それは美しく光輝き、いと高き貴神のみ姿を宿す
 ほむべきかな主よ、姉妹なる月と星によりて
貴神はそれらによって空を明るく見事に美しく飾られた。
 ほむべきかな、我が主よ、兄弟である風によりて、
空気と雲と晴れとすべての天候によりて、
これらのもので貴神はすべての被造物を保たれる
たたえられよ、わが主よ、姉妹なる水によりて
水は大いに役立ち、謙遜で気高く清い。
たたえられよ、わが主よ、兄弟なる火によりて、
貴神は火によりて夜を照らされ、
それは美しく、愛らしく、たくましく、強い。
ほめられよ、わが主よ、われらの姉妹なる母、大地によりて、
大地はわれらを養い世話し、
あらゆる果実ときれいな花を生みだす。
わが主をほめたたえ、感謝し、
心からつつましく仕えよ。

<フランシスコの最期>

 こうして彼の教団は増え広がって行った。しかし彼は決して組織の上に立とうとはしなかった。彼が死に面してとった態度は、彼の信仰を如実に表している。すなわち彼は自分の体を裸にして、地面の上に横たわらせ、臨終を迎えた。
 彼は裸で生まれ、裸でキリストのもとへと帰って行ったのである。

<以下口語訳聖書よりの引用>
 それだからあなた方に言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の生命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。生命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 空の鳥を見るがよい。蒔くことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。 
野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかしあなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。・・・マタイ6:25-34


 「あなたのすることがまだひとつ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を持つようになろう。そして私に従って来なさい。・・・ルカ18;22


 誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。・・・ヨハネ3;5

 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらするところがない。」・・・
 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください。」イエスは言われた、手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである。・・・ルカ9;58−62


 だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の生命までも捨てて、私のもとに来るのでなければ、私の弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。・・・ルカ14;26−27

 自分の持ち物を売って施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなた方の宝のあるところには、心もあるからである。・・・ルカ12:33−34

 心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう。義に飢え渇いている人たちは幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう。憐れみ深い人たちは幸いである。彼らは憐れみを受けるであろう。心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう。平和を作り出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されて来た人たちは幸いである。天国は彼らのものである。・・・マタイ5:3−10

 誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできない。・・・マタイ6:24

ダビデが洞穴にいたときによんだマスキールの歌、祈

 わたしは声をだして主に呼ばわり、声に出して主に願い求めます。わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。
 わが霊のわが内に消えうせようとする時も、あなたはわが道を知られます。彼らはわたしを捕らえようとわたしの行く道にわなを隠しました。わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。
 主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います。「あなたはわが避け所、生けるものの地でわたしの浮くべき分です。どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
 わたしははなはだしく低くされています。わたしを責める者から助けだしてください。彼らはわたしにまさって強いのです。わたしをひとやから出し、み名に感謝させてください。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう。・・・ 詩編142篇

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デンマークという国の話/後世への最大遺物

2011年02月27日 04時00分11秒 | 後世への最大遺物
デンマークという国の話

信仰と、樹木を植えることで国の危機を救った人々。
内村鑑三

荒野と渇いた地とは楽しみ、
砂漠は喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う、
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、我々の神の麗しさを見る。
(イザヤ書35章1〜2節)

 今日は少しこの世界の現実にあった出来事についてお話したいと思います。
 デンマークはヨーロッパの北部にある一つの小さな国です。その面積は日本の十分の一で、北海道の約半分に当たり、九州の一つの島にも当たらない国です。そしてその人口はたったの250万人で、日本の約二十分の一に過ぎません。実に取るに足らないような小さな国です。が、この国についてたくさんの面白い話があります。
 例えば、単に経済的な面で観察しましても、この小さな国は決して侮ることのできない国であることが分かります。申し上げましたように、この国の面積と人口は日本には到底及びませんが、その富の量においてははるかに日本以上なのです。
 具体的な例をあげますと、日本の二十分の一に過ぎない人口のデンマークは、実に日本の二分の一の外国貿易を行なっています。すなわちデンマーク人一人当たりの外国貿易高は、日本人一人の十倍にも相当するのです。これを見ただけでも、いかにその富が多いかがおわかりになるかと思います。
 ある人が言うには、デンマークの人々はたぶん世界中でもっとも富んでいる民族であろうとのことです。つまりデンマーク人一人が持っている富は、ドイツ人または英国人、またはアメリカ人が持っている富よりも多いのです。実に驚くべきことではないでしょうか?
 ではデンマークの人々は、どうやってこれらの富を得たかと言いますと、それは彼らが国外に多くの領地を持っているからと言うのではありません。
 無論、彼らは広いグリーンランドを持っています。しかし北氷洋の氷の中にあるこの領土に経済的価値がほとんどないことは誰もが知るところです。
 彼らはまたその面積においてはデンマーク本土の二倍に相当するアイスランドを持っています。しかしその名のごとくそれは肥沃な土地ではありません。
 ほかにはわずかに羊毛を産出するフェロー諸島があり、また、やや豊かな西インド洋のサンクロア、サントーマス、サンユーアン島があります。
 これらは確かにデンマークの富の源ですが、経済的には収支が合わないために、かつてはこれらをアメリカ合衆国に売却しようとの計画もあったほどです。
 ですからデンマークの富の源と言いましても、別に本国の外にあるわけではありません。
 ところがこのデンマーク本国が、決して富んだ豊かな土地と言うことができないのです。そこに鉱山があるわけでもなく、大規模な港で全世界の船舶を惹きつけるというようなものがあるわけではありません。デンマークの富は主にその土地から産出するのです。
すなわち、その牧場とその家畜、樅と白樺の森林と沿海の漁業にあるのです。
 ことにその誇りとしているのは、酪農であり、それから産するバターとチーズです。デンマークは実に酪農でもって成り立っている国だと言うことができます。
 トーヴァルセンによって世界の彫刻芸術界に新しい機軸を打ち出し、アンデルセンによって近代おとぎ話の元祖とならせ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱えさせたデンマークという国は、実に柔和な牝牛を産出することによって立つ、小さくて静かな国であります。
 ではありますが、今から40年前のデンマークは、もっとも憐れな国でした。1864年にドイツ、オーストリアの二大強国に圧迫されて、その要求を拒んだ結果、ついに開戦の不幸に至り、デンマークの人々はよく戦いましたが、デッペルの一戦に北軍が破れて、再び立ち上がることができないまでになりました。
 デンマークは講和を乞い、その結果、敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二カ国に南部でもっとも良い二つの州、シュレスウィヒとホルスタインを分け与えなければなりませんでした。
 戦争はここに終わりを告げました。しかしデンマークは窮乏し、貧困の極みに達したのです。初めからそれほど多くもない領土の、しかも最良の部分を持ち去られたのですから。
これからどうやって国の運命を回復しようか、どうやって敗戦による大きな損害を償おうか、これはこの時、デンマークを愛する人たちが頭を絞って考えた問題でした。国土は小さく、人口は少なく、しかも残った土地は荒れ果てた砂漠のようなところが多いというありさまだったのです。
 しかし、国民の精神力はこのような時にこそ試されるのです。戦いには敗れ、国土は削られ、国民の意気は消沈し、何ごとにも手がつけられないような、このような時にこそ、国民の真の価値は明らかになるのです。
 戦いに勝った国の戦後の経営は、どんなつまらない政治家にもできます。国の威信が上がったことによって、それに伴うさまざまな事業を発展させることは、どんなつまらない実業家にもできます。難しいのは戦いに敗れた国の戦後の経営です。国の運命が衰退して行く時にその事業をどう発展させるかです。
 実に戦いには敗れても、精神においては敗れない民族が、真に偉大な民族です。
 宗教であれ、信仰であれ、国の運命が盛んになって行く時には、何の必要もないのです。しかしその国に暗い影が覆う時にこそ、精神の光が必要になるのです。その国が立ち行くか、滅んで行くかは、この時に決まるのです。
 どんな国にも、時には暗黒の影が覆います。そんな時、これに打ち勝つことのできる民族が永久に栄えるのです。
 それはあたかも、病気になった時に、人間の健康の度合いが分かるのと同様です。普段の時には、弱い人も強い人も外見上は変わりありません。しかし、病気になった時に弱い人間は死に、強い人間は生き残るのです。
 それと同じように、真の意味で強い国は、困難に出遭っても滅びないのです。それは、軍隊は敗れその財源は尽き果てて、その時なお立ち上がる精神力を蓄えている国です。それはまさに国民にとって試練の時です。この時に滅びないものは、運命がどう変わろうとも、永久に滅びないのです。
 デンマークの兵士たちは戦いに敗れて、我が家に帰って来ました。そして帰って来たところ、国は荒廃し、財産は尽き果て、目に見るものは全て悲しみと憤りと失望の種にほかなりませんでした。
「今はまさにデンマークにとって災いの日々だ」と彼らはお互いに言い合いました。
 この挨拶に対して、「いや、そうではない」と答えることができる者は彼らの中に一人もいませんでした。
 しかしながら、ここに、彼らの中に一人の工兵士官がいました。彼の名はダルガス(Enrico Mylius Dalgas)と言い、フランス系のデンマーク人でした。彼の祖先は有名なユグノー党(16世紀から17世紀における近世フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義))の一員で、彼らは信仰のために故国フランスを追放され、デンマークに逃れて来た人々でした。ユグノー党の人たちは、至るところで信仰の自由と熱烈な信仰と勤勉さを表しました。英国ではエリザベス女王のもと、今や世界のトップを占める製造業を起こしました。そのほかにも、オランダにおいて、ドイツにおいて、たくさんの有意義な事業が彼らによって起こされました。
 旧来の宗教を維持しようとした結果、フランスが失った多くのものの中で、最大の損失と言うべきものは、ユグノー党の海外脱出でした。そして19世紀の末においても、彼らは未だなお、その祖先からの精神を失わなかったのです。

Enrico Mylius Dalgas
 ダルガスは、年齢はその時36歳でした。工兵士官として戦争に赴き、橋を架けたり、道路を建設したり、溝を掘ったりした時に、彼は詳しく故国の地質を研究しました。
 そうして戦争はまだ終わっていませんでしたが、その時すでに彼は胸の中で、故国を回復させる方策を考えていました。
 すなわちデンマークのヨーロッパ大陸に連なる部分で、その領土の大部分を占めるユトランド(Jutland)の荒れ地を変えてこれを肥沃な土地にしようとの大計画を、彼は既に胸の中に懐いていたのです。
 ですから戦いに敗れて、彼の同僚たちが絶望感に押しつぶされて故国に帰って来た時に、ダルガスはただひとり、その顔には微笑みを浮かべ、希望の春を夢見ていました。
 「今はデンマークにとって災いの時だ」と彼の同僚たちは言いました。
 「ほんとうにそうです」とダルガスは答えました。
 「ですが、私たちは外に失ったものを、内において取り返すことができます。あなた方や私が生きている間に私たちはユトランドの荒野を変えてバラの花が咲くところにすることができます」と彼は答えました。
 この工兵士官の胸には預言者イザヤの精神が宿っていました。彼の血管の中に流れるユグノー党の血は、この時に遭遇して彼を平和の天使としました。他の人たちが失望している時に、彼は失望しませんでした。彼はその国の人々が剣を持って失ったものを、鋤を持って取り返そうとしました。
 この時に敵の国に対して復讐の戦いを計画するのではなく、鋤と鍬とを持って残された領土の荒廃と戦い、これを田園に変えて、敵に奪われたものを補おうとしました。
 ほんとうにクリスチャンらしい計画ではありませんか。真の平和主義者はこのような計画を立てなければなりません。
 しかしながらダルガスはただの預言者ではありませんでした。彼は単なる夢見る者ではありませんでした。工兵士官だった彼は、土木学者であったと同時に、また地質学者でもあり、植物学者でもありました。彼は詩人であったと同時にまた実際家でもありました。彼はどうしたらその理想を実現できるかを知っていました。
 このような軍人を私たちはときどき欧米の軍人の中に見ます。軍人と言えば人を殺す技術にたけている者だとの考えは、外国においては一般になされていないのです。
 ユトランドはデンマーク国土の半分以上を占めます。そして当時その三分の一以上が不毛の地だったのです。総面積3万9千平方キロのデンマークにとっては約8千平方キロの荒野はあまりにも広い、役立たずの土地です。
 この土地を改良して肥沃な土地とし、外に失ったものを内において償おうとするのがダルガスの夢だったのです。それでこの夢を実現するにあたって、ダルガスの取った武器はただ二つでした。
 その第一は水でした。そしてその第二は樹木でした。荒れた地に水を注ぐことができ、これに木を植えて植林の成果を上げることができれば、それでことは成就するのです。それは至って簡単でした。しかし簡単でしたが、容易ではありませんでした。
 この世界に制御することが難しいものとて、人間が作った砂漠のようなものはありません。もしユトランドの荒れ地がサハラ砂漠のようなものだったならば、問題ははるかに容易だったのです。
 自然の砂漠は水をさえこれに注ぐことができれば、肥沃な土地になるのです。しかし人間が何もせずに、世話を怠っていた結果できた砂漠を回復するのはもっとも難しいのです。そうしてユトランドはこのような種類の荒れ地だったのです。
 その昔800年以前には、そこには良く茂った林がありました。そうして今より200年前までは、ところどころに樫の木を見ることができました。
 それなのに文明が進むと時を同じくして、人々の欲望はますます大きくなって、人々は土地から搾取するに急で、これに報いるに緩やかでした。そのために土地は時を経るに従いますます痩せ衰え、ついに40年前には憐れむべき状態になってしまったのです。
 しかし人間の飽くなき欲望によっても大地を永久に死滅させることはできません。神と大自然が啓示するある適切な方法によれば、このような最悪の状態にある大地も、元からの肥沃な土地に返すことができます。
 まさに詩人シラーが言ったように、大自然は永遠の希望であり、その崩壊と腐敗はただ人間の間に見るのです。
 (その方法とは)まず溝を掘って水を流れさせ、ヒースと呼ばれる荒野の植物を駆除し、これに替えてじゃがいもと牧草を植えるのです。
 このことは、それほど困難ではありませんでした。しかし最も難しかったのは荒れ地に木を植えることでした。そしてこのことのためにダルガスは非常に苦心し研究しました。
 植物の種類は多いですが、ユトランドの荒れ地に適し、成長してレバノンの栄えを表すような樹木はないだろうかと彼は研究に研究を積み重ねました。そこで彼の心に思い当たったのはノルウェーで生育する樅の木でした。これこそユトランドの荒れ地にふさわしい樹木であるということは、はっきりしました。しかしながら実際にこれを植樹して試してみますと、思ったようには行きません。
樅の木は生育しますが、数年経つ内に枯れてしまいます。ユトランドの荒れた土地は今やこの強靭な樹木をさえ養うことができないほどに、養分が不足していました。
 しかしダルガスの熱情はこのことによってくじけることはありませんでした。彼は大自然が彼にこの問題の解決を示してくれることを確信していました。ですから彼はさらに研究を続けました。そうして彼の脳裏にふと浮かんで来ましたのは、アルプスで生育する小さな樅の木でした。
 もしこれを移植したならばどうだろうかと彼は考えました。そしてこれを取り寄せて、ノルウェーの樅の木の間に植えると、不思議なことに両方の樅の木は共に並んで成長し、年月が経っても枯れなかったのです。
 これによって大きな問題は解決しました。ユトランドの荒野に初めて緑の野原を見ることができたのです。
 緑は希望の色です。ダルガスの希望であり、デンマークの希望であり、その国民250万人の希望は現実となったのです。
 しかし問題はそれでも完全には解決していませんでした。緑の野原はできましたが、緑の林はできなかったのです。ユトランドの荒れ地から建築用の木材を伐採しようというダルガスの野心的な願いは事実とはなりませんでした。
 樅の木はある程度まで成長して、止まってしまいました。枯れることはアルプスの小さな樅の木を一緒に植えることによって防ぐことができましたが、いつまでも成長を続けることができなかったのです。「ダルガスよ、お前が預言した材木をくれ」と言ってデンマークの農夫たちは彼に迫りました。あたかもエジプトから逃れ出て来たイスラエルの人たちが、一部の失敗のためにモーセを責め立てたのと同じようでした。
 しかし神はモーセの祈りを聞いて下さったように、ダルガスの心の叫びをも聞いて下さいました。(神の)黙示は今度はダルガスに臨まず、その息子に臨みました。彼の長男をフレデリック・ダルガスと言いました。
 彼は父の気質を受け継いで、優秀な植物学者でした。彼は樅の木の成長の仕方について大きな発見をしました。
 若いダルガスは言いました。樅の木がある程度以上成長しないのは一緒に植えた小さな樅の木をいつまでもその側に生やしておくからだ。もしある時期が来て小さな樅の木を伐り払ってしまうならば、樅の木はその土地を占有して成長を続けるだろうと。
 そして若いダルガスがこのことを実際に試してみたところ、実にその通りでした。側に植えられた小さな樅の木はある程度まで、もともとの大きな樅の木の成長を促す力を持っています。しかしそれがある程度に達した時には却ってこれを妨げる作用があるという、奇妙な植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見されたのです。
 しかもこの発見はデンマークの国土の開発にとっては、実に絶大な発見でした。これによってユトランドの荒れ地を元に戻すという難しい問題は解決されたのです。その結果デンマーク各地に鬱蒼(うっそう)とした樅の林を見るようになりました。
 1860年にはユトランドの山林はわずかに6万3千ヘクタールに過ぎませんでしたが、47年後の1907年になった時には19万ヘクタールの広さに達しました。
 しかしこれはなお全国土の7.2パーセントに過ぎません。さらにダルガスの方法に従って植林を続けるなら、数十年後にはこの地に数百万ヘクタールの緑の森を見るに到るでしょう。実に大いなる希望があると言うことができます。
 しかし植林による効果は木材の収穫だけにとどまりません。第一にその良い影響を受けたのはユトランドの気候でした。樹木の生えていない土地は熱しやすくまた冷めやすいです。
 ですからダルガスが植林をする以前には、ユトランドの夏は、日中は非常に暑く、夜は時には霜が降るほどでした。一日の間に熱帯の暑さと冬の初めのような霜に出遭っては、植物の成長には堪りません。
 その当時、ユトランドの農夫たちが、収穫する希望を持って植えることができた植物は、じゃがいも、黒麦、そのほかの少数の種類に過ぎませんでした。しかし植林が成功してからのこの地の農業は一変しました。夏の時期に霜が降ることは全く止みました。今や小麦や砂糖大根など、北欧で生産できる穀物、または野菜で育たないものはなくなりました。
 ユトランドの荒れ地は樅の林が茂ることによって、優良な田園と変わりました。木材を収穫することができるようになった上さらに、温暖な気候に恵まれるようになりました。植えるべきはまさに樹木です。
 しかも植林による良い影響はこれにとどまりませんでした。樹木が生い茂ることによって、海岸から吹き寄せられて来る砂(すな)埃(ぼこり)によって荒れ地となることが防がれました。北海沿岸に独特な砂丘は海岸の近くだけに食い止められました。樅の木は根を張って、襲いかかって来る砂埃に対して言いました。
 「ここまでは来ることができる、しかしここを越えてはならない。」
 ヨブ記38章11節
 北海沿岸の国にとっては、敵国の艦隊よりも恐ろしい砂丘が、戦艦ではなく緑の樅の林によって、ここに見事に撃退されたのです。
霜は降りなくなり、砂埃は抑えられ、その上に第三の効果として、洪水の被害が無くなったのです。
 これはどこの国でも植林の結果としてすぐに現れるものです。
もちろん海抜180メートルが最高点のユトランドでは我が国のような山の多い国のように洪水の被害を見ることはありません。しかしその比較的少ないこの被害すら、ダルガスの事業によってなくなったのです。廃れてしまっていた町並みは再び活気づきました。町や村が新たに起こりました。土地の値段は非常に高騰し、あるところでは40年前の150倍に達しました。道路と鉄道は縦横に建設されました。日本の四国とそれに2万6千平方キロを加えた広さのユトランドはこうして復活しました。戦争によって失われたシュレウスウィヒとホルスタインは、今日に至ってはすでに償われてなお余りあるということです。
 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、さらに尊いものは国民の精神です。デンマークの人々の精神はダルガスの植林が成功したことによって、全く変わったのです。
 失望していた彼らはこのことによって希望を回復しました。彼らは自分たちの国を削られて、さらに新たな良い国を獲得したのです。それは他の国を奪ったのではありません。
 自分たちの国を造り替えたのです。自由な宗教観から来る熱誠と忍耐と、そしてこれに加えて樅の木の持つ不思議な力とによって、自分たちの荒れ果てた国を挽回したのです。
 ダルガスのそのほかの事業について、私は今ここでお話しする時間がありません。彼はどのようにして砂地を田園に変えたか、沼地の水を排水したか、どのようにして石地を開墾して果樹園を作ったか、このことは植林事業に劣らず興味ある物語です。これらの問題に興味を持たれる方は直接に私にご質問下さい。
      *      *      *      *
 今日、ここでみなさんにお話しましたデンマークの話は、私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 第一に戦いに敗れることは必ずしも不幸ではないことを教えてくれます。国は戦争に敗れても亡びません。実際のところ戦争に勝利したのに滅びてしまった国は歴史の上で決して少なくはないのです。国が栄えるか、亡びていくかは戦争の勝敗の結果によりません。その国民の普段からの心のありようにあります。良い宗教、良い道徳、良い精神が(国民の間に)ある時に、国は戦争に敗れても衰えることはありません。いや、その全く反対が事実です。堅固な精神のあるところ敗戦はかえって、良い刺激となって不幸に陥っている民族を立ち上がらせます。デンマークは実にその良い実際例です。
 第二は自然の無限な生産力を示します。富の源は大陸にも、島々にも、沃野にも、砂漠にもあります。大陸の所有者が必ずしも富んでいる者ではありません。小さな島を持っている者が必ずしも貧しい者ではありません。ですから小さな国は決して嘆く必要はありません。逆に国が大きいことによって誇るということはできません。富というものは形として現れたエネルギーです。そうしてエネルギーは太陽の光線にもあり、海の波にも、吹く風にもあり、噴火する火山にもあります。もしこれを利用することができますならば、それらはみなすべて富の源です。かならずしもイギリスのように、世界の陸地面積の六分の一の所有者となる必要はありません。デンマークで足ります。いや、それよりも小さな国で足ります。外に拡大するよりは内を開発するべきです。
第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません。軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません。信仰です。
 このことに関しましてはマハン大佐(アメリカ海軍の軍人・歴史家・戦略研究者)もいまだ真理を語りません、アダム・スミス(イギリスの経済学者・哲学者)、J・S・ミル(イギリスの哲学者にして経済学者)もいまだ真理を語っていません。このことに関して真理を語っているものは、やはり聖書です。
 もしからし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって「ここからあそこへ移れ」と言えば、移るであろう。このようにあなたがたにできない事は、何もないであろう。
 マタイ伝17章20節
とイエスは言われました。
 なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
ヨハネ第1の手紙5章4節
と聖ヨハネは言いました。
 世に勝つ力、地を征服する力はやはり信仰です。ユグノー党の信仰はその中の一人の人によって、鋤と樅の木とでもってデンマークを救いました。
 あるいはまたダルガス一人に信仰がありましても、デンマークの人々全体に信仰がありませんでしたら、彼の事業も効果なく終わったのです。この人があり、この民族があって、またフランスから携えてきた自由な信仰が、デンマークの地に自ずと生まれ出た信仰があって、この偉大な事業が成功したのです。
 宗教は詩人や愚かな人には関係ないと唱える人は誰ですか。宗教は詩人や愚かな人には向いているけれど、実業家や知恵のある人には必要ないなどと唱える人は、歴史も哲学も経済も何も知らない人です。その国にもしこのような「愚かな知恵ある者」だけがいて、ダルガスのような「知恵のある愚かな人」がいなかったならば、不幸にも一歩を誤って、敗戦の悲運に遭った時に、その国はたちまち滅びてしまうのです。
 国家の大きな危機に際して、信仰を無用のものと白眼視するようなことは、あってはなりません。
 私が今日ここでお話しししましたデンマークとダルガスについての事柄は、大いに軽薄な世の知識人にとって戒めるべきことです。
「後世への最大遺物 デンマルク国の話」/内村鑑三著より
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主の膝下において(続き)1

2010年09月15日 06時49分01秒 | スンダル・シング
主の膝下において

ほんとうにたまになのですが、小生の拙訳を求めて来られる方があり、そのたびにファイルを送って差し上げて来ました。しかし考えてみるといつ私がインターネットが使えない状況になるかも知れず、このさい思い切って全文を掲載することにしました。
 昨今世の中は、人間性を疑わしめるような、奇々怪々な事件が起こり、それに対して根本的な対策も取れずに事態が進行して行く状況であると私は見ています。
 それに対して決して悲観的になってはいませんが、やはり心の究極的な問題、すなわち宗教の問題に光が当てられない限り、問題は解決しないように思います。
 そういう意味で、スンダル・シングが主の膝下において聞いた神の啓示は、現代人の私たちにも希望の光を灯してくれると思います。
 どうか、彼の言葉に耳を傾ける心の余裕をお持ち下さいますように。
2010年9月19日(日)神奈川にて

 訳者による序文
 原始福音・幕屋運動の創始者である手島郁朗先生のマタイ伝講義第八十講の中に次のような「主の膝下において」の紹介があります。
 ・・いつぞやわたしは、スンダル・シングの紹介者であるアパサミーというインド人の書きました本を翻訳しようと思って、とうとう訳さずに八年ほどたってしまいました。そのアパサミーがわたしに手紙をくれて、その中にこういうことを書いております。
 自分は一九二一年、二二年、学生時代にスイスのジュネーブにいた頃、スンダル・シングがやって来た。自分の国が生んだ最大の神の人、スンダル・シングか来る。そう思うとたまらなくなって、その会場に早くから詰めかけて、まん前で一言ももらさずに聞いたものだ。その後、なおスンダル・シングに親しく触れて、通訳者となった。
 そういう講演会の後には懇談会というものがあるものだが、そういう時に神学の先生たちがスンダル・シングに問うた。
「あなたは本当に深い宗教知識を持っておられる。そういう知識をどこから学んだか」
 「わたしは中学校もろくに卒業していなければ、神学校にも行ったことがない」
 「神学校に行かずして、どうしてそういう知識を学んだか」
「わたしは聖書だけを読んだ」
 「われわれは聖書をもっと読んでいる。また聖書を研究するにはもっと有益なのはヨーロッパだ。しかしあなたはどこで?」
 「そう言われるなら、わたしは言うけれども、みなさんは、神学に関してはよくご存じだけれども、神学という神に関する知識の源がどこにあるかということをご存じない。神に関する知識の源は、主の膝下にある。もし祈りによって、主の膝下にぬかずくならば、主は鮮やかに示し、語りたもう」。
 しかし、神学者たちはどうしてもそれを理解できなかった。スンダル・シング'は、そのとき、「神はなぜ人間を造ったか。神は自分の話し相手を欲したためである。人間は神とconverse(交わり、会話を交わす)ために造られた被造物である。したがって神の膝下にぬかずきさえすれば、神は親しくすべてのことを教え、語りたもう。聖霊はすべてのことを教え給う。今もキリストは教えてくださる。わたしはキリスト御自身からすべてのことを学ぶ。いつもわたしは神と語り、神と交わった喜びゆえに伝道した。みなさんは神学に関しての知識を欲しがるけれども、わたしは神御自身を欲する」と言った。
 わたしはその手紙を読みながら身震いしました。それでもう一度、わたしも信仰を考え直そうと思い、翻訳しようと思っている本その他を抱えて、グアム島に渡りました。人間は何のために造られているか、もう一度考え直す機会を得ました。わたしにとってうれしい数日間でした。・・
 これを読んで私は、もう一度、「主の膝下にありて」を読んで見たいと願っていました。すると、まったくの偶然からある人がその本を送ってくれたのです。しかも、英語訳も含めて。
スンダル・シングは、はじめこれをウルドゥ語で書き著したらしいが、英文そのものも、彼が目を通したようです。それで英文を参照しながら読み進むと、何となく自分にはしっくり行かない訳文がありました。それでおこがましいことですが、自分なりに翻訳を始めて見たところ、スンダル・シングが序文で述べているように、私にとっては大きな信仰の転換となり祝福となったのです。
 これを私自身の個人的なものに、とどめて置くべきかどうか、迷いましたが、現代ではあまり読まれていないスンダル・シングの著作を紹介する意味でも思い切ってここに発表することにしました。
 彼のキリストへの信仰は、西洋における神学的理解ではなく、直感的に喩え話によって真実を示していることが大きな特徴です。ちょうど、新約聖書の中で、イエス・キリストが多くの喩え話をもって語られたようにです。
 日本ではキリスト教と言えば西洋から伝わって来たもののように考えられていますが、それは東洋の一角で誕生したのです。そしてイスラム教や近代ユダヤ教はもちろんのこと、大乗仏教にも影響を与えていることは周知のことです。
 それで、多分この私の訳文自体は誤りの多い、不完全なものかも知れないのですが、しかし必ずやこれを通してこれまでのキリスト教に関する知識とは違って読者諸氏の目を開き、信仰の飛躍につながることを、確信させられるのです。
私がただ願っておりますのは、これを読むことによって、神が今も語り給うということ、ひとりひとりと語ることを望んでおられるということを知り、そのことが実際に始まることです。
平成十八年七月十五日

序文
キリストの言葉;
 「あなたがたは、わたしを教師、また主、と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。」 (ヨハネ伝十三章・十三節 ) 
「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 (マタイ伝十一章・二十九節) 
 この世界において、反論と批判を、はるかに越えたこれほどに完璧な言葉はほかに見当たらない。
 我々に光と熱を与えてくれる太陽ですら、その黒点を免れることはないのだが、その欠陥にもかかわらず、太陽はその規則正しい義務をやめることはないのである。
 同様に、我々に委ねられた最高の我らの能力を、発揮し続け、我々の人生を実り多きものとするために、絶えず懸命に努力することは、我々の当然の義務である。
 この冊子で述べられている数々の真理が、主から私に啓示された時、それらは私の生活に深く影響を与えた。そしてそれらのいくつかは私がヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、オーストラリア、アジア、などでの講演や説教で語って来たものである。
 多くの友人の求めにより、それらをこの小冊子にまとめることにした。この冊子で述べられている中に、欠陥はあり得るだろうが、私は確信する。これらを祈りと偏見のないこころで読む者には、私が得たと同じ利益を受けるであろう。
 私にとっては私に啓示されたこれらの真理を、喩え話を使わないで述べることは、不可能である。そして、喩え話を使うことによって、私の記述は比較的容易になったのである。
 私の祈りは、神がその恵みと憐れみによって、これら数々の真理によって、私を祝福されたように、読者諸氏を祝福されんことである。

あなたの卑しき下僕
  スンダル・シング
一九二二年七月三十日

序章
最初の幻
 ある暗い夜、私は祈るために一人で森に入って行った。そして岩の上に座り、私が深く必要としていることごとを、神の前に持ち出し、彼の助けを懇願した。
 程なくして、みすぼらしい身なりの男が私に近づいて来るのが見えた。その男は空腹で、寒そうだったので、私に何か施しを求めに来たのだと思った。
 私は彼に言った。「私は貧しい人間で、この毛布以外には何も持っていないのです。近くの村ヘ行って、そこで助けを求めた方がよろしいですよ」。
 すると、見よ!私がこのことをまだ話しつつある間に、彼は稲妻のように光り輝き、祝福のしずくをシャワーのように注ぎながら、あっという間に姿を消してしまったのである。
 アー、(何)ということだ!アー、今や私には、はっきりと分かった。この人は私のような貧しい被造物に物乞いするためではなく、私を祝福し豊かにするためやって来た、私の愛する主であった。( コリント人への第二の手紙:八章・九節)
 そして、私は自分の愚かさと、洞察力が欠けていたことを嘆き、泣き続けたのである。」

二回目の幻
 別の日に、仕事が終わったので、私はまた祈るために森に入って行った。そして、例の同じ岩の上に座り、どのような主の祝福を懇願すべきかを熟考し始めた。
 しばらくそうしていると、別の男が私の側近くに立っている気配がした。彼の物腰や身なり、そして話し振りからすると、尊敬すべき献身的な、神の下僕のように見えたが、彼の目は狡猾そうに、ぎらぎらと輝き、彼が口を開くと、地獄の悪臭を吐いているようだった。
 彼は次のように述べた。「聖なる、栄誉あるお方よ、あなたの祈りを中断し、お一人の時を邪魔して申し訳ありません。しかし、ほかの人たちの便宜を計るのが、いわゆる人の義務であり、それで私は、あなたにとって重大な要件を持ち来たったのです。
 あなたの純粋で私心のない生活は、深い印象を私だけでなく多くの敬虔な人々に与えて来ました。
 しかしながら、神の名において、あなたがどれだけ他人のために身と魂を捧げようとも、あなたはほんとうには評価されて来ませんでした。
 私の言う意味は、クリスチャンであることで、ほんの数千人のキリスト教徒たちがあなたの影響下にやって来たのですが、これらの人たちの、なおいくらかは、あなたに信頼を寄せてはいないと言うことなのです。
 もしあなたが、ヒンズー教徒かモスレム教徒になり、実際に偉大な指導者になるとしたら、そのほうがどれだけ素晴らしいでしょうか?
 彼らはそのような霊的指導者を捜し求めているのです。
 もしあなたが私のこの提案を受け入れてくれるなら、三億一千万人のヒンズー教徒とモスレム教徒があなたの信奉者になり、敬虔な忠誠を捧げるのです。」
 その男の、これらの言葉を聞くやいなや、私の唇からこれらの言葉がほとばしり出た。「汝、サタンよ、この場から立ち去れ!
 私にはお前が羊の皮をかぶった狼であることがすぐに分かった。
 お前の唯一の願いは、私から十字架と生命に至る狭き道を諦めさせ、死に至る広い道を選ばせようとしていることだ。
 御自身がその生命を私のために与えて下さった私の主が、私の嗣業であり私の分け前なのだ。私にとって全ての全てである主に、私の命と私の持てる物、全てを捧げることは当然のことなのだ。
 だから、ここから立ち去れ。お前とは、私は何の関係もないのだ。」
 これを聞いて、彼は怒りでぶつぶつ言いつつ、唸り声をあげながら去って行った。
 そして、私は涙しつつ、神への祈りの中に私の魂を注ぎ出した。
 「我が主なる神よ、我が全ての全てよ、我が生命の生命よ、そして、我が霊の霊よ、憐れみをもって私に目を留め、あなたの聖霊で満たして下さい。私の魂があなたの愛以外の何ものにも場を与えないようにして下さい。
 私はあなたからあなた自身以外の何ものも求めません。あなたはすべての生命と祝福を与える方です。
 私は世界とその富を決して求めないばかりか、天国さえも求めません。あなただけを私は渇き求め、待ち焦がれます。そしてあなたがおられるところにこそ天国はあるのです。
 この我が魂の飢えと渇きは、我が魂を生んだあなたによってのみ満たされます。
 おお、私を創られた方よ!
 あなたは私の魂をあなた御自身のためだけに造り給うたのであって、他のいかなるもののためでもありません。ですから、この私の魂はあなたの内においてのみ、休息と安らぎを見出だすのです。私の魂を創られ、このまさに休息を慕い求めるようにされた、あなたの内にこそであります。
 あなたに敵する全てのものを我が魂から取り去って下さい。そして、私の内に入って内住し、永遠に支配して下さい。アーメン」
 この祈りから身を起こした時、私は光輝く方が、光と美に包まれて、私の前に立っているのを見た。
 彼は一言も話さなかったが、また私の目が涙に溢れて、彼を定かに見ることが出来なかったが、彼から、生命を与える愛の光のような光線が注ぎ出されて、強烈な力で私の中に入り込み、 私の魂そのものを浸し尽くした。
 直ちに私は、わが愛する救い主が、私の前に立っていると悟った。
 私は直ちに座っていた岩から立ち上がり、主の足下に平伏した。
 彼はその手に、私の心の鍵を持っていた。
 彼は私の心の内奥を、その御愛の鍵で開けることによって、彼の臨在でそれを満たして、内も外も私に見えるのは、ただ彼だけだった。
 それから私は、人の心はまさに神の王座であり、その城砦であることを知った。そして神がその内に住もうとお入りになる時、天国が始まるのだ。
 これらのほんの僅かの間に、彼は私の心を満たし、例え私が多くの本を書こうとも、語り尽くせないほどの素晴らしい御言葉を、私に語ってくれた。
 というのも天国の消息は天国の言葉でしか説明出来ないからだ。この世的な舌はそれらを述べるには十分ではないのである。
 それでも、私は、主から幻として伝えられた、これらの天界の消息を、ほんの少しでも、書き留めようと努力してみるつもりだ。
 以前に私が座っていた岩の上に、主、御自身がお座りになり、私はその足許に座し、主と弟子の間で以下に述べる対話が始まったのである。
第一章
 第一節
 神の実存の顕現
弟子
 おー、主よ!生命の源泉よ!
 何故あなたは、あなたを崇拝する者から御自身をお隠しになり、あなたを見上げて待ち望む者の目を喜ばせないのですか?
主 
 1.私のまことの子よ、まことの幸せは肉の眼によるのではなく、霊的幻を通して来るのであって、心によるのだ。
 パレスチナにおいて、何千という人々が私を見たが、それによって彼らの全てがまことの幸せを手にした訳ではなかった。
 やがて滅び行く眼では、滅び行くものしか見えない。何故ならば、肉の眼では不滅の神や霊的な存在は見ることは出来ないのだ。
 例えば、お前は自分自身の霊を見ることは出来ない。それで、どうやってお前はその創造主を見ることが出来ようか。
 しかし霊的な眼が開けると、その時は、確実に霊なる神を見ることが出来る。 (ヨハネ伝四章・二十四節)ちょうど、いまお前が私を見ているのは肉の眼ではなく、霊の眼で見ているようにだ。
 お前が言うように、何千という人々が、パレスチナで私を見たと言うのなら、彼ら全ての霊眼が開けていたのだろうか、それとも私自身が滅び行く者になったのか?
答えは、(否)だ。
 私は滅び行く肉体をまとった。それは肉体において、私がこの世の罪のための賠償金を支払うためだった。そしてこの罪人を救済する業をなし終えた時 (ヨハネ伝十九章・三十節) 滅び行くものが滅びざるものへ、栄光ヘと変貌したのだ。
 従って、復活の後では、霊的視力を受けた者のみが、私を見ることが出来た。 (使徒行伝・十章・四十節から四十一節)

二、この世界では、私について知っているのに、私を知らない者が多い。それは、彼らが私と個人的な関係を持っていないからだ。従って、彼らは私のことをほんとうには理解していないし、私に信ずることもない。それで彼らは私を自分たちの救い主として、また主として受け入れないのだ。
 それはちょうど、生まれつき、赤や青や黄色のような違った色について、識別出来ない人と話をしているようなものだ。その人は、それらの持つ魅力や美しさについては全く気がつかないままだし、何らその価値にふれることも出来ない。彼はただそれらについて知っているだけであり、さまざまな名前を知っているだけなのだ。
 しかし、色彩に関しては、彼の眼が開かれるまでは、そのほんとうの概念を持つことは出来ない。
 同様に、人間の霊的な目が開かれるまでは、彼がどんなに学問を積んでも、彼は私を見ることは出来ない。彼は私の栄光を見据えることも出来ないし、私が神の顕現であることも理解できないのだ。

三、その心に霊的生命と平安を彼らにもたらしている私の臨在に気づいているのに、はっきりと私を見ることができない、多くの信仰者がいる。それはちょうど、目が多くのものを見ることが出来るのに、誰かが目薬を差すと、眼はそれを見ないが、目薬の存在は眼の内側を洗浄し、視力の回復を促進しているのを感じ取ることが出来るようにだ。

四、真の信仰者の心の中に私の臨在から生じたほんとうの平安を、肉眼でみることはできない。しかしその力を感じ、その中で幸福になる。
 また、思いと心の幸福感を通して彼らは私の臨在から来る平安を楽しむのだが、それらを見ることは出来ない。
 それはちょうど、舌と砂糖菓子との関係と同じだ。
 舌にある味覚と、そこで感じる甘味はともに目で見ることは出来ない。
 このように、私は私の子たちに、隠されたマナによって、生命と喜びを与えているが、それはこの世がどんなに知恵を尽くしても知ることがないし、また、知ることが出来ないのである。 (黙示録二章・七節)

五、時に、病の間、舌の味覚が鈍くなる時がある。その間は、どんなに美味しいものを病人に与えても、彼には、まずい味に感じるだろう。
 まさにそれと同じように、罪が霊的なものを感ずる妨げとなっているのだ。
 そのような状況下では、私の言葉や、私の業、私の臨在は、罪人にとっては魅力を失ってしまう。それらによって多くの益を受ける代わりに、彼はそれらについて議論し始め、それらを批判し始めるのだ。

六、多くの信者たちはまた、生まれつきの盲人がその視力を得た時のように、イエスを預言者、あるいは人の子として見ることは出来るが、しかし再び力を帯びて、彼等に私が現されるまでは、私を救い主、神の子と見なすことは出来ないのである。(ヨハネ伝九章・十七節、三十五節から三七節)

七、かつてある母親が、庭園で潅木の生い茂る中に身を隠したが、幼い息子が彼女を探し求めて、あちらこちらを泣きながら歩き回った。
 庭園全体を歩き回ったが、彼女を見つけることはできなかった。
 ひとりの召使いが彼に言った「ぼっちゃま、泣かないで。
 あの木になっているマンゴーや庭に咲いているきれいな花々をご覧なさい。
 さあ、いらっしゃい、あなたのためにそれらをいくつか取って差し上げますから」と。
 しかし、息子は泣き叫んで言った。「いやだ。いやだ。ぼくはお母ちゃんがいいんだ。
 お母ちゃんがぼくにくれるものはどんなマンゴーより素晴らしいし、お母ちゃんの愛はこれらのどの花よりもはるかに綺麗なんだ。それに、この庭にあるものは全部ぼくのものだ。お母ちゃんが持っているものは全部ぼくのものだからだ。
 いやだ。ぼくはお母ちゃんがいいんだ!」
 藪の中で隠れていた母親は、これを聞いた時に、藪から飛び出し、息子をひったくるようにして、胸に抱きしめ、息もつけないほど息子にキスをあびせかけた。そうしてその庭は息子にとってパラダイスとなったのだった。
 このようにして、私の子たちも、この大いなる世界の庭で、魅力的で、美しいものが満ち溢れていても、私を発見するまでは、ほんとうの喜びを見つけ出すことができない。
 私はインマヌエルの神であり、永遠に彼らと共にいる者である。そうして私は彼らに私自身を現そう。 (ヨハネ伝・十四章・二十一節)

八、水の中に浸かっているスポンジのように、水はスポンジに満ちているが、水はスポンジではなく、スポンジもまた水ではなく、違ったものとしていつまでも残っているように、私の子たちは私の中に留まり、私もまた彼らの中に留まる。
 これは汎神論ではなく、この世界に住む人々の心の中に構築されている神の王国なのである。そしてスポンジの中の水のように、私はあらゆる場所、あらゆる物の中にいるが、しかしそれらは私ではないのである。(ルカ伝十七章・二十一節)

九、炭を一つ取りなさい。それをどんなに洗っても、その黒さは消えることがない。しかし、その中に火を入れてみなさい。その黒い色は消え失せてしまう。
 だからまた、罪人が聖霊を受けたならば(それは父と私から来る。何故なら、父と私は一つだからだ。そして、それは火のバプテスマだから、罪の全ての黒さは追い払われてしまい、彼は世の光とされるのである。(マタイ伝三章・十一節、五章・十四節)
 炭の中の火のように、私も私の子たちの中に棲み、彼らは私の中に留まる。そして彼らを通して、私は世に私自身を顕現するのだ。」

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主の膝下において(続き)2

2010年09月15日 06時48分39秒 | スンダル・シング
 第二節

弟子−
主よ、近頃、ある神学者とその信奉者たちは、あなたの償いや血による贖罪は、無意味で役に立たないものだとみなし、キリストは単に一人の偉大な教師であり、我々の霊的生活の模範であるに過ぎず、また、救いや永遠の幸福は、我々自身の努力や善行によって決まるのだと言っています。
(主)
一、霊的、宗教的発想は、頭脳より心に大きく関連しているということを決して忘れてはいけない。心は神の宮であり、神の実在が心に満ちた時、頭脳も啓発されるのだ。
と言うのは、理解するという心と目の働きは、真の光に照らされなければ、役に立たないからだ。それは、肉体の目が日の光なしにあるようなものだ。
暗闇の中で、ある人はひもを蛇と見間違えるだろう。ちょうどこの世の賢者が霊的真理を曲解し、純朴な魂を誤まった道に導くように。
だから、サタンがイヴをだました時、羊や鳩を用いず、動物の中で最も狡賢い蛇を用いた。
そのように、彼は賢者の知恵や神学者の技量を捉えて、それを自分の目的に合った道具とする。
しかし、学んで賢いというだけでは不十分だ。人はまた鳩のような無邪気さがなければならない。だから、私は次のように言った。「蛇のように賢く、鳩のように柔和であれ」。(マタイ伝十章・十六節)
 二、私の十字架と贖罪は、信ずる者に真鍮の蛇がイスラエルの民に対してしたのと同じことをする。と言うのは、信仰の目でそれを見上げた者は、誰でも救われたからである。(民数記二十章・九節、ヨハネ伝三章・十四節から十五節)
しかしながら、信じる代わりに、それをただの真鍮であると考え、こう批判して言った者もいた。「もしモーセがその毒蛇に対する解毒剤を提供したか、あるいは強力な薬、または特別な医薬品を我々に与えたなら、それはしかるべき信仰の対象となっただろう。しかし、この棒切れが毒蛇に対してどのような力があるのだろうか?」
彼らはみんな死んだのだ。
今日においても、神が指定された救済の方法に、けちをつける者は、自らの罪の毒で滅びるだろう。
 三、ある若者が絶壁から落ち、重傷を負った。そして多量の血を失い、瀕死の状態にあった。
彼の父が彼を医者のもとヘ連れて行くと、医者は言った「生命は血だ。この若者への血の供給は枯渇してしまった。だがもし誰かが、自分の生命を犠牲にする気なら、この若者は快復するだろう。さもなければ、彼は死ぬだろう」
その心が息子への愛で溢れていた父親は、自分の血を提供した。そしてそれは若者の血管の中へ注ぎ込まれ、彼は快復した。
人はその罪によって聖なる山から落ち、骨折して横たわり、傷ついている。そしてその傷のゆえに、彼の霊的生命は衰退し、死にそうになっている。
しかし、私に信じる者には、私自身の決して尽きることのない、霊的な血を注ぐ。それは、彼らが死から救われ、永遠の生命を得るためだ。
この目的のために、私は来た。すなわち彼らが生命を得るため、さらにそれを豊かに持つためにであり、このようにして彼らが永遠に生きるためである。(ヨハネ伝十章・十節) 
 四、古代では、人は動物の血を飲むことや特定の食物を食べることを禁じられていた。それは、特定の病気を避けるためであり、また人も動物的肉体を持っているので、肉を食べたり、血を飲んだりすることによって、人の動物的性癖が強まらないようにだった。
しかし今や、「私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である」(ヨハネ伝・六章五十五節)
それらは霊的生命を与え、それによって、まったき健康と、天来の幸福と、喜びを受けるのだ。
 五、罪の赦しは完全な救いを意味するのではない。何故ならそれは罪からの完全な自由によって、もたらされるからだ。
と言うのは、たとえ人が、まったき罪の赦しを受けても、その罪による病気から死ぬこともあり得るからだ。
例えば、ある人が長い間のあらゆる病気が原因で、その脳が冒されて、そのあいだに他人を襲い、彼を殺してしまったとする。
そして、彼に死刑判決が宣告された時、身内の者が、裁判官に事情を説明し、情状の酌量を訴えて、そして彼は殺人の罪を許されたとする。
しかし、彼の友人が、その良き知らせを持って彼のところに辿り着く前に、実際に彼らが道の途中にあった時に、彼は殺人を犯したことが原因の病気で死んでしまったとする。
殺人者にとって、この赦免はどんな利点があったのだろうか?
彼の本当の安全は、病気が癒されることだった筈だ。そしてそうなればその赦免によって、彼は本当の幸福を得ただろう。
私が肉体において顕現したのはこのためだった。すなわち罪の病から悔い改めている信者たちを、その罰と死から救い出すことであり、これによって原因と結果を取り除くためだ。
「彼らはその罪の中で死ぬことはない。私が彼らを救うからである。」(マタイ伝一章・二十一節)
 そして、彼らは死を越えて、永遠の生命を受け継ぐ者となるのだ。
 六、多くの人にとって、生命は危険に満ちている。それは、川の流れに突き出た木の枝の上の蜂の巣を見かけたハンターのようなものだ。
木に登って、彼は蜜を味わい楽しんでいるが、自分が死の危険に直面していることには全く気づかないでいる。というのは、彼の真下の川には、ワニが彼を食らおうと口を大きくあけて待っているし、一方では木の根元のあたりで、狼の群れが彼の降りて来るのを待って集まっているのだ。
さらに悪いことに、彼が座っている木は、その根を昆虫に食べ尽くされて、今にも倒れそうなのだ。
短い時間の内に木は倒れ、その不注意なハンターはワニの餌食になってしまった。
このようにまた、肉体の中に安住している人間の魂も、脳という蜂の巣の中に集められた、束の間の、はかない、偽りの、罪の快楽を楽しむ。そこが、この世のぞっとするようなジャングルの、真っただ中だということには一切思いを致さないのだ。
そこでは、サタンがずたずたに引き裂こうと待ち構えていて、地獄がワニのように口をあけて彼を飲み込もうと待ち構えている。一方、最も悪いことには、目に見えない小さな罪の昆虫が、肉体と生命の根を食べ尽くしているのだ。
やがて魂は落下し、永遠に続く地獄の餌食となってしまう。
しかし、私に来る罪人を、私は罪から、サタンから、そして地獄から救い出す。そして誰もそれを彼から取り去ることのない,永遠の喜びを与えるのである。(ヨハネ伝十六章・二十二節)
 七、サタンは巧みな話と誘惑で人々を引きつけ、彼らを飲み込んでしまう。ちょうど、蛇がそのきらめく眼の魅力で小鳥を魅了し、餌食にするようにだ。
しかし、私を信じる者には、私はあの老練な蛇や、この魂を破滅させる世界の誘惑から、救いを得させる。
私は彼らを自由にする。鳥が地上の重力に楽々と抗して、自由に開かれた大空を飛び翔るように。彼らは祈りの翼に乗って、私の愛の甘美な魅惑に惹きつけられて、ついに彼らの心が待ち望んでいる安全な棲家に辿り着くのだ。
八、黄疸のある人には全てのものが黄色く見えるように、罪人や哲学者にとって、真実そのものが、彼の罪の、あるいは彼の理論の形や装いを帯びる。そして、そのような人々が、さらに一歩進んで、私を彼ら自身のような罪人の一人と見なしても、さして驚くにはあたらない。
しかし罪人を救済する私の業は、世の好評に依存するのではなく、信じる者たちの、何ものにも妨げられない生き方の中でどこまでも進行するのだ。
ちょうどレビが、アブラハムの腰の中にあって十分の一税を納めたように、彼らの罪のための償いと身代金が、十字架の上に捧げられた。その時には彼らは生まれてさえいなかったのにだ。というのはこの救いは世界中の人々のすべての人種のためだからだ。
 九、<人は自分自身の努力と善き行いによって救われる>、と言うことわざは、人は再び生まれ、(過ちを改める)ことはできないのだから、愚かで馬鹿げたことだ。
世の支配者や道徳の教師たちは言う。「善い行いをすることによって、善い者になりなさい」。しかし、私は言おう。「善い働きをする前に、あなた自身が善い者になりなさい」。
新しい善良な生活が始まったならば、善い行いは当然の結果となるだろう。
 <にがい木が、絶えず実を結ぶなら、ついには甘い木になる>などと言うのは、愚か者だけだ。
実際のところは、にがい木が甘い木に接ぎ木されて、甘い木になり得るのだ。それによって甘い木特有の(生命)と性質が、にがい木に流れ込み、その本来のにがみが無くなってしまうのだ。
これが我々が「新しい創造」と呼ぶものだ。
だからまた、罪人が正しいことをしようとする願いを持つかも知れないが、それでもただその結果は罪に終わる。しかし、彼が悔い改め、信仰によって私の中へ接ぎ木される時、彼の内にある古い人は死に、そして彼は新しく造られた者となる。
そうすると、神の救済の中に起源を持つこの新しい生命から、善き行いが実を結び、その実は永遠に留まるのだ。
 十、多くの人は、人間の生来の善良さは、ほんとうの心の平安を与えないし、救いや永遠の生命ヘの確信も与えないと言うことを学んでいる。
私のもとに、永遠の生命を求めてやって来た若者がそのぴったりした例だ。
私についての彼の最初の考えは間違っていた。ちょうど、現代のこの世的な賢者たちやその信奉者たちのようにだ。
彼は私が白く塗られた墓のような(偽善者の)教師の一人と考えていた。彼らの生活の中には一片の真実な善良さもない。
このために私は彼に言った。「何故、私に善きことについて尋ねるのか?」
「神以外に善き者はいない」。
しかし、彼は私を、善と生命を与える者として見ることが出来なかった。そして私が彼を私の供にしようとし、彼をほんとうに善き者にして、生命を与えようとした時、彼は悲しみながら、私から去って行った。
しかしながら、彼の生活は、ある一つのことを明らかにしている。それは、彼の律法を守ることや、その善良さは、彼を満足させなかったし、永遠の生命の確信も与えなかった、ということだ。
もし、彼の善き行いが彼に平安を与えていたならば、私を訪ねて来ることもなかっただろう。あるいは彼が来たとすれば、私の言葉を信じて、喜びながら去って行っただろう。
 程なくしてその若者、パウロは私を認めた。彼の心の願いは完全に満たされた。
悲しみの中で立ち去るかわりに、彼は持っていたものを全て投げ出して、私に従ったのである。(ピリピ書三章・六節から十五節)
誰でも自分自身の義に頼ることをやめて、私に従う者は、私からほんとうの平安と永遠の生命を受けるだろう。

第三章
祈り
 第一節
弟子
よくこの質問がなされます。「神は私たちの必要なものを十分にご存じであり、そして最善の方法でどのようにそれを与えるべきかをご存じであり、しかも、正しい者にだけでなく、悪い者に対してでもなのに、何故それらについて私たちが神に祈るべきなのでしょうか?我々に必要なものが、この世的なものであれ、霊的なものであれ、私たちが自分たちの祈りによって神のご意志を変えることができるのでしょうか?」と。

 そのような質問をする者は、彼らが、祈りとは何かを知らないということを明らかに示している。
彼らは祈り深い生活をして来なかった。でなければ、祈りは物乞いをする行為ではないということを知っていただろう。
祈りは、この世の生活に必要なものを神から得ようと努力することにあるのではない。
祈りは、人生の著者であられる神御自身を手に入れる努力だ。そして我々が命の源泉である彼を発見し、彼との交わりに入った時に、やがて人生全体は我々のものになり、彼と共にあってそれは人生を完全なものとするのだ。
悪事を働く者たちに対して神は、彼らへの愛から、この世で必要なものを与える。しかし、霊的に必要なものについては、それを示すことすらしない。なぜなら彼らには霊的な命がないからだ。
神が、もしそのような霊的祝福を彼らに授けても、彼らにはそれを自分のものとすることが出来ない。
しかし、それら両方の賜物が、特に霊的な祝福が与えられると信じる者には、その結果すぐにも、一時的な祝福には少ししか関心を払わなくなり、彼らの愛を、見えない霊的なものに注ぐのだ。
私たちは神の御意志を変えることはできない。しかし祈りの人は自分に対する神の御心を発見することができる。
何故ならこの種の人々には、神は御自身を心の隠れた部屋で顕わされるのだ。そして彼らとの交わりを保ち、彼らの最善となるように、その恵み深い目的が示される。そうすると、彼らが不満に感ずる疑いや困難は永久に過ぎ去ってしまうのだ
二、祈りは、聖霊の中での呼吸のようなものだ。神は祈り深い人々の命の中に、生ける魂となるために聖霊を注ぎ込むのである。(創世記二章・七節、ヨハネ伝二十章・二十二節) 
彼らは決して死ぬことはない。何故なら、聖霊御自身が祈りによって彼らの霊的な肺に注ぎ込まれ、その霊を健康で活力のある永遠の生命で満たすからだ。
 愛である神は、全ての人に、この世的、霊的に必要なものを惜しみなく授けて下さる。だが、彼は救いとその聖なる霊をすべての人々に惜しみなく与えられるので、彼らはそれを軽く評価している。
しかし、祈りはそれらを評価することを教えてくれる。なぜならそれらは空気や水のように、そして熱や光のように、それなしでは生活できないからだ。
私たちの霊的生活のために必要なものを、神は惜しみなく与えて下さっている。しかし人間はそれらを軽く見なして、それらを創造された御方に感謝を捧げることをしない。一方では、希少で大いなる困難を伴って手に入れられた、金や銀や高価な宝石などの彼の贈り物を、高く評価する。けれども、そのようなものでは肉体の飢えや渇きは満たされないし、ましてや、心の渇きが満たされることもないのだ。
世の人々は、霊的なものに関してこのような愚行にでる。だが祈りの人に対しては、まことの知恵と永遠の(生命)が与えられるのだ。
三、この世界は、広大に広がる大海原のようだ。その中で、人々は沈み、溺れるが、海に棲む動物たちはその最も深い水の中でも、生の営みを続けている。と言うのも、彼らは時折、海面にやって来て、口をあけ、適当な空気を取り込んでいるのであり、それでもって海の深みにあっても生活出来るのだ。
そのように、個人的な祈りによって、この生命の大海原の表面に上がって来る者は、生命を与える神の霊を呼吸し、この世においても生命と安全を見いだすのだ。
四、魚はその一生を塩水の海の中で過ごすが、彼ら自身は塩辛くならない。何故なら、彼らは自分自身の中に命を持っているからだ。そのように、祈りの人も、この罪で汚れた世界に住まなければならなくとも、罪の汚れから自由でいられる。それは、祈りによって、彼の生命が維持されているからだ。
五、海の塩水が、太陽の暖かい光線によって、上昇させられ、徐々に雲の形を取り、このようにして甘く新鮮な水に変わり、地上にシャワーとなって降り注ぐように、(と言うのも、海水は上昇する時塩分と苦味をあとに残して行く)祈りの人の思いと願いが、魂の霧の放射のように高く昇って行く時、義の太陽からの光線が彼らを全ての罪の(汚れ)から清め、そして彼の祈りは大いなる雲となり、祝福の雨となって天から降り注ぎ、地上の多くのものに息づきをもたらすのだ。
六、水鳥は水の中で泳いで生活しているが、いったん飛び立つと、その羽根は完全に乾いている。そのように祈りの人も、この世にその住まいを持っているが、高く飛び立つ時がやって来ると、彼らはこの穢れた世界を渡って、しみも(汚れ)もなしに、彼らの永遠の、やすらぎのふるさとへ辿り着くのだ。
七、船は、極めて巧妙に水の中に浮かんでいる。だが、水がその中に流れ込んで来ると、均衡を失い危険だ。
そのように、この世に居住している人も、普段は彼自身やほかの人々にとって、順風満帆だ。と言うのは、浮かび続けていれば、彼らをも自分と一緒に、命の港ヘと辿り着く手助けが出来るからだ。
しかし、この世が彼の心の中への道を発見するということは、死と破滅を意味する。
従って祈りの人は、常に自分の心を、ご自分の宮となして下さる神のために、取っておく。そしてこのようにして、彼はこの世においても、来たるべき世においても平安と安全の中に休息するのだ。
八、私たちはみな、水なしでは生きられないが、もし水の底に沈めば、窒息して死んでしまうということを知っている。
私たちは水を利用し、飲む一方で、その中に落ち込み、その底に沈むべきではない。
それだから、この世とこの世の物は慎重に用いられなければならない。何故なら、それらの物なしには生活が困難になるだけでなく、不可能だからだ。
神はまさにこの目的のために、この世界を創造された。しかし、人間はその中で溺れるべきではない。なぜならこのようにして祈りの呼吸が止まり、そして死ぬからだ。
九、もし祈りの生活を生きることをやめると、霊の生命は衰え始める。すると有用であるベきこの世の物が有害となり破壊的なものとなる。
太陽はその熱と光で全ての野菜を育て繁殖させるが、また、枯れたり死滅する原因ともなる。
空気もまた全て生けるものに生命と活力を与えるが、それ自身は腐敗の原因ともなる。
だから「目を覚まして祈りなさい」。
九、我々はこの世にあって、この世のものではないが、この世界で生きるべきだ。そうするとこの世界の物は有害である代わりに有用なものとなり、霊的生活の成長を助けるようになるだろう。しかしそれはただこの条件においてだ。すなわち、我々の霊が常にその顔を義の太陽に向け続けていることだ。
このように、時には、ある不潔な、きたならしい土の土地から、花が芽生え咲き乱れて、その花の甘い香りがその場所の醜悪な匂いを圧倒してしまうことがある。
植物は太陽の方を向き、それから熱と光を受ける。そして土の汚物は植物に有害である代わりに、肥料となり、成長し花咲くのを助ける。
そのようにまた、祈りの人は祈る時その顔を私に向け、私から光と暖かみを受け取る。そしてこの邪悪な世界の醜悪な匂いのただ中で、彼の新たな聖なる生活が私を讃える。しかも彼の中にはただ甘い匂いが発散されるだけでなく、その実がいつまでも残るのだ。

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主の膝下において(続き)3

2010年09月15日 06時48分22秒 | スンダル・シング
第二節


 祈る、と言うことは、祈りなしでは、神は私たちに何も与えてくれない、あるいは神が私たちの必要に気づかないということを示唆しているのではない。しかしそれはこのような大いなる利益がある。つまり祈る態度の中に、その魂は、それらの神が与えようとしている祝福と共に、祝福を与えるお方を受け入れるのに、もっとも適するようになるのだ。
このように、聖霊の満たしは使徒たちの上に最初の日ではなく、特別に備えられた十日の後に注がれたのだ。
もし祝福がそれに対して何の特別な備えもない者に与えられたなら、彼はその価値を十分に認めないし、また長くそれを保持することもないだろう。
例えば、サウロは探し求めることなしに、聖霊と王位を得たので、すぐにその両方とも、失った。彼は聖霊を得ようとしてではなく、いなくなったロバを探そうとして家を出たからである。(サムエル記前書・九章・三節、十章・十一節、三十一章・四節)
二、祈りの人だけが、霊とまこととをもって神を拝すことができる。
他の者は感じやすい植物のようなものだ。礼拝中は聖霊の臨在と説教に感動し、植物が萎れるように首をうなだれ、深刻になる。しかし礼拝が終わり、教会を出るやいなや、彼らは自分自身を元気づけ、以前のように振る舞い続けるのだ。
 三、もし、私たちが良い実を結ぶ木や潅木あるいは花に十分手をかけてやらなければ、それらは退化し、野生に戻ってしまう。
同様に信仰者が祈りと霊的生活をおろそかにし、私の中に留まることをやめるならば、その不注意のために、祝福の状態から落ちて、再び古い罪に満ちた生き方に沈んで、失われてしまうのだ。
四、私たちは、鶴が全く動かないで湖の縁にじっと立っているのを見ると、その態度からそれは神の栄光や素晴らしい水質について物思いに耽っていると思うかも知れない。
とんでもないことだ! 
鶴はそこで何時間も動かないでじっとしている。しかし蛙や小魚を見つけた瞬間、鶴はそれに飛びかかり、飲み込むのだ。
ちょうど祈りや瞑想についての多くの者の態度ややり方はそのようなものだ。
神の無限の大洋の岸辺に座しながら、彼らは神の栄光や愛、あるいは、罪を清め、魂の飢えを満たしてくれる神の聖なるご性質について熟考するどころか、自分たちが特に欲している物を何とか手に入れようという思いに包まれている。そしてそれによって、この移ろいゆく世の中の娯楽にさらに耽ろうとしている。
このようにして、彼らはまことの平安の泉から目をそらし、この世の褪せ行く快楽の中に没頭し、また死んで過ぎ去って行くのだ。
五、水と石油は共に大地から産出して、この二つはよく似ているか、全く同じものに見えるが、その性質と目的はまさに正反対だ。というのは、一方は火を消すが、もう一方はそれにさらに燃料を増し加える。
そのように、この世とその宝物、心と神への渇きは同じように神の創られたものだ。
今、その心をこの世の富と自尊心、また栄光でもって満足させようとする試みは、あたかも火に油を注ぐようなものだ。何故なら、心はそれら両方を創られた御方の中にしか安らぎと満足を見出すことはできないし、それへの切望を心は意識しているからである。(詩篇十三篇・一節、二節) 
このゆえに、誰でも今、私のもとに来る者に、再び渇くことがないように、私は生ける水を与える。そればかりか、それはその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがるのである。(ヨハネ伝四章・十四節)
六、人々はむなしくこの世とこの世の物の中に平安を求める。経験は明らかに真の平安と満足はそれらの中に見出せないことを示している。
彼らは、ふたを取ってその箱の中にあるものを見出すように、たまねぎを見つけてその中に何かを見つけようと皮を剥き始める少年に似ている。
しかし、彼の期待は全くの無駄だった。何故なら、彼がその中に見つけたのは、ただ最後の皮だけだったのであり、タマネギは単に皮の集まったものでしかないからだ。
そして、人間が真の平安の泉を発見するまでは、この世とそれに属する全てのものは、空の空なるものでしかないことが証明されて来たのである。(伝道の書・十二章・八節) (イザヤ書五十五章・一節、エレミヤ書二章・十三節、黙示録二十二章・十七節)
七、この世は、蜃気楼に似ている。そして真理を求める者が、その渇いた霊魂を満たすものを見つける期待を持ってそれを探す旅に出るが、失望と絶望以外には何も見出だせないのに似ている。
命の水は人の作った桶やひび割れた貯水槽の中に見つけることはできない。しかし、純粋な心で祈りにおいて私に近づく者は、生ける水の源である私を発見する。そして、そこから彼らは満足と活力と永遠の生命を得るのである。(イザヤ書五十五章・一節、エレミヤ書二章・十三節、黙示録二十二章・十七節)
八、ひとりの女が子供を腕に抱いて山道を旅していた。その子供がきれいな花を見つけ、突然、母親の腕をふりほどき、跳び出したので、それは山の斜面を真っ逆さまに転げ落ち、岩に頭をぶつけてそこで死んでしまった。
ここで全くはっきりしているのは、その子供の安全と保護は、母親の腕の中に見出されるべきであって、その死の原因となった魅力的な花々の中ではなかったということだ。
祈りの生活をしていない信仰者もそのようにふるまう。
この世の、あっという間に過ぎ去ってしまう、魅力的な快楽に目を留めた時、彼は母よりもはるかに大いなる私の愛と思いやりを忘れてしまい、そして私が与える霊のミルクを無視し、私の腕から跳び出して、失なわれてしまうのだ。
九、母親が与える滋養物は、幼児のがわで何らかの努力をしなければ、それを得られないようになっている。
そのようにまた、ふところに抱いている私の子供たちも、求めることなしには、彼らの魂を救うことのできる霊的なミルクを手に入れることは出来ない。
そして子供は、どこで、どのようにして食物が得られるかを本能的に知っていて、教えられる必要がないように、霊より生まれた者も、霊的な本能で、この世的な哲学や知恵に教えられなくとも、どのように祈り、彼らの霊の母親である私から、永遠の生命のミルクを、手に入れることを知っている。
 十、私は人間の本性の中に、飢えと渇きを吹き込んでおいた。それで、全く無分別に、彼が自分自身を神と見なすようなことがなく、彼の必要とするものと、彼の命は自分を創って下さった方の生命と存在に深く結び付けられているということを、日々思い起こすようにした。
こうして、自分の欠点と必要に気づかされて、彼は私の中に留まり、私は彼の中に棲む。そしてそうすると彼は常に私の中に幸福と喜びを見出だすようになるのだ。 

第三節

祈るとは、いわば、私と言葉を交わす間柄だと言うことだ。そして、私と交わり、私の中に留まることによって、私のようになることだ。
草と緑の葉の間に暮らし、それらを常食としていて、体の色がそのようになる、ある種の昆虫がいる。
また、白い雪に囲まれて暮らしている北極熊も、雪のような白い身体をしている。そしてベンガル(インド北東部)の虎も、その地方の葦の斑点を皮膚に身に着けている。
そのように、祈りという方法を通して、私と霊の交わりの中にある者も、聖徒たちや天使たちと共に、私の性質を帯び、私の姿に形作られ、私に似た者となる。
二、ぺテロ、ヤコブ、ヨハネたちを、ほんの短い時だったが、変貌の山で霊の交わりの中に連れ出した時、私は彼らに私の栄光のいく分かを示した。そして、全ての聖者の中で、モーセとエリヤだけが彼らに現れた。彼らは天の栄光をほんのちょっと見ただけで、心が奪われてしまったので、住んでいただくために小屋を三つそこに建てようと望んだのである。(マタイ伝十七章・一節から五節、ヤコブ書一章・十七節)
それならば、私の中に住んでいる者たちの幸福は、どんなに素晴らしいことだろうか。そして無数の聖徒たちや天使たちと一緒に、彼らが慕い求めている天国に入り、何の欠けるところもなく、変化の影すらない、私のまったき栄光を、共にするのは如何に素晴らしいことだろうか!(ヨハネ伝十七章・二十四節、ヤコブ書一章・十七節) 
祈りの人は決して一人ぼっちには、ならない。それどころか、永遠に私と私の聖なる者たちと共に棲むのである。(マタイ伝二十八章・二十節) (ゼカリヤ書三章・七節から八節)
三、野生の動物たち、稲妻、風、光、その他の自然の力を支配し、利用することはたいしたことではない。だが、この世とサタンまたは自我を、完全に感情において征服することは、真の意味でもっとも重大で、必要なことだ。
祈りの生活を送っている者のみに、私は全ての敵の力に打ち勝つ力を授ける。(ルカ伝十章・十七節から二十節) それによって、彼はこの世で生活していても、私と共に天来の場に棲むのである。(エペソ書二章・六節)
 サタンは下におり、彼らは上にいるので、サタンは決して彼らに手を伸ばすことは出来ない。それどころか、彼らは常に私と共に平安の中に棲み、そして恐れおののくことがないのだ。
人は今や自然の力を制御するに至ったけれども、空間の束縛を越えて旅することは出来ない。一方、祈りの人はサタンと自我を征服してしまったので、自由自在に、永遠に滅びることのない天界を、動き回ることができる。
四、ミツバチが花の甘い汁を集め、その色や香りを損なうことなく、それを蜜に変えるように、祈りの人も、全ての神の創られたものから、それらに何の害を与えることなく、幸福と利益を寄せ集める。
ミツバチが、もろもろの花々からその蜜を集め、巣の中に蓄えて置くように、神の人も、あらゆる場所の創造物から甘美な思想と感情を集め、創造主との霊の交わりにおいて、心の中にまことの蜜を収集する。さらにすべての時に、すべての場所で、神と共にあるゆるぎない平安の中で、喜びを持って神の、その甘美な蜜を味わうのだ。
五、思慮深い五人の乙女のように、今は私たちの心の器に聖霊の油を獲得し、保持しておく時である。(マタイ伝二十五章・一節から十三節)
さもないと、他の愚かな五人のように、悲嘆と絶望の目に会うだけだ。
また、あなたがたは、まことの安息日のマナを集めなければならない。そうしなければ、悲しみと悩みしか残らないであろう。(出エジプト記十六章・十五節、二十七節)
「だから、あなた方が逃げるのが冬にならないように祈れ、それは、大きな艱難の時であり、あるいは最後の審判の日だからである。また、安息日にならないように祈れ。それは、永遠の安息の千年の統治だからであり、そのような機会は決して二度とないだろう」(マタイ伝二十四章・二十節)
六、同じように、気候が植物や花々において、形、色、成長の様相の変化を生むように、私との霊的交わりを保ち続ける者は、習慣や外観、気質において霊的性格の発達を遂げる。そしてその古い人間としてのものを脱ぎ捨てて、彼らは私自身の栄光と、朽ちることのない姿の中ヘと変貌するのだ。
指で私は地面に、彼らの内なる下劣さにもかかわらず、断罪するために姦淫をしていた女を連れて来た者たちの罪の状態を書いた。それで彼らは一人また一人と、彼女を残してきまり悪そうに、恥じ入って、立ち去った。
私の指でまた、私はひそかに私の下僕たちの罪の傷を指摘する。そして、彼らが悔い改めた時、その同じ指を触れて彼らを癒す。そして子供が父親の指をしっかり握り、その助けによって彼と共に歩いて行くように、私も指で私の子たちを導き、この世から、彼らの永遠の平和と安息のふるさとヘと導くのである。(ヨハネ伝十四章・二節から三節)
七、しばしば人々は私の名において父に祈るが、私の中に留まってはいない。それは、彼らは私の名を口と唇の中に取り入れるが、彼らの心と生命の中に取り入れることはしないということだ。
それが、彼らが祈り求めるものを手に入れることが出来ない理由だ。
しかし、私が彼らの中に棲み、彼らも私の中に留まる時、その結果として、彼らが父に求めるものは何でも、それを受け取る。何故なら、彼らはその条件において聖霊の導きのもとに祈っているからだ。
聖霊は彼らに何が父の栄光をあらわし、彼ら自身のために、またほかの人たちのために、最善かを示す。
さもなければ、彼らは、ある悪い息子が、彼の父親が大いなる勇気と尊敬をもって仕えた親方から受けたような、答えを受け取るだろう。
その息子は、父の名において、嘆願書を提出し、仕事と世話を頼むのだが、親方は彼の邪悪な生活や習慣を指摘してこう言うのだ。「お前の父の名において、私にものを頼むな。だが、先ず行って、父の模範に倣って行なえ。
父親の高い値打ちをただ口にするだけでなく、それをお前の生活に持ち運べ。そうすれば、お前の嘆願は受け入れられるだろう」と。
八、口先だけで私を拝し、賛美する者の祈りと、心からそうする者の祈りとでは、非常に大いなる違いがある。
例えば、まことの礼拝者は、絶えず他の人のために、その目が開かれ、まことを受け入れるようにと祈っていた。一方、名だけの礼拝者はしばしば私のまことの礼拝者に対して、敵意を持って、彼らが打たれて盲目になるようにと祈った。
最後には、まことの礼拝者の祈りが、神の、愛に満ちた御心によって聞かれた。そして以前はただの偽善者であった者が霊的視力を得た。
その心は喜びで満ち溢れて、この人はまことの信仰者となった。そして、私のまことの下僕の、心からの永遠の兄弟となったのだ。
 九、祈りは人々にとって、他の方法では不可能と思われることも、可能にさせる。そして彼らは、この世的な法則や考えに反するだけでなく、まったく不可能なこととされている素晴らしいことを人生において体験する。
科学的な人たちは、全ての創られたものに秩序と法則を与えた神が、彼自身の法則の枠の背後に閉じ込められていることはできないということを認めない。
偉大な立法者のやり方は不可解だ。何故なら、神の永遠の意思と目的は、すべての彼の創られたものの祝福と繁栄であり、生まれながらの人間がこの事実を理解できないのは、霊的なものは霊的にしか認識されないからである。(コリント前書二章・十四節)
 全ての奇跡の中でもっとも大いなる奇跡は、人間における新しい誕生だ。そして、この奇跡を体験した者は、他の全てのことが可能になるのだ。
ところで、非常に寒い国々では、水の橋は普通の光景だ。川の表面が凍って固くなり、その下を水が自由に流れているとしても、人々はその氷の橋を簡単にそして安全に渡る。
しかし、流れる川に架かる水の橋の話をしても、常に熱帯地方の暑さの中で汗をかいている人々は、ただちに、そんなことは不可能だし、自然の法則に、反していると言うだろう。
再び生まれ変わって、祈りによって霊的な生活を営んでいる人たちと、この世の生活を生き、物質的なものしか評価しない者たちとの間では、同じく大いなる違いがある。彼らは魂の生活については全く無知だ。
十、祈りによって、神から霊的生命の祝福を得ようと望む者は、質問することなく、信じて従わなければならない。
手の萎えた男が私のもとに来て、私が彼に手を伸ばすように命じた時、彼はすぐさま従った。そして、彼の手はほかの手のように良くなったのである。(マタイ伝十二章・十一節から十三節) 
しかし、考えてみよ、あの即座の服従の代わりに、彼が次のように異を唱え始めたとすればどうだろうか。「どうやって、この手を伸ばせるのか?
自分でそれが出来たなら、どうして私はあなたのところに来たのか?
先ず第一に、手を治してくれ、そうすれば、私はそれを伸ばせるようになる」。
これらは非常に道理に適った、的を得たものと考えられるが、しかし、彼の手は治らなかっただろう。
祈る者は、信じて従わなければならない。そして、祈りにおいて、その弱って萎えた手を私に向かって伸ばさなくてはならない。そうすれば、私が彼に霊的生命を与え、彼の必要に応じてその祈りは叶えられるのである。(マタイ伝二十一章・二十二節)

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主の膝下において(続き)4

2010年09月15日 06時48分09秒 | スンダル・シング
 第四章
 
神に仕えること

 第一節

弟子
主よ、奉仕の本当の意味は何なのでしょうか? 
それは我々が創造主に奉仕することであり、そしてそれから彼のために、彼の創られたものに奉仕すると言うことなのでしょうか?
人の助けは、結局のところ、彼は単なる虫けらに過ぎないのに、その大いなる家族を世話する上で、神にとって何か価値があるのでしょうか?あるいは神は、それらの創られたものを護り保護するために、人間の手助けを必要とされているのでしょうか?

一、奉仕とは、霊的生活から来る行動であり、愛によって促される当たり前の捧げものなのだ。
愛である神は、その創造物の面倒を常に活発に見ている。そして彼の望みは、自分の創造物、特に神が自分のイメージに似せて形作られた人間が、決して何もせずにいると言うことにならないことだ。
神は自分の創造物の世話や保護において、誰の手助けも必要とはしない。と言うのは、神は創造物を自分の助けがなければ存在し続けられないように造られたからだ。そして、彼が、彼らの欲求を満足させる全てのものを供給するのだ
他の人々のために真実に奉仕することは、奉仕する者を助けて、この大いなる利益がある。それはちょうどお前にチベットで起こったことのようだ。
お前が厳しい寒さのために、死の恐怖の中にいた時、そして、一人の男が雪の中に埋もれて横たわり、今にも死にそうな状態であるのを見た時、お前は彼のところヘ行き、彼を肩に担ぎ上げて先に進んだ。そしてその努力がお前の身体を温かくし、その熱がその男にも伝わって、彼もお前も二人とも助かった。つまり、彼を助けることでお前は自分の命を救ったのだ。
これが奉仕の真の目的だ。
誰も一人では生きられないし、また他人の助けを受ける権利を奪われてはいない。
ある人が別の人から助けてもらい、自分でも出来るそのような助けを返そうと欲しないなら、そのような恩知らずの者は、他の誰かから、何らかの助けを期待する権利はまったくない。
 二、神の奉仕へと、神が彼に与え給うた人間としての才能と力とを行使するまでは、人は神が彼だけが与えることの出来る助けを受けることはない。
人が、自分の分を行なえば、たちまち神はそれを完成させる。
例えば、ラザロの墓石を取り除けるのは人間の仕事だった。それをするために神がその力を用いる必要はなかった。しかし、人々が墓石を転がし去った時、それからが神である私自身がしたのだ。それは人間の力や業を越えたものだ。と言うのは、私は死んだ者に命を与えるからだ。
その後でもなお、人がしなければならない仕事があった。ラザロが完全に自由になるために、死人に巻いてあった布をほどいてやることである。(ヨハネ伝十一章・三九節、四一節、四四節) 
罪の中で死んでいる人々に関しても同様だ。
障害や困難の墓石を転がし去るのは私の使徒たちの仕事だが、生命を与えるのは私の仕事だ。
しばしば、霊の生命を受けた者たちが、なおも古くて悪い習慣や邪悪な仲間たちに縛られていることがある。そして彼らを完全な自由の中へと導くのが私の子たちの仕事だ。そしてこの大いなる奉仕を捧げることで、彼らは常に心と魂に注意を払うようになるのだ。
 三、死の床にある、ある王様が忠実な召使いに次のように言った。
「旅に出ようとする時に、私の前にお前を遣わし、私のことを告げ知らせ、私の受け入れ準備をさせるのが、私の習わしだった。
私は死者の国へ行こうとしている。
それゆえ、行って、私が彼らの仲間に加わろうとしていることを知らせなさい。
最初、その忠実な召使いは彼の主人が何を意味しているかが分からなかった。しかし、彼がその意味は彼が死んで死者の国に彼に先立って行くことだと理解した時、その忠実な男は一瞬のためらいも、疑う間もなく、彼の心臓に剣を突き立て、そして、そこで彼の主人を待つために、死者の国へ入って行った。
このように、それは生命の主であり、王の王である私に仕える者の義務である。(使徒行伝三章・十五節、黙示録十九章一六節) すなわち、罪の中に死んでいる者たちに福音を持ち運び、そして私のために彼らの命さえ差しだそうとすることである。私は彼らの救済のために、この地上にやって来たのであり、そしてなおもまたやって来るであろう。(黙示録二章・十節)
四、ひとりの反抗的な息子が父の家を後にして、強盗の一味に加わり、やがて他の連中と同じように、大胆かつ残酷になっていった。
その父は召使いたちを呼んで彼らに命じた。「行って息子に、もし彼が悔いて家に帰って来るなら、全てを許し、家に迎えてやると伝えてくれ」と。
しかし、召使いたちは、野蛮な土地と凶暴な強盗団を恐れて、行くことを断った。
それで、父親と同じように弟を愛していた、その若者の兄が、許しの言葉を携えて出発した。
だが、彼がジャングルに入って間もなく、強盗の一味が彼を襲い、瀕死の重傷を負わせた。
その弟も一味の一人だった。そしてそれが彼の兄だと知って、悲しみと後悔の念でいっぱいになった。
兄はなんとか父親の伝言を伝え、自分の命懸けの目的は達せられ、愛の責務は果たされた、と言って死んだ。
この兄の犠牲は、反抗的だった若者の心に深く印象づけ、彼は罪を悔いて父のもとに帰って行った。そしてその日以来、新しい命を生き始めた。
だから、それは正しくないことだろうか?道を踏みはずし、罪に溺れて、自分を台無しにしてしまった兄弟たちに、憐れみの伝言を持ち運ぶため、私の子供たちがその命を犠牲にしようとするのは。それはちょうど私がすべての人々が救われるために私の命を与えたのと同じだ。
五、私の子たちはこの世では塩のようなものである。(マタイ伝五章・十三節) 
もし塩の結晶が溶けなかったら、その味を伝えることは出来ない。
私の子たちも同様だ。
もし彼らが愛と聖霊の火で溶かされ、生ける犠牲にされなかったら、彼らはその霊的、天的生命を、それによって救われたかも知れないたった一人の人にすら持ち運ぶことが出来ないのだ。
彼らは塩の柱になってしまったロトの妻より優れた者にはならないであろう。(創世記十九章・二六節) 
しかし、あなたがたのために、私がゲッセマネの園(ルカ伝二十二章・四四節)で溶かされ、十字架上で私の命を捧げたように、と言うのは、命は命でしか贖えないのだから、あなた方もまた、命を投げ出し、そうして霊的生命の香りを、他の人々に伝え、彼らを死から救うのだ。
 六、ある人殺しが絞首刑になる代わりに、戦場ヘ送られ、そこで彼は王と国のために不屈の勇気をもって戦った。ひどく負傷したにもかかわらず、彼は勝利者として帰って来た。
勝利の後で、彼は再び刑の宣告を受けるために裁判所へ連れて行かれた。
王は彼の体の傷跡を見て、死刑判決を取り消し、そしてただ彼の罪を許しただけでなく、高い褒賞を与え、また栄誉ある高い地位ヘと取り立てた。
そのように、私の側にあって、勇気と大胆さを持って、サタンに対して聖なる戦いを戦い、兄弟姉妹たちを救おうとする者は、自分自身の罪の許しを受けるだけでなく、神の王国において、私が王冠と王国を授けるのである。
(ヤコブ書五章・二十節、黙示録三章・二十一節)
 七、清い水を運ぶパイプは、それを通る水によって常に清く保たれるように、聖霊を通じて生命の水を他の人々に運ぶ者たちも、彼ら自身が清くされ、神の王国を継ぐ者となるのだ。
 八、信ずる者が聖霊を受けて奉仕にふさわしくなるために最もふさわしい方法は、天来の声に従順になること、そして、能力のおよぶ限り、ただちに奉仕を始めることだ。
良い泳ぎ手になるためには、水の中に入り、自分で水を掻いてみなければ、指導を受けても無駄だ。そして最初は浅いところから、次に深いところヘと、絶えず練習することによってのみ、その技術が向上するように、罪の暗い水の中に沈みつつある魂をどうやって救うかを学ぶのに最善の方法は、唯一の現実的、実践的神学校に入ることだ。それは神である私自身との結合である。(使徒行伝四章・十三節)
 九、能力がないと考え、奉仕から身を引いている者がいる。そして彼らは、私の強さ(力)が弱さにおいて、力を与えると言うことを思い出さないのである。(コリント第二の手紙十二章・九節)
彼らは病気から回復して栄養のある食物をとっているのに、働くこともせず適度な運動もしないために、弱ったままでいる病弱者のようだ。
そのような信仰者に必要なのは、彼らの信頼を私に置き、破滅から罪人を救おうと踏み出してみることだ。
 
第二節
 一、愛はそれによって真実が明らかになるための試金石だ。そしてそれによって、全ての人々が、あなたがたが私の弟子であることを知るのである。(ヨハネ伝十三章・三十五節) 
私はまた正義の剣をも用いる。それである者たちは初め、私がソロモンのように、私の業を情け容赦なく、成し遂げようとしていると、思いがちである。(列王記前書・三章・十六節から二十八節) 
私の目的は、彼のように、真実を明らかにする愛の試金石を用い、あなたがたが、その愛の神の子供たちだということを示すことだ。すなわち神は、あなたがたを救うために御自身の命をお与えになったのだ。
それゆえに、あなたがたは私の愛の中に棲み、互いに仕え合い、私が自分の命をあなたがたに与えたように、あなたがたもまた、他の人に仕えるために、その命さえも与えるべきだ。
その結果、私が生きるように、あなたがたも生きるのである。(ヨハネ伝十四章・十九節)
 二、もしあなたがたが、本当に私の弟子であるならば、愛の奉仕が多くの実を結ぶであろう。(ヨハネ伝十五章・八節) 
そして、もし人々があなたがたを悪く言い、非難を浴びせるなら、彼らのために祈りなさい。そして、彼らを非難する代わりに、あなたがたの愛から来る甘美な実を味あわせてあげなさい。
 腕白な少年たちは、甘い実が木になっているのを見つけると、石を投げて落とそうとする。そして木は一言の不平もなく、石の替わりにその魅力的な果実を、彼らの上に落とすのだ。
何故なら、その木は、投げる石を持たないのであり、それどころか神がお与えになったものを、それは不平を言わずに与えるのだ。
ひどい扱いを受けても落胆するな。人々があなたがたを強く罵るという事実は、あなたがたの生活が実り多いものであることの、完全な証明なのだ。
彼らがあなたがたを妬みと恨みからこのように取り扱ったとしても、それによって、あなたがたの天の父の栄光が明らかになるのだ。
神が栄光に飢えると思ってはならない。あるいは神の栄光において、人間がやってあげられる何かが欠けているなどと考えてはいけない。
決してそんなことはない! 
神の愛の目的は、その卑しい創造物である人間を、その落ち込んだ状態から引上げ、栄光に満ちた彼の天ヘと担ぎ上げることだ。
こうして、神は御自分にではなく、人間を洗い清めることで、人間に栄光を与える。そして、この中に、神の愛の驚異と威厳が現されるのだ。
 三、その働きによって、多くの者を罪から離れさせ、私の中に義を見出ださせた人々に、私は、先ず第一に、星のように輝く栄光を授ける。そしてそれから、完全なものとされ、彼らの父の王国で太陽のように輝くだろう。
義の太陽が昇るにつれて、星々は徐々に消え行き、見えなくなってしまう。しかし、私の父の願いは、神の子たちが彼自身のように完全な者となり、彼と共に永遠の栄光の中で輝き、その限りない永遠の愛の中でとこしえに喜ぶことだ。
 四、人間とははるかに劣った、小さな生き物がいる。それは蛍のように、ちらつく光でもって、あるいはヒマラヤのある小さな植物の中のあるもののように、そのかすかな青白い光でもって、その生息するジャングルをできるだけ遠くまで照らすのだ。
また大洋の深海に住む小さな魚は、かすかな光を発して、他の魚を道案内し、敵から逃げおおせる手助けをしている。
それならば、私の子たちは、神から与えられた光により、暗闇にいるためにサタンの餌食となりやすい人々を、真理の道に至らせるため、どんなにか、この世で光となり、自分を捧げることに熱心であるべきだろうか!
 五、もし彼らが、天から送られたこの力を、神とその創造物ヘの奉仕に使わなければ、彼らはこの天来の賜物を永久に失う危険の中にいる。
これは、深海の暗い洞窟の中に住むある種の魚や、また、チベットの隠者のある者たちに起こったことだ。あまりにも長く暗闇の中で生活していたために、その両者共、完全に視力を失ってしまった。
同じようにダチョウも翼を使わなかったことを通して、まったく飛ぶ力を失ってしまった。
だから、どのような賜物であれ、あなたに委ねられた才能を軽視せず、それを用いてあなたの主の、この上ない喜びと栄光を共有するように心をとめなさい。(マタイ伝二五章・十四節から三十節)
 六、時として、多くの人々に救いと祝福をもたらす大いなる奉仕の業がなされようとする時、私は私の目的のために、この世の目では小さく評価されている者たちを選ぶ。
それは彼らが自分自身の智恵の力を誇らず、彼らのまったき信頼を、神である私に置くためであり、そうして、彼らの持っている能力が、何ら大いなる価値もないほどに、ほんの少しに過ぎないことを悟り、その持っているすべてを捧げるためであり、人々への私の業となるためである。(コリント人への第一の手紙・一章・二六節から三十節)
例えば、私が荒野において五つのパンと二匹の魚で五千人を養った時、私はこの奇跡を弟子たちを使って行なったのではないことは覚えていよう。と言うのは、弟子たちは疑いと当惑でいっぱいになり、群衆を飢えたまま解散させようと願ったのである。(ヨハネ伝六章・九節)
この時の私の下僕は、身体の麻痺を私が癒して上げた一人の少年だった。
私の言葉を聞きたいという願いがいっぱいで、彼は私に従う決心をした。
彼の貧しい母親は、彼の風呂敷に、二、三日の旅の食料としては十分な、大麦のケーキと魚の干物を包んだ。
それで、この群衆のために食物をどうするかを尋ねられた時、この忠実な少年はただちにその持てるもの全てを持って来て、弟子たちの足下に置いた。
例えば小麦のケーキのような、ずっとよい食べ物を持っていた、裕福な人々がそこにいたにもかかわらず、彼らはそれを捧げようとはしなかった。
だから、群衆が私の祝福により、最高の食物で養われたのは、この少年の大麦のケーキからだったのだ。
 七、感謝の心があまりにも欠けている人々が多くいる。たとえどのような祝福が彼らの上に与えられ、彼らのために奇跡が行なわれたとしても、彼らは決してほかの人々の祝福や奉仕のために、用いられることはない。
それはちょうど、三十八年間、不治の病に苦しんでいたのを、私が癒した男と似ている。彼は私に感謝し、信じるどころか、敢えて私の名前を思い出そうとさえしなかったのである。(ヨハネ伝五章・十二節から十三節)
このような人々から、この世は何の祝福も期待出来ない。それはただ、貧しいやもめのような、持てるものすべてを、彼らの生活のすべてをも捧げようとする人々から来るのだ。
 八、まことの奉仕と義務の遂行のために、私の下僕は生命すら差し出す用意がなければならない。雪の降りしきる厳しい寒さの中で、凍死するまで持ち場を離れず、また他の見張りの兵たちが、暖を取ろうと去ってしまっても、銅像のようにその場を動かなかったあの兵士のようにだ。
王がやって来て、死に至るまで忠実に固く立ちつくしている彼を見た時、王は王冠を脱いで、それを彼の頭のところに置き、こう言った。
「このような忠実な兵士や下僕こそ、私の王冠の名誉と栄光に値する。
もし生きていたなら、彼こそ私の王国の長官にしたものを!」。
私の忠実な下僕たちも、私が彼らに任じた使命に対してそのようでなければならない。
そして、このような信仰と勇気を持ってその仕事をなし終えた者には、永遠の王国の、色褪せない冠を授けるであろう。(テモテへの第二の手紙四章・五節から八節)
 九、多くの者は私に仕えるために与えられた貴重な時間を無駄にしている。
だが今でも、立ち上がって彼らに残っている時間を最善に用いる機会がある。
彼らは、ジャングルを歩き回り、川辺できれいな石をいくつか拾ったハンターのようなものだ。
その価値に気付かずに、一つまた一つと、パチンコで川べりの木に止まっている野鳥を撃つために、彼はそれを使った。
そして、石は一つまた一つと水の中に落ち、なくなった。
未だ一つだけ残っていた石を持って、彼は町に引き返した。そして、市場を通っていると、一人の宝石商がそれに目を留めて、この愚かな男に言った。
「それは価値のあるダイヤモンドで、売れば何千ルビーにもなりますよ」と。
それを聞いて、彼は嘆き悲しんで言った「あー、なんてこった。
俺はその価値を知らなかった。そしてこれらのダイヤモンドの多くを川べりの野鳥を撃つために使っていた。
そしてそれらは川に落ち、失われてしまった。そうでなければ、俺は億万長者になっていたかも知れない。
しかしまだ、このひとつを俺は残していた。そしてこれが得られたものだ。
ひとつひとつの日が貴重なダイヤモンドのようなものであり、この、金銭には替えられない多くの日々が、移ろいゆく娯楽を追い求めて、無駄に使われてしまった。そして、過去の深みに永久に沈んでいる。
あなたがたは残っているものの価値に目覚めなければならない。そしてできるだけ最善の用途にそれを使い、自分自身のために霊的な富を集めなさい。
あなたに命と、金銭には替えられないすべての祝福を与え給うた神である私への奉仕のために、それを使いなさい。そして、他の人々を罪や死から救うためにそれらを用いることによって、あなたは永遠の天来の報酬を受けるだろう。
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主の膝下において(続き)5

2010年09月15日 06時47分52秒 | スンダル・シング
第 五 章

十字架と受難の秘義

第一節

弟子
 十字架の意味と目的は何でしょうか? そして、何故この世界には痛みと苦しみが存在しているのでしょうか?

 十字架は天国の鍵なのだ。
私の受難のパプティズマによって、私が罪人のために十字架を負ったその瞬間に、天が開かれ、そして、三十三年間十字架を負い、その死によって、罪のために信ずる者に閉ざされていた天が、永遠に彼らに開かれたのだ。
 今や信ずる者たちが彼らの十字架をとって、私に従って来るやいなや、彼らは私を通って天国に入り、そしてあの、限りない喜びを楽しむのだ。それはこの世が理解することはできない、何故なら天は不信仰に対しては閉ざされているからだ。
期待と経験は、不信仰者に、喜びには痛みが続き、その喜びも長続きしないことを教える。
しかし、私は私の子供たちに痛みの中に安らぎを、そしてまったき幸福と平安を与える。
喜びいっぱい私の十字架をとる者たちは、それによって彼ら自身が上より生まれ、いつもその十字架に支えられて、ついには天国ヘ入って行くのだ。
 二、痛みは人間のひねくれた反抗的な性質から起こる。ちょうど熱帯の暑さが寒い土地に住んでいる人々にとってはうんざりして苦痛であり、熱帯の気候の中に住んでいる人々には、寒さが身を切るように辛いようにだ。
暑さと寒さは地球と太陽の関係による。
そのように、人も自分の自由意志による修練によって、神と合意するか、反目するかの状態に入る。
そして、神の法則は人の精神的健康と幸福を意図しているのだから、それらに反することは、霊の痛みと苦痛をもたらすことになるのだ。
今や神は、御意思に対するこれらの反対と反逆の状態をまったく取り除く代わりに、それらを利用してこの世界が彼の故郷となるように創られたのではなく、彼にとっては異邦の地だということを明らかにするのだ。
この世界は彼にとっては完全な永遠の故郷のために、準備するところにしか過ぎず、しばしば繰り返される不幸な災難は、彼の魂を目覚めさせるためだ。そうでないと、彼は不注意になり、真実から離れ落ちて、この不安定な世界の荒廃を分かち合うことになる。
彼はその創造主との交わりに入るようにと、造られたのだ。そしてこの移ろいゆく人生の苦悩と悲惨から解放された後、永遠の幸福と平和の神の天国へと入って行くようにと、造られたのだ。
 三、痛みや苦しみは毒のように苦いものだが、また解毒剤もそれ自体は毒であることは良く知られている。
そしてこのように、私は時として、私を信じる者たちの霊的健康と活力を促進するために、苦い薬として、痛みや苦しみを用いることがある。
彼らに完全な健康が確保されるとすぐに、全ての苦痛は終わりとなる。
彼らの苦しみは私の喜びではない。何故なら私の唯一の目的は、彼らの永遠の健康だからである。(哀歌三章・三十一節、三十三節)
 四、ちょうど地震のショックで、砂漠の土地に清水が沸き出るように、不毛の荒れ地に水が溢れて、肥沃になるように、ある場合には、苦痛のショックが、人の心の中に、隠された命の水の泉を涌かせることがある。そして、不平、不満のつぶやきに代わって、彼から感謝と喜びが流れ出すのである。(詩篇一一九篇・六七節、七一節)
 五、赤ん坊が、この世に生まれるやいなや、もっともしなくてならないのは泣き叫ぶことだ。そうすることで、その呼吸は自由になり、そしてその肺は完全な活動に至るのだ。もし、何らかの理由で泣き出さなければ、そうするまで叩かれねばならない。
まったき愛でそうするのだ!
私も時として、子供たちが痛みや苦痛からの刺や打撃によって泣き出すようにする。こうして祈りの呼吸が彼らの魂の肺を通って自由なコースを辿るようになり、そして新鮮な活力を得て、終わりのない命の中に生きるようにする。
 六、十字架は、その外側の皮は苦いが、中の種は喜ばしく、元気を出させるクルミのようなものだ。
十字架も外観は何の魅力も提供しない、しかし、十字架を負う者に対しては、その本質が明らかにされ、その中に、彼は霊的平安の、選び抜かれた麗しさを発見するのだ。
 七、私が人の子となった時、私は人が救われるために、残酷な十字架を負った。それはただ私が十字架にかけられた六時間だけでなく、あるいは、私の伝道の三年半だけでもなく、私の三十三年半すべてに亘る間であり、人が死の苦痛から救われるためだった。
清潔な人が、たとえほんの僅かの間でも汚れた不潔な場所に留まるのが苦痛なように、私の中に棲んでいる者たちは、悪意に満ちた人々の間で生活しなければならないことに、最も嫌悪を感じる。
だから、祈りに集中したい、ある人たちは、罪の不潔さが気になって、この世を捨て、砂漠や洞穴の中で隠者として生きるために、出て行ってしまう。
それならば、このことを考えてみなさい。彼ら自身が罪人であり、彼ら自身の仲間との付き合いにおいても耐え難いほどに、罪の存在を感じ、彼らを残して二度と彼らのところに戻りたがらないとすれば、私の負った十字架は極度に苦痛であり、困難だったことか!
つまり、神聖の泉である私が、罪に汚された人間の中で、三十三年以上も絶えず生活しなければならなかったということだ。
このことを理解し、正しく評価することは、人間の力をはるかに越えている。そして天使たちでさえ、伺い見たいと願っている。 
と言うのは、天地創造の前に、彼らは神が愛であることを知っていた。そして、その御愛は、彼の創られたものを救い、永遠の生命に至らせるために、彼は人の子となって、むごい十字架を負わねばならないという、最高に素晴らしく、驚くべきものだったのだ。
 八、この命においても、私は私の中に棲む者たちと十字架を分かち合う。そして、彼らの苦難の中に入って行くのである。(使徒行伝九章・四節)
彼らは被造物であり、私は創造主だけれども、彼らは私の体であり、肢体なのだ。ちょうど身体と霊が、それぞれ別々の存在なのに、とても絡み合っていて、身体の極小部分が痛みを感じても、霊は直ちにそれを知覚するように、私は私の子供たちの命であり、霊なのだ。
私は彼らのひとつひとつの痛みと悲しみを分かち合い、そして、正しい時に、彼らに安らぎを与える。
 九、私自身十字架を負ったので、十字架を負う者たちを救い出し、彼らが迫害の火の真っただ中を歩いている間でも、彼らを完全な安全の中に守ることができる。
私は、ネブカドネザルの炉の中の三人の若者たちと共にいた。それがどれだけ猛威をふるおうとも、彼らを害する力はなかったのである。(ダニエル書三章・二十三節から五節、ペテロ書第一四章・十二節から十三節) 
だから聖霊のバプテスマによって、新しい生命を受けた者たちは、迫害の火や他のいかなる害をも感じない。なぜなら、彼らは永遠に私の中に棲み、永遠の平安と安全の中にいるからだ。

 第二節
 
一、厳しい冬の寒さの中で、木々は葉を落として立っていて、その生命も永久に去ってしまったかのように見える。
しかしながら、春になると、木々は新しい葉や美しい花をつけ、その果実が顔を出す。
私が十字架につけられた後復活したこともそうだった。そして私の忠実な十字架を負う者たちも同様なのである。(コリント後書・四章・八節から十一節、六章・四節から十節) 
彼らは十字架の下に押しつぶされて死んだように見えても、なおも美しい花を咲かせ、永遠の生命の栄光ある実を結び、それらは永遠に留まるのだ。
 二、甘い実のなる木を苦い実のなる木に接ぎ木すると、両方ともナイフの傷を感じ、苦しみを呼び起こされる。
そのようにまた、人間の罪に毒された邪悪な性質の中へ、霊的で聖なる生命を導入するためには、まず私自身が、そして次に信者たちが十字架の苦痛を受けなければならない。それは将来永遠にわたって彼らが良き実を結び、これによって栄光に満ちた神の愛が明らかにされるためだ。
 三、もしこの世において、人々があなたがたを迫害し、中傷しても、これに驚いたり、心を痛めてはならない。何故なら、ここはあなたがたの、休息の場所ではなく、戦場だからだ。
この世の人たちがあなたがたを褒める時、あなたがたは災いだ。何故なら、それはあなたがたが、彼らの邪悪な道と習慣を取り入れたということを証明しているからだ。
私の子供たちを褒めることは、彼らの性質や気質に真っ向から反することだ。何故なら、光と闇は共に存在することは出来ないからだ。
もし見せかけで、邪悪な人々が自分たちの性質に反して、あなたがたヘの迫害をやめるなら、あなたがたの受ける痛手はさらに大きいものとなる。何故なら、彼らの影響があなたがたの霊的生活にまで入り込み、霊的成長が妨げられるからだ。
さらに、あなたがたが、この世に、あるいはこの世的な人々に信頼を置くということは、砂の上に家を建てることだ。
何故なら、今日彼らがあなたがたを高く上げても、明日は跡形も残さないほどに、あなたがたを投げ捨てるからであり、彼らはすべての事において不安定だからだ。
私が「過ぎ越しの日」にエルサレムヘ上った時、彼らはみんな一斉に叫び始めたのである。「ホサナ!ホサナ!」 (マタイ伝二十一章・九節) 
そして、わずか三日後に、私が言ったことが、彼らの罪の生活や利己主義に反することだと判った時、ただちに心を翻して叫び始めたのである。「彼を十字架につけよ! 彼を十字架につけよ!」(ルカ伝二十三章・二十一節)
 四、何かの誤解で、何人かが、あるいは全ての者たちが、あなたに背を向け、あなたを苦しませることになっても、それを不運に数えあげてはいけない。
あなたがたが、まったき誠実さと忠実さでもって、聖霊の導きのもとにその義務を果たし続けるならば、神御自身と天の万軍があなたの側にいることを覚えていなさい。
 自分自身が落胆させられることを許してはいけない。
と言うのは、その時はすぐそばまで来ているのだ。すなわち、すべてのあなたの良き計画や目的、そして全く私心のない愛が、全世界に知られ、そして、全ての前で、あなたの労苦や忠実な奉仕に対して栄誉が贈られるだろう。
私もまた、人々の救いのために、全てのものを放棄しなければならなかった。そして私自身も全てから見捨てられたけれども、最後には、私は全てを、またひとつひとつを再び得たのだ。
この世があなたを見捨てても驚いてはならない。何故なら、それは神御自身をも見捨てたのだ。それであなたは、父なる神のまことの息子と見られるのだ。
 五、この世的事業で常に成功しているように見られ、贅沢に暮らしている人々が、すべてほんとうの神の礼拝者だと思ってはならない。
と言うのは、その逆の場合がよくあるからだ。
羊が囲いと羊飼いの中からさ迷い出て、ジャングルの中で良い牧草地を見つけることもあり得る。
しかし、彼らはいつの時でも、野獣によって、バラバラに引き裂かれる危険があり、それが実際のところ、最後には彼らの運命だろう。
だが、羊飼いと共に囲いの中にいる羊は、病気で弱々しそうに見えても、確実に危険からは免れており、そして羊飼いの保護のもとにある。
これが信者と不信者とのあいだの違いだ。
 六 信者と不信者の人生は初めはおおいに似ているが、その終わりが来た時には、彼らは蛇と蚕のようだ。
蛇はしかしながら何度脱皮しても蛇のままであり、それ以外の何物でもない。
蚕はその不恰好な繭を脱いで、新しい生物となり、そうして優美で美しい蛾となる時、空中を飛び回る。
そのように、信者もこの肉体を脱ぎ捨て、霊的な栄光の状態に入り、天界で永遠に飛び回る。
一方罪人は、死の後も罪人のままだ。
 たとえ蚕が繭の中に詰め込まれていて、圧迫された状態にあり、十字架上にあるように、もがいていても、まさにこの闘争と困難の条件が、その羽根に力を与え、あるべき命に相応しくする。
私の子たちも同じだ。肉体の中にあるあいだは、霊的苦闘と葛藤の状態にあり、溜め息と憧れをもって解き放たれるのを待ち望んでいる。
しかし、十字架を負うことを通して、私は彼らに力を与え、彼らは完全に備えられ、終わりのない生命にふさわしい状態になるのである。(ロマ書八章・二十三節)
 七、この霊的な戦いの真っ直中において、そして彼らが自分たちの十字架を負っている間でさえ、私は彼らの勇気が萎えないために、真の素晴らしい心の平安を与える。
例えば、私の忠実な殉教者が、言葉と行いにおいて私を証しした時、敵が彼を捕らえ、木に逆さ吊りにした。
このような状況においても、彼の心の平安はこのようだった。すなわち彼は受けている痛みや恥ずかしめを全く感じることもなく、そして彼を迫害する者たちに対して次のように言った。
「あなたがたが私を扱うその方法は、私を苦しめたり落胆させたりはしない。
と言うのは、私は何もこの世界から期待できないからだ。そこではすべてが、逆さまであり、真っ直ぐに立っているものを見ることが出来ないからだ。
あなたがた自身の性分に応じて、あなたがたは私を上下逆さまだと考える方向に私を向けたが、しかし実際には、私は真っ直ぐに立っているのだ。
ちょうど、スライドを幻灯機に逆さに入れると、画面が正しく映るように、この世の目では私は逆さまでも、私は神と天の世界の前では永遠に正しい方向に立っている。
そして、私はこの栄光の十字架のゆえに神を誉め讃えるのだ。
 八、信者にとっては、時として私の名に対して殉教者となること易しいことだろう。
しかし、私はまた、他の人々の救いのために、生きた犠牲として日々自分自身を捧げる、生ける証し人を必要としているのである。(コリント前書十五章・三十一節)
死は易しいが、生きることは難しい。と言うのは、信ずる者の生活は日々死ぬことだからだ。
だが、私のためにその命を投げ出す用意のある者とは、私の栄光を共にし、喜びに満ち満ちた中で永遠に生きる。
 九、たとえ苦痛や苦難、悲しみや悲嘆が雲のように沸き上り、一時の間、義の太陽を覆い、あなたがたの視界から神を隠したとしても、うろたえてはいけない。
というのは、最後にはこの悲哀の雲は、あなたがたの頭上に祝福の雨となって降り、義の太陽はあなたがたの上に昇って、永遠に沈むことがないからである。(ヨハネ伝十六章・二十節から二十二節)
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主の膝下において(続き)6

2010年09月15日 06時47分38秒 | スンダル・シング
第六章

 天国と地獄

 第一節

弟子
 主よ、天国と地獄とはなんですか?そして、それらはどこにあるのですか?

一、 天国と地獄は霊の世界における二つの正反対な状態だ。
それらは人間の心の中にその起源を持ち、この世にその基礎が据えられている。
人は自分自身の霊を見ることが出来ないので、これらの二つの魂の状態も見ることが出来ない。
しかし、自分の中でこれらの体験を持っている。ちょうど、打たれることで痛みを感じ、また甘い食物でその甘さを味わうようにだ。
打たれた傷は大きくなって、激痛を引き起こし、ついには死と滅びに至ることがあるだろう。一方、甘い食物は消化されて、強さを促進させるだろう。
同じように、罪深い行いからの痛みや、良い行いからの幸福は、ある程度まではすぐに明らかになるが、それらに対する完全な罰、あるいは報いは、霊の世界に入るに至って初めて認められるのだ。
 二、この世界において、人間は長い間ひとつのことに満足しない。
しかし、常に周囲の環境の変化を探し求めている。
そこから、この世の移りゆくものは決して彼を満足させないと言うことが明らかになる。
何故ならば、彼は動くことのない、不変な、そして常に彼の嗜好や念願に合ったものを求めているからだ。
彼が探し求めて、私の中にその「実体」を見出した時、それ以上の変化を求める彼の探求は終わりとなる。
何故なら、人は完璧な社会や、満ち満ちた幸福に飽きてしまうことはないからであり、それこそが体と霊が要求する一つのことなのだ。
本当のところ、まことの平安を得ることが、人間の魂のひとつの目標なのだ。
時として、人の心に、自分自身の願いや考えもなしに、突然ある喜び、あるいは痛みの感覚がやって来ることがある。
それは、天国あるいは地獄の霊的世界から発散されて来るものだ。
これらは、何度も何度もやって来て、次第にそれらの一つあるいは別のものが優勢となり、彼の霊的習慣に応じ、またしっかりとそれを自分のものにしようとすることにより、天国か地獄の基礎が人間の心の中に組み立てられるのだ。
そして、この世にある間も、死の後も、彼はこの人生において、彼の欲求と情熱が彼のために用意した状態の中へ入って行くのだ。
 三、ある者たちは言う。「欲望が全ての苦痛や悲しみの根源なのだ。だから、天界において、あるいは神との交わりにおいて幸福を熱求するのは正しいことではない。
と言うのは、救いというのは、全ての欲望を殺すことの中にあるのだから。
このことを言うのは、喉が渇いている人に、水を与える代わりに、その渇きを殺せと言うくらいに、まったく馬鹿げたことだ。
というのも、渇きや欲望は、生命の一部だからだ。
欲望や渇きを満たさないで、捨て去るのは、生命を破滅させることだ。
それは救いではなく、死だ。
ちょうど、渇きが水を暗示し、そして水は渇きを取り除くためにあるように、魂の欲求の存在が、まことの幸福と平安の存在を暗示している。
魂がその中にその欲求を植えつけた神を発見する時、渇いた人が水で満足するよりも、はるかに大いなる満足を味わう。
そして、この魂の欲求に対する満足を天国と呼ぶのだ。
 四、この世の中には、大洋の無限の水のただ中におりながら、渇きで死ぬ人のような多くの人々がいる。
それは、海水は喉の渇きを鎮め、生命を救うことが出来ないからだ。
ちょうどそのように、愛の無限の大海に生きていながら、その不従順と罪のために、神の恵みの新鮮な水が彼らにとっては苦く感じ、渇きから自滅してしまう人々がいる。
しかし、自分の罪を悔いて私に帰って来る者たちのためには、生ける水の泉がこんこんと湧き出す。
そして彼らは、自分たちを愛する神の中に、満足と永続する平安を見出すのだ。
これもまた、天国と呼ばれる。
 五、この世へのかくも愛情と献身の思いを抱いていて、私の子たちの教えや手本によって彼らの心はしばしば天の方に引き上げられたにもかかわらず、重力によって引き下げられ、上に向かって投げられた石のように、この世界の中に再び落ちて来て、最終的には地獄の中へ滑り落ちる人々が多くいる。
しかし、人間がその心を真の悔い改めの中に、私へ向けるならば、私は彼の心の宮を愛の鞭でもって清め、王の王であられる方の天来の棲家とする。
この地上の生活は、王様の栄光と壮麗が、今日見られても、明日には塵や埃にまみれてしまうようなものだ。
しかし、神の王国の息子となった者たちは、天にある、終わることのない、王国の栄光と栄誉、座天使の位と栄冠を自分のものとするのだ。
 六、罪人らは自分の快楽を増すために、他の人たちの良き物を盗む。だから人々は、善い人でも、悪い人でも、よその国へ行く時には、家に鍵をかける。
そしてこの財産に鍵をかけるという行為は、人々の心が、彼らの主であり創造主であられる方に対して、鍵がかけられている限り続けなければならない。
しかしながら、心の鍵が、戸口で戸を叩きながら立っている御方に開かれた時、その心の欲求や憧れは満たされるであろう。(黙示録三章・二十節) 
すると、もう家に鍵をかけておく必要がなくなる。なぜなら、他人のものを盗んだり、他人に災いを及ぼすことをする代わりに、みんなが愛においてお互いに仕え合うからだ。
というのは、人が神に帰すべきものを渡した時、彼らは彼の御愛に与かり、お互いに仕えあう中で、善きものだけを求めるだろうからだ。
このようにして、彼らは神の素晴らしい喜びと、平安の中へ入って行く。そして、これが天国なのだ。
 七、罪人たちを地獄から救い、彼らを天に導こうと、私が人の子たちのために、私の命を十字架上に捧げたとき、同じ時に二人の強盗たちもそれぞれ私の両脇で死を迎えた。
すべての外見上は、我々三人は似たような運命を被ったように見えるが、霊的な視点からは、非常に広い違いがあった。
彼らの一人は私に対して心を閉ざし、悔い改めることなくその死を迎えた。しかし、もう一人は、真の悔い改めの中で、彼の心を開いた。そして私との霊的な交わりの中で命を見出した。そしてまさにその日に私と共にパラダイスに入ったのである。(ルカ伝二十三章・三十九節から四十三節)
このパラダイスは墓の向こう側だけに存在するのではなく、この世の人の目からは隠されていようとも、今、人々の心の中に始まるのである。(ルカ伝十七章・二十一節)
ある忠実な私の殉教者が迫害する者の手によって、言うに言われぬ苦痛を受け、今、まさに死の間際にあった。そして、彼は天の喜びに満たされて、彼らに向かってこう言った。
「アー、この私の心を開いて、この世が与えることも、取り去ることも出来ない、私の持っている素晴らしい平安をあなた方に見せられたら!
そうすればあなた方はその真実を確信するだろう。だが、それは隠されたマナであって、見えないし、また見ることが出来ないのだ」。
彼の死後、この愚かな連中は、その中に何か貴重なものを見つけようと期待して、彼の心臓を切り裂いたが、何も見つけなかった。
何故なら、その天の実在はそれを受け入れ、その中に彼らの喜びを見出す人々にしか知られないからだ。
 八、マリアの胎は、肉の形で私が数ヶ月間住まいとしたところではあるが、私が常に我が家とし、それを天国にしている、信者の心ほどに祝福されるところではなかった。(ルカ伝九章・二七節、二八節)
 九、天国を待ち焦がれているのに、自分自身の愚かさのために、まったくそれを捕らえ損なってしまう多くの人たちがいる。
一人の貧しい乞食が、隠された宝の部屋の上に二十一年間座っていた。
彼は金持ちになりたいという欲望にとり憑かれて、もらった銅貨を全部貯め込んでいた。
しかしながら、彼は何年間も宝の上に座っていたことに全く気づくことなく、惨めな貧乏の状態で死んだ。
彼が余りにも長い間同じ場所に座っていたので、彼が何か貴重なものをそこに埋めたのではと言う疑いが起こった。
そこで、知事がその場所を掘り起こさせたところ、貴重品の山を発見した。それはのちに、王家の財宝となったのである。
「私の言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、またあなたの心にある」(申命記三十章・十四節)
 十、霊的な生命について何も知らない者たちは、この悲嘆に打ちひしがれた世の中で、まことの平安や天の喜びを体験することは不可能だと断言する。
しかし、霊的な生命の体験を持つ者たちは、ちょうど人が極地帯の氷原のど真ん中に熱い湯の流れを見つけるように、この悲しみで一杯の世の中で、信じる者たちの心の中に、安らかな天来の平安の川が流れているのを見出すのを知っている。
と言うのは、聖霊の隠された火が彼の中で真っ赤に燃えるからだ。
 十一、神は全ての人間を一つの血から作られ、すべてを御自身の形と似姿に創造されたが、それらは性格や気質、能力において異なるように作られた。
なぜなら、もし世の中の花が全て同じ色と香りだったら、まさに地球の表面はその魅力を失ってしまうだろう。
太陽の光線は色ガラスを通過しても、その色を変えないで、ただそのさまざまな美しさや魅力を引き出すのだ。
同じように、義の太陽は、この世界においても、天国においても、信じる者たちや聖者たちに神より与えられた美徳を通して、絶えず神の無限の栄光と愛を現している。
このように、私は彼らの中に、また彼らは私の中に住み、彼らは永遠の喜びを持つのだ。

 第二節

弟子
主よ、ある人たちは信じる者たちが体験している慰めや喜びは、単純に彼ら自身の考えや思いつきに過ぎない、と言っています。これは真実でしょうか?

 信じる者が彼ら自身の中に持っている慰めや内なる平安は、彼らの心の中の私の臨在と、聖霊の充満から来る命の感化に拠っている。
この霊的喜びが、単なる心の思いだと言う人々は、生まれつきの盲人で、冬の時期に、自分自身を暖めようといつも外の日向に座っている愚かな人に似ている。
人々が彼に太陽の熱をどう思うか、と尋ねた時、彼は平然と太陽などと言うものがあることを否定して、こう言った。
「わしが外側に感ずるこの暖かさは、わし自身の体の内側からやって来るものであって、わしの考えの力強い効果以外の何ものでもない。
人々がわしに、大きな火のたまのようなものが空中に浮かんでいると言うのは、全く馬鹿げたことだ」。
それゆえに、人々の伝統や世の原始的な力に従う、哲学や空しいだましごとで、誰かがあなたを虜にしないように、気をつけなさい。(コロサイ書二章・八節)
 二、もしほんとうの幸せが人の考えによるのであれば、全ての哲学者や深く考える人たちはそれに溢れるばかりに満たされるだろう。
しかし、彼らの中で私を信じる者を除いては、この世の哲学に博学な人たちはまったく幸福を欠いている。
彼らが自分たち自身のある法則から導き出した一種のはかない快楽を除いてはだ。
 しかし、私は、人間に本来、聖霊を受ける適性を持つように創造したのであり、それによってのみ、彼は天の生命と喜びを受け取ることが出来るのだ。
ちょうど、炭の中には火を受け入れる自然の適性があるが、酸素なしには火はその中に入っていくことが出来ないように、聖霊の酸素が、人の魂への入り口を見つけなければ、彼は闇の中に留まり、そして決して、このまことの、終わることのない平安を楽しむことがないのである。(ヨハネ伝三章・八節)
 三、人の心と思いの適性は、ギターやヴァイオリンの弦と似ている。
弦がピンと張られ調律されている時に、爪や弓に触れることで、最高の素晴らしい音楽が生みだされる。
しかし、それがなされていないなら、弓は不協和音を出すだけだ。
そして、弦が全て調律された時に、生み出される甘美な音はまた、空気に依存している。その力と動きによって、音が耳元に運ばれるからだ。
同じように、人の思いと空想を調律するには、聖霊の刺激を与える息吹が必要だ。
それが存在する時に、天的な雰囲気と喜びに満ちた調和が、人々の心の中に、この人生であれ、天国であれ、生み出されるだろう。
弟子
 主よ、時々私は平安と幸せが去ってしまったのを意識する時があります。
これは、私の隠れた罪のためでしょうか、それとも、私には分からない何か他の理由があるのでしょうか?

 その通り、これは時には、不従順に起因するが、私は時として私の子たちから短い間離れたかのように思わせることがある。
そうすると子たちは淋しげになり、落ち着かなくなる。
その時、彼らがそのような状況にある間、私は彼らに現実の自分自身と彼らの徹底的な無力さを明らかにすることが出来る。
そして、私から離れては、彼らは乾いた骨に過ぎないことを教えることが出来るのである。(エゼキエル書三七章・一節から十四節) 
それは、彼らが、休息と平安の安定した状態の中で、彼らの本来の状況を忘れ、自分自身を神だと思うことによって、高慢になって、地獄の刑罰に落ち込まないためなのである。(テモテ第一の手紙三章六節、ユダ書六節、イザヤ書十四章・十二節から十七節)
このようにして、彼らは訓練され、教育される。そして、彼らが謙虚に、また柔和に、彼らの創造主である私の中に棲む時、彼らは天において、永遠の幸福を楽しむのだ。
二、時々、私が私の子たちの中に入って、彼らを聖霊の満たしで満たす時、聖なる幸福と喜びで溢れ、彼らのものである栄光と祝福に耐え切れなくなって、気を失いそうになったり、無意識に陥ることがある。
それは、人間の血肉は神の王国を継ぐことが出来ないからであり、一時的なものは永遠のものを受け継ぐことが出来ないからだ。
そうして人は、空しい死すべき運命の力から解放され、栄光へと引き上げられるのである。(コリント人への第一の手紙・十五章・五十節、五三節、ローマ人への手紙・八章・十九節から二十二節)
こうして私の意思が天で行なわれているように、地上の全ての被造物においてなされる。
そして、痛み、苦しみ、悲しみ、嘆き、叫び、死が永遠に取り去られ、私の全ての子たちが、私の父なる神の王国に入って行き、それは聖霊の喜びであり、彼らは世々限り無く支配するのである。(ローマ人への手紙十四章・十七節、黙示録二十一章・四節)
 完
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神の声を聞いたジャンヌ・ダルク

2010年07月26日 08時12分33秒 | ジャンヌ・ダルク

 
    オルレアンの少女:ジャンヌ・ダルク
 13歳の時、神の声を聞きフランス解放のために立ち上がって、最期は異端審問により火刑とされたが、のち復権裁判によってカトリック教会においては聖女とされているジャンヌ・ダルクについて  

  あなたたちの先祖が予言者たちを迫害し、あなたがたはその碑を立てる。これによってあなたがたはその子孫であることを明らかにしている。  
 
  たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。またあなたがたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。イザヤ;30−20  
 
 私に向かって主よ、主よと う者がみな天国に入るのではなく、ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。その日には多くの者が私に向かって「主よ、私たちはあなたの名によって予言したではありませんか。またあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。その時私は彼らにはっきりこう言おう。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」・・・マタイ7−21
 

 神の声を聞き、その命ぜられたままに生きた人こそは、神に知られた人である。人が何と言おうと、思おうと、神の栄光はその人の上にある。  

 <時代背景>
 中世末のヨーロッパにおいては、英仏百年戦争とよばれる戦いも、国家間の戦いではなく、当時のイギリス国王たちの多くがフランス出身の封建貴族であったため、フランスの地にはイギリス王家の領地が大量に存在していた。このため、絶え間ない領土拡張の戦いが繰り広げられ、結果として、そこに住む人々は長い期間に亘って塗炭の苦しみを味わうことになったのである。
 1428年の秋、イギリスの一部隊はパリを南下して、ロアールの中流の要地で、その領主シャルルをロンドンに捕らえてオルレアンの町を包囲した。この時、「オルレアンの囲みを解放せよ」という神の声を聞いたと称する一少女が王太子の居城シノンにあらわれ、確信に満ちて、危険を恐れぬことなく戦闘に立ちあがった。この少女の行動は、味方の兵士たちに限りない勇気を与えた。そしてオルレアンの城が開放されることによって戦局の転換に重要なきっかけを与えたのであった。このことはまさに歴史的事実である。
 ジャンヌ・ダルクの生涯は、政治的観点からだけ見るならば、錯綜した政治情勢の中でフランスの国王、アルマニャック派の王太子に忠節を尽くして殉じた一人の少女のそれに過ぎない。
 だが、神の命令を受けたという信念を貫き、世俗ならびに教会政治の世界に戦い敗れ、最後には火刑台上に「イエズス様!」という叫びを残して、その信ずるものに殉じた彼女の生涯には、神の正義や慈愛、人の義務や勇気というような、国境を超え、全人類に通ずるものが含まれていて、今日まで多くの人々の感動を呼び覚まして来た。
 私はことさらジャンヌ・ダルクの研究者ではないが、高山一彦氏訳の「処刑裁判」および「復権裁判」の記録から彼女自身の告白を抜粋して見た。それによって信仰とは神に聞いて生きることだと言う、何千、何万回と語られて来た「生き方」の一つをここに紹介し、自分でも考えたかったのである。
 なお、< >の部分はそれに至る背景を私なりに解説し整理して綴った。多くは上記高山一彦氏による「処刑裁判記録」「復権裁判記録」から引用したものである。

 <ルーアンでの処刑裁判は当初から少女を異端者に仕立てる目的で行われたものであり、追及の焦点は当初からジャンヌが聞いたという声の実体、すなわち少女の受けた啓示の真偽にあった。
 声とは真に神からのものか、あるいは悪魔のささやきか。
 「汝が捏造した虚妄」、「悪しき霊に由来するもの」という裁判所の判断に対し、自分の聞いたのは神の声だとの信念を曲げぬジャンヌは、「教会の判断に従わぬ分派、偶像礼拝の徒、異端者・・・等々」の多数の罪名をもって破門されることになったのである。>

  <ジャンヌの告白
 私が13歳のころ、真夏の正午、父の家の庭にいた時「汝を助けよう」という神の声を聞きました。最初は非常に恐ろしく感じましたが、その声は光に包まれ、威厳を帯びていたので、神からのものだと信ずるようになりました。三度にわたってその声を聞くにおよんで、それが天使の声だと直感するようになりました。 
 御声は常に私を導き守護して下さいました。ある時、「お前はフランスに行って、オルレアンの包囲を解かなければならない」と告げられました。そしてヴォークルールの町の城に赴いて守備隊長をしているロベールに会うことを命じ、「隊長は自分と同行してくれる従者を与えてくれるだろう」とその声は告げたのです。
  私はそれに対して、自分は貧しい娘で、馬に乗ることも戦闘の仕方も知らないと答えました。しかし、実際にヴォークルールに到着したとき、私はそれまで会ったことのないロベールを見分けることができ、そして、彼に向い、自分はフランスに行かねばならないと告げたのです。

 
 <処刑裁判で審問する司教に向かって>
 「あなたは私を裁く者だとおっしゃっていますが、あなたはそれによって非常な危険を冒しています。ほんとうに私は神から遣わされているのですから・・・」
 
 <
神のお告げの内容を述べることを禁じられているのか?>
 「私にそれを禁じたのは人間ではないことをお信じ下さい。私がキリストの教えを信じ、我が主が地獄の責苦から我らを救い給う方であることを信ずるのと同じように私は、自分に語りかけられたこの声は神から送られ、神の命であることを固く信じます。

  <お前に話すのと同じように、なぜその声は、いま国王と話をかわさないのか?>
 それが神の思し召しなのかも知れません。主の御恵みがなければ自分には何もすることができないのです。

  <あなたは神の恩寵に浴していると思うか?>
 もし現在私が恩寵に浴していないなら、神様は私に浴させて下さるでしょう。もし私が恩寵に浴しているなら、私をその状態に留めて下さるでしょう。神様の恩寵に浴していないことが分かるなんて、こんな悲しいことはありません。もし、自分が罪を犯しているなら神の声が私に聞こえて来るはずはないと思います。

  <あなたに話しかけるのは天使の声か、聖者や聖女の声か、あるいは直接神からの声なのか?>
 その声は聖女カトリーヌと聖女マルグリットの声であり、聖女たちの頭の上には、立派な冠が豪華に気高く飾られていました。私ははじめから彼らが聖女達だと解ったわけではありません。最初聖ミシェルが、天使たちを伴って現れました。

 < 聖ミシェルや天使達を具体的な姿で見たと言うのか?>
 あなたを見ているのと同じように、私のこの目で見ました。天使達が私から離れて行く時私は泣きました。私を一緒に連れて行って欲しかったからです。どうか私の言うことをお信じになって下さい。

  <男の服を着るように命じられたのか?>
  服装などたいしたことではありません。しかし男の服を着たのは現世の誰の忠告によるのでもない。男の服を着るにせよ、どのようなことをするにせよ、神や天使達の命令以外でしたことはありません。私の行いはすべて神の命令によるものです。神が他の服を着用せよとお命じになったなら、他の服を着ていたでしょう。神の命令で行ったことはすべて正しいことだと思うし、主の信頼と救いを期待しています。
 7年以内に神がフランス人に大勝利を与え給うとの啓示を私は受けました。この事は司教がここにいるのと同じくらい確かなことです。 自分が大罪に陥っているかどうかは解りませんが、主よ、どうか、私の魂が非難をうけねばならぬような行為を犯していることがありませんように。しかし、万一そうであれば、聖女カトリーヌも、マルグリットも自分を見捨てるでしょう。良心はどんなに清めても清めすぎることはないと思います。
 復活祭の週に、ムランの樟壁の上にいた時、聖女カトリーヌおよびマルグリットから、自分はサン・ジャンの祝日が来る前に捕虜になるだろうとのお告げを受けていました。お告げは成就されなければならなかったことであり、自分はそれを聞いて驚きはしなかったし、怨むこともなくすべてを受け入れました。神が力を貸して下さるであろうと思いました。ただ捕虜になる場合、長く牢獄の苦しみを味あわないうちに死ねるように頼みましたが、聖女たちは私に、すべてを主の思し召しと考えて受け入れなければならないと命令しました。

  <あなたが捕虜になっても、天使はあなたを裏切ったことはないと言うのか?>
 わが主の意に叶うことであれば、自分が捕らえられることも良いことだったと信じます。

  <両親の家を出る時、罪の意識を持たなかったか?>
 神がお命じになったことですから、正しい行いだと思いました。もし自分に父親が百人いたとしても、また自分が国王の娘だったとしても、神が命ぜられた以上自分は出発したでしょう。

  <天使たちは長い時間あなたと一緒にいたのか?>
 天使達はキリスト信者達のなかに度々現れるが、彼らには見えないだけです。私は度々見かけています。天使達は、私を「乙女ジャンヌ、神の娘」と呼びました。天使が訪れたのには重大な目的があり、国王が徴を信じ、私が査問から解放されることが必要だったからであり、またオルレアンの市民達に救援を送り、国王とオルレアン公の光栄をたたえるためでした。

  <なぜ他の人ではなく、あなたに天使が遣わされたのか?>
 国王の敵どもを国外に追い払うのは、慎ましい一人の乙女であることが神の思し召しにかなうことだったからです。
 声は度々、大勝利の結果自分は解放されるだろうと告げてくれた上、すべてを喜んで受け入れなさい、殉教を怖れることはない。おまえは最後には天国にやって来るのだからと私に語って下さいました。私が殉教という言葉を使ったのは、牢獄で自分が受けている苦しみと不幸が原因であり、今後もっと大きな試練を受けるかどうかは解りませんが、私はわが主にお任せしています。 その声が自分は救われると告げたことは確かなことで、それは私が既に天国にいるのと同じことだと思っています。

 
 < 「復権裁判」の記録より>
 「フランスは一人の女性によって荒廃するが、その後、辺境ロレーヌの一人の乙女によって建て直されるであろうと、昔から言われていなかったでしょうか」 私はロベールに言いました。四旬節の中日までには、たとえ足をすり減らしても、王様の許へ行かねばなりません。実際フランス王国を復活させうる者は、国王にせよ、大名たちにせよ、スコットランドの王女にせよ、世界には私以外に王国を救う者はいないでしょう。私にとっては貧しい母の許で糸を紡いでいるほうがずっと良いのです。こんなことは私の仕事ではないのです。けれども、私はどうしても王様のところへ行って、その仕事をしなければなりません。私がそれをすることを、わが主がお望みだからです。」
 「私は兵士どもは恐れません。もし途中に兵隊どもがいても、私には神様が、わが主が付いていて、王太子様のところ行く道を開いてくださるでしょう。私はそのために生まれてきているのですから。」
 
 
<王太子に向かって>
 国は王太子のものではなく、わが主のものです。わが主は王太子が国王になるのを望んでおられ、王太子にその王国を治めることを託されたのです。敵どもがどうあろうと、王太子は即位されるでしょう。私が即位の場所にお連れします。 疑ってはいけません。やがて殿下は自分の王国全部を回復し、遠からず戴冠するでしょう。

  <神がフランスの人々を現在の苦難から救ってくださると<声>が告げたと言うが、もし神が救ってくださるなら、兵士たちは要らないだろう?>
 「神かけて申します。兵士が戦うからこそ、神は勝利を与え給うのです。」

  <おまえは神を信じているのか?>
 「あなたより深く」
 「どうか私をオルレアンに送ってください。私はそこで神から送られて来たという徴をおみせいたします。」 
 
第一は、イギリス人は敗退してオルレアンの前面の包囲の陣は撤去され、オルレアンの町が解放されること。(ただしその前に彼女はイギリス人に降伏の勧告をすること。)
 第二は国王がランスで聖別・戴冠の式を挙行すること。
 第三は、パリの町は国王の支配下に戻ってくること。 最後にオルレアン公がイギリスから釈放されることです。

  <なぜ旗印を手にしているのか?>
 「自分は剣を使うことを好まないからです。だれも殺したくないのです。」
 私はaもbも知らない無学な乙女です。 しかしわが主の命令はあなたがたの命令よりも遥かに賢くて確実です。私は、どんな兵士や町から来る援助よりも優れたものをあなたがたにもたらしているのです。それは天の王の援助です。それは私に対する愛からもたらされたのではなく、神の愛そのものなのです。神は聖王ルイと聖シャルマーニュ皇帝の祈りにこたえて、オルレアンの町に憐みを給い、敵がオルレアン公自身やその町を奪うことを許されないのです。 神の名において私に告げられたことに関して人々が容易に信じないような場合、私は一人だけ別の場所で神に祈り、そのことを神に訴えます。すると、こういう声が私に聞こえてきます。「神の娘よ、行け、行け、私はお前を助けよう、行け」と。私はこの声を聞くと非常な喜びを覚え、いつもその状態が続くように願いました。この状態がさらに強くなると、その声の告げる言葉を繰り返しながら、目を天のほうに向けていると、私自身が、驚くべき歓喜に包まれるのです。

  <トロワの町を占領した後>
 私が生を終える日には、願わくばこの土地に埋められますように! しかし私の死に場所は「神様の思し召されるところです。私にはあなたがご存じになっている以上に、その時も、その場所もわかってはいないのです。どうか創造主である神が、いま私にこの場から身を引いて、武器を捨て、妹や兄たちと一緒に羊の番をしながら両親に仕えるため、立ち去らせて下さるように願います。彼らは私を迎えてとても喜んでくれるでしょう。」
 
  <王に向かって>
 「疑ってはいけません。神様のお気に召す時が行動の時なのです。神様が望まれる時に行動しなければなりません。「行動なさい。神は助け給います。」 「わが主は、どんな優れた学者もその内容を読み取り得なかったような本をお持ちなのです。」 イギリス人たちは、結局私を殺すということは私はよく知っています。彼らは私が死ねば、フランス王国をわが物にできると信じているからです。けれどたとえ「イギリス兵」が今より一万倍も多くなっても、フランス王国は奪えないでしょう。

  <いったんジャンヌが自分たちの手に落ちたことであれば、イギリス人たちは何の顧慮することもなく彼女を処刑することができたであろう。だがそれは彼女を一気に殉教者とすることにもなった。イギリス側の摂政ベッドフォードはきわめて老獪で、事態をそのままは進行させなかった。さらにこの時代に生きた人間として、ジャンヌを掴まえたことで、これ以後フランス王国の権威に致命傷を負わせうるということをよく知っていた。 シャルル七世がランスで国王になるための油注ぎと戴冠の儀式をあげることができたのは、ジャンヌのおかげであったことはあまりにも知れわたっていたからである。この尋常でない娘が、もし異端者だということが明らかになれば、また娘の言う神からの使命なるものが欺瞞だとしたなら、国王の立場は永久に失墜することになろう。その反対に神聖化されるのは、彼の甥で英仏二元王国の当主であるイギリス国王となる。・・・>
 
 <戻り異端として火刑台に上げられ、焼き殺されることを宣告されて>
 「ああ、何と言う恐ろしくてむごい扱いでしょう。これまで汚されたことのないこの躯そのものが、今日という日に焼き尽くされて灰になってしまうとは!ああ、こんなように焼き殺されるより、七度首をはねられたほうがましです。何と言うことでしょうか、私が服従している教会の牢に入れられていたら、そして私の敵や反対者たちではなく、教会の人たちに監視されていたならば、今のようなこんな惨めなことにはならなかったでしょう。  ああ、最高の判事である神のみ前に、私に加えられたこの上もない非道と暴虐を訴えます。」   
 
 <この後彼女はヴィユ・マルシェ広場に連行され、・・・説教の間中平静を保ち、極めて静かに耳を傾けた上、熱烈な信仰を告白しました。そして祝福された諸聖者への祈りをささげ、また階層や身分に拘わらず、味方も敵も区別なく、あらゆる人々に慎ましく許しを求め、また自分のために祈ってくれるよう求め、自分に危害が加えられたことを赦すと、非常に長い間語り続け、それは半時間から死の間際に及びました。・・・>
 
 「イエズス様、イエズス様」
 「ああ、ルーアンよ、おまえが私の死で苦しまねばならぬことをひどく恐れます。」  

 
火がつけられると、彼女は十回以上「イエズス様」と叫びました。とくに最後の息とともにひときわ強く「イエズス様」と叫びましたので、居合わせたすべての人がそれを聞くことができました。ジャンヌの死後、イギリス人たちは遺骸の灰を集めさせてセーヌ川に投げ捨てさせました。それはジャンヌが逃亡することを恐れたか、人々が彼女が逃亡したと信ずるのを恐れたためでした。>

 
<歴史をひもとく時、ジャンヌ自身も彼女の介添え人、すなわち彼女に味方する殉教者を持っていた。たとえば、ジャンヌを火刑台に送り込んだ判事たちの不実をなじったために投獄された、托鉢修道会の修道士ピエール・ボスキエ(これは火刑の執行後数週間もたたぬうちである)や、あまり知られてはいないが、ジャンヌの賛美をあえてしたために、パリで火刑に処されたベリナイックなる女性も存在していた。

 
神の声を聞いたということが、その人の信念に過ぎないならば、はたして人間は自分の身が焼き尽くされても、その信念に殉じることができるであろうか。その声を聞かしめ給うたお方がその人に力を与え、この世のどんな苦痛にも勝る喜びと慰めを与えて下さったということは、それを体験した人にしか了解されないものであろう。>
               

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ドン・キホーテは生きている

2009年10月02日 23時15分21秒 | 紹介します。

ドン・キホーテの像(マドリッド、スペイン広場にて)

 数ヶ月前のこと、<IMPOSSIBLE DREAM>という、歌に接した。曲も歌詞も格調高い。「ラ・マンチャの男」というミュージカルのテーマソングということだった。
 そのあとピーター・オトゥール主演でソフィア・ローレンがアルドンザ役の「ラ・マンチャの男」という映画のビデオを見た。私にとってはベン・ハー以来の感動的な映画だった。
 とある宿屋の下女であり、淫売婦のアルドンザがドン・キホーテに出会って、最後には生まれ変わるというストーリーだった。
 <ドン・キホーテ>は、言うまでもなくスペインの作家セルバンテスの代表的作品であるが、何冊かの本に目を通してみると、奇妙なことに、ドン・キホーテがおどけ者、狂人として描かれ、支離滅裂な娯楽物語になっているではないか。友人に聞いても、ドン・キホーテという名前からは、おどけ者という印象しかないということがわかった。
 私は思った。この「ラ・マンチャの男」の主人公と、セルバンテスの<ドン・キホーテ>は果たして同一人物なのだろうか?作家セルバンテスの真意はどこにあったのだろうか?
 映画の表題を注意して見てみると、そこには原作者セルバンテスの名は記されていない。代わりにDale Wassermanという劇作家の名前がある。
 そして「ラ・マンチャの男」はアメリカのブロードウェイでも、かなりヒットしたミュージカルとして、日本でも松本幸四郎さんが熱演して来たことがわかった。 
 また松本紀保さんによる<名セリフ集>も出されていることを知った。
 映画での字幕は字数が限られているので、熟読には向かない。そこで僭越ながら、重要と思われるシーンのやり取りを英語原文から私なりに直訳してみた。
 独断と偏見が多いかもしれませんが、どうぞお許しください。
  二○○九年十月二日(金)イグアスにて
 
以下映画のシーンからの私訳

 <囚人たちに向かってセルバンテスが自分の書いた劇を説明し始める・・・・>
 私は一人の男を演じる。彼の名前は・・・アロンソ・キハナ。田舎の紳士、もう若くはない。隠居して本を読む時間が一杯ある。彼はそれらを朝から晩まで、時には夜中から明け方まで。そうして彼が読むものがすべて彼を押しつぶそうとする。・・・彼を義憤で溢れさせる。・・・人間の人間に対するきちがいじみたやりかたについて。
 彼は問題について思いめぐらす。どうやったらもっと良い世界を作ることができるのだろうか・・・この世界は悪が得をし、善はまったくそれに与らない。そこには詐欺とペテンと悪意があって、真実と誠実とが入り混じっている。彼は考えて、考えて、考えて、考えて、そして考えてそして最後に彼の脳みそは干上がってしまった。
 そこで彼は正気という憂鬱な重荷を降ろして・・・そしてこれまでにない奇妙な計画を思い立った。すなわち、諸国遍歴の騎士となり、そしてうって出ることだ。・・・冒険を捜し求めて世界を放浪し・・・すべてのあやまちを糾し、聖なる戦いに挑み・・・弱き者と困窮している人々を助け起こす。
 彼は隣人の田舎者で正直な男であるサンチョ・パンサを説き伏せる・・・もし貧乏人が正直者と呼ばれるなら・・・そして彼はほんとうに貧しいのだから、彼の従者になるようにと。
 彼はロシナンテと呼ぶ馬車馬を彼の乗る馬として選ぶ・・・そして主人を守る盾となるように。
 これらの準備が出来た時、彼は槍を手にとって・・・
 彼はもはや凡人のアロンソ・キハナではない。・・・不屈の騎士である。・・・ラ・マンチャのドン・キホーテとして知られる!

<ドン・キホーテがサンチョとともに出発する場面・・・・>
 今こそ、われに聞け!お前、荒涼とした耐えがたき世界よ、お前はなるべくして卑しく、放蕩に身を持ち崩した。そして騎士が勇気の旗を振りかざしてお前に挑戦する。
 我こそは、ドン・キホーテ、ラ・マンチャの領主。
 運命が私を呼んでいる、そして私は行こう。運命の嵐が吹きすさぶところどこへでも、私を運んで行く。どこへでも吹きすさぶところへ、栄光に向かって私は行こう。

 ―おいらはサンチョ、そう、おいらはサンチョ、おいらは主人の後に最後までついて行く。おいらは誇り高く全世界に向かって言うだろう。おいらは彼の従者、彼の友人

<ドン・キホーテの宣言・・・・>
 野蛮人よ、魔術師たちよ、聞け、そして罪の蛇たちよ、お前の卑劣な行いは過ぎ去った。何故なら、聖なる試みが今や始まろうとしている。そして徳が最後には勝利するだろう。
 我こそはドン・キホーテ
 −おいらはサンチョ
 ラ・マンチャの領主
 −そう、おいらはサンチョ
 私の運命が私を呼んでいる。そして私は行こう−最後まで主人について行く

<風車と遭遇したときのドン・キホーテとサンチョ・・・・>
 しかし中でも一番危険な奴がいる。・・・大魔術師だ。彼の思いは冷たく、彼の魂はしなびている。彼の目は小さな機械のようだ・・・そして彼が歩くところ、地は枯れる。私はいつか彼と顔と顔をあわせるだろう。
 お前はあいつが見えるか?・・・悪名高き巨大な怪物!私が遭遇しようとしていた敵
 −あれは風車です。
 巨人だ。
 −風車では?
 巨人だ!・・・
 お前は見えないのか?四つの巨大な腕が彼の背後で回っているではないか?

<アルドンザの言葉>
 私はこのことを学んだ、明かりが消えると、誰も特別の炎を上げて燃え上がらない。夜が明ける前にあんたがたはみんな同じだということを証明する。
・・・だからわたしに愛について語らないで欲しい。・・・
 私が死んでも、誰も悲しまない。何故って人生はきちがいじみた不潔なゲーム。だからあんたは私を呪うことも、接吻することもできる。・・・みんな同じ。・・・
 私は私が生きている人生が嫌い。でも、私は私、私はアルドンザ・・・

<アルドンザに出会ったドン・キホーテ・・・・>
 おお、神よ、彼女だ。高貴な淑女・・・美しい処女・・・私はあなたのお顔をまともに見ることはできません、あなたの美しさが私めくらにしてしまったかのようです。
 私の貴婦人よ、私に仕えるべきではありません。どうぞお願いします。御名を教えて下さい。
 −アルドンザよ。
 私の貴婦人よ、冗談でしょう。アルドンザは台所の下働きの女か、貴女の召使です。・・・
 貴女は私を試そうとしているのですか?
 ああ、いと高き、私の心をとりこにしたお方・・・
 どうして貴女を見まちがうことがありましょうか、私は貴女を知ってずっと以前から貴女を夢見ていました。一度も会ったことがなく、一度も触れたことがなくとも、私は貴女を私の心のすべてで知っていました。祈りの中で、賛美の歌の中で貴女はいつも私と共におりました。
 私たちは離れていても、いつも
 ダルシネア、ダルシネア、あなたを見るとき私は天国を見るのです。
 ダルシネア、ダルシネア、そしてあなたの名前は天使が囁く祈りのようです。
 ダルシネア、ダルシネア、もし貴女に私が手を差し出すとき、どうか震えないで下さい、恐縮しないで下さい。
 あなたの髪の毛に触れて私の指がただ、貴女の温かみと命を感ずることができますように。
 そして幻が空中に消えていかないように、
 ダルシネア、ダルシネア、
 今こそ私はあなたを見出しました。そして世界は貴女の栄光を知るでしょう。

 騎士はそれぞれ淑女を持つことが不可欠だ。淑女を持たない騎士は魂のない体のようだ。誰に対して彼はその征服したものを捧げるのだ。

<ドン・キホーテとアルドンザの問答・・・・>
 私は鉄の世界の中に入ってきた・・・世界を黄金にするために。
 −この世は肥溜めよ・・・そして私たちはその上を這い回る蛆虫。
 いや、そうじゃない。貴女はその心の中ではもっとよく知っているはずだ。
 −私の心の中にあるものは私をもう、半分地獄へ連れて行こうとしているわ。そしてドン・キホーテさん、あなたの頭はあなたの首とは無縁なものとなって終わるのよ。
 それは構わない。
 −じゃあ、何が?
 ただ、私がクェスト(使命)に従うかどうかということだ。
 −あなたのクェストって、クェストって何を意味するの?
 それは本物の騎士の使命であり、義務だ・・・いや、それは特権だ。
 
 不可能な夢を夢み
 倒すことのできそうもない敵と戦い
 耐えられそうもない悲しみに耐え
 勇者も敢えて行こうとしないところへ突進する
 糾すことのできない悪を糾し
 純粋で清いものを遠くから愛する
 腕が疲れ果てたときにもなおも試み
 届きそうもない星に手を伸ばす
 これが私のクェストだ。
 その星に従うこと
 どんなに望みがなくとも、どんなに遠くとも構わない、正義のために戦う、疑うこともなく、立ち止まることもなく。
 天の使命のためには喜んで地獄へも進んで行く。
 そして私は知っている。もし私がこの栄光あるクェストに真実であるならば、私の心は平安に満ちて、穏やかに横たわるだろう。やがて私が永遠の休息へと導かれる時に。
 そして世界はこのために良くなるだろう。一人の男が嘲られつつも、傷まみれとなっても、その最後の勇気の一滴をふりしぼって、及びがたき星に到達しようと奮闘したことで。


<検事役の男との問答・・・・>
 −だが、セルバンテスよ、現実と幻想の間には違いがある。・・・そしてこいつら牢獄人と気が狂った人間との間には違いがある。
 私はむしろその人の幻想は非常に現実的だと言おう。
 −結局のところ同じことじゃないか?
 −どうして詩人はきちがいに魅せられるのかね?
 それは共通しているところがいっぱいあるからさ。
 −お前たちはどちらも人生に背を向けているんじゃないか?
 我々はどちらも人生から選び取ったのさ。
 −人間は人生をあるがままに受け入れなければならない。・・・
 あるがままの人生・・・私は40年以上を生きて来て、そして見た。・・・あるがままの人生を−痛み、苦しみ、信じがたい残酷さを。
 私は神が創られたもっとも高貴なものたちの、すべての声を聞いた。それは街角のゴミの塊の中から呻いている。私は戦士であり、奴隷だった。私は仲間たちが戦いで死んで行くのを見た。・・・あるいはもっとゆっくりとアフリカの打ちたたくような風の下で死んで行くのを。
 私は彼らをその最期の瞬間に抱きしめた。彼らは人生をありのままに受け入れていた者もいた。だが、彼らは絶望しつつ死んだ。
 栄光もなく、最期の勇敢な言葉もなく、ただ彼らの目は途惑いに満ちていた。どうして?と問いかけながら。
 私は彼らがどうして死んで行くのかと訊ねているとは思わない。・・・いや、どうして彼らは生まれてきてこの地上の生を生きたのか。
 人生そのものが常軌を逸しているように思われる時、どこに狂気が横たわっているかを誰が知るだろうか?
 たぶん、あまりにも現実的であるということは、狂気なのだ。夢をあきらめること、これが狂気なのだ。
 ただゴミしかないところで宝物を探す・・・あまりにも正気であるということは狂気であるかもしれない。
 そしてすべての中でもっとも狂気なのは・・・人生をありのままに見て、あるべき姿を見ないことだ。

<サンチョとの問答・・・・>
 −分からない。
 わが友よ、何が分からないのかね?
 −あなたがどうしてそんなに元気いっぱいなのか。あなたは最初貴婦人を見出した、それからそれを失った。
 決して失ってはいないよ。確かに彼女はあのラバ追い達と行ってしまった。疑いなくある気高い目的のためにな。
 −あの下品な奴らと一緒に?気高い目的のために?
 サンチョよ、お前の目はいつも良きものよりも悪いものを見る。私の目はこの世界を作ったのではない。それはただ見るだけだ。
・・・
 −何ですって?それでは悪が栄えるのを許すのですか?
 私は気づいたのだが、悪は結構厚い鎧を被っているようだ。
 −で、そのためにあなたは私に戦うことを止めよと言われるのですか?
 いや、そうではない。何千回でも打ちのめされよう。しかし、我々は立ち上が 
らなければならない。戦うのだ、そうだ!


<陵辱されたアルドンザとの再会>
 −嘘、嘘、嘘、狂気と嘘よ!嘘、嘘、嘘、狂気と嘘よ!
 この罪を犯した者は罰せられるだろう。
 −罪? すべての中で最悪の罪は何かを知っている?生まれたということよ。 
 −そのために人はその人の人生すべてで罰を受けるのよ。
 ダルシネア
 −その名前は聞き飽きた!きちがい病院に行ってしまえ! 誰も聞こえないところで高貴さについて褒めちぎるがいい。
 私の貴婦人よ。
 −私はあなたの貴婦人なんかじゃない!私はどんな種類の貴婦人でもないわ。
 −だって貴婦人は控えめで慎み深い雰囲気をもっているもの。
 −そしてめくらの男だってそれらの美徳が私に欠けているのが分かるわ。
 −それは身につけるのは難しいの。
 −これらの慎み深い雰囲気は
 −馬小屋で仰向けに寝かされて(男のなぐさみものになっている私には)。
 −あなたは私を見ようとはしないの?私を見て、神かけて、私を見て下さらない?
 −調理場のふしだらな女を見て。
 −汗臭くて
 −糞の山の上で生まれ
 −糞の山の上で死ぬの。
 −男たちは私を売春婦として扱い、そして忘れる。
 −もしあなたが私を分かっていると思うなら
 −私の処女の下着にではなく
 −私の手の平に硬貨を握らせておくれ。
 −そうすれば私は喜んで残りを見せてあげる。
 決してあなたは自分がダルシネアだということを否定してはいけません。
 あなたの目からかすみを取り去り、私を私がほんとうに私であるように自分を見て下さい。
 −あなたは私に空を見せてくれたわ。
 −でもあの空に何のいいものがあるの、這いつくばることしか決してしない生き物に?
 −無慈悲なろくでなしどもが寄ってたかって私を苦しめ傷めつくしたけれど、あなたはみんなの中で一番残酷な人よ。
 −あなたの優しい異常な精神が私に何をしたかが分からないの?
 −私から怒りを奪い、そして私を絶望させたの。
 −殴られたり、虐待されるのは平気、そうすればお返ししてやれる。優しさには私は耐えられない。だからあなたの素敵なダルシネアという名前でこれ以上私を苦しめないで。
 −私は誰でもない。私は何者でもない。私はただ淫売女のアルドンザよ。
 今もそして永遠にあなたは私の貴婦人ダルシネアです。
 −いいえ、違うわ!

<ドン・キホーテことアロンソ・キハナ氏の臨終の床でアルドンザとの問答・・・・>
 彼女を居させなさい。私の家では礼儀があってしかるべきだ。近くに来なさい。 
 女よ。あなたが望んでいるのは何かね?
 −あなたは私を知らないのですか?
 知っているはずだと言うのか?
 −私はアルドンザです。
 申し訳ない、(貴婦人よ)私はその名前の人を思い出せないのだが。
 −ああ、どうか、私のご主人様。
 どうして私を「私のご主人様」と言うのかね?
 −あなたは私のご主人様、ドン・キホーテです。
 ドン・キホーテ?
 許してくれ、私は暗闇に惑乱させられているようだ。私はあなたを昔知っていたかもしれないが思い出せない。 
 −どうか、思い出そうとして下さい。
 それはそんなに大事なことなのかね?
 −ありとあらゆることです。私の全生涯です。あなたは私に語りかけられました。そしてあらゆることが・・・変わってしまいました。
 私があなたに話したと?
 −そしてあなたは私を見て・・・別の名前で私を呼びました。ダルシネア、ダルシネアと。
 −あなたはかつて一人の女を見出しました。そして彼女をダルシネアと呼びました。
 −あなたがその名前を呼ぶとき
 −天使が囁くようでした。ダルシネア、ダルシネアと。
では、たぶんあれは夢ではなかったのだ。
 −あなたは夢について語られました。・・・そしてクェストについて。
クェスト?
 −あなたはどのようにして戦わなければならないのか?そして勝とうが負けようが問題ではない・・・ただそのクェストに従うならばと。
 私はあなたに何を言ったのかね?その言葉を言ってくれ。
 −夢見ること・・・叶わぬ夢を。でもこれらはあなたご自身の言葉です。
 −戦うこと・・・打ち負かすことのできない敵と。思い出しませんか?
 −耐えること・・・耐え難い悲しみに。あなたは思い出さなければなりません。
 −向かって行くこと・・・勇者が敢えて行かないところへ。
 糾すこと・・・糾し得ぬ悪を。
 −そうです。
 愛すること・・・純粋さと清らかさを遠くから。
 −そうです。
 あなたの腕が疲れ果てたときにも、やってみようとすること。届き得ない星に手を伸ばそうと。
 −ありがとうございます、ご主人様。
 私の貴婦人よ、これは礼儀にかなったことではない。あなたが私にひれ伏すのですか?
 −でも、ご主人様、あなたは(お体が)良くありません。
 良くない?放浪の騎士の体にとって病気が何だ?怪我が何だ?彼は倒れるたびに、・・・彼はもう一度立ち上がる。・・・悪を呪う!
 サンチョ! 私の兜、私の剣!
 更なる思いもかけない災難がやってきた!
 冒険だ、昔からの友よ!
 ああ、栄光のトランペットが
 今、私に起ちあがれと呼んでいる
 そうだ、トランペットが私を呼んでいる。
 そして私が行くところどこでも、私のそばにはいつも忠実な者、私の従者とそして私の貴婦人がいる。
 私こそ、ドン・キホーテ、ラ・マンチャの領主


<ドン・キホーテを葬って後のサンチョとアルドンザの会話・・・・>
 彼は死んだ。私の主人は死んでしまった。
 −あの人は死んだわ。いい人だった。・・・でも私は彼を知らなかった。
 でも、あなたは彼に出会った。
 −ドン・キホーテは死んではいないわ。信じるのよ、サンチョ、信じるのよ。
 アルドンザ・・・
 −ダルシネアよ。
 ダルシネア。

<牢名主が別れ際にセルバンテスに語りかける・・・・>
 −セルバンテス?ドン・キホーテはセルバンテスの兄弟だと思うが。
 神が我らを助けられる。我々は両方ともラ・マンチャの男さ。
 私のためだけにドン・キホーテは生まれ・・・そして私は彼のために(生まれたのだ)
 私は彼をあなた方に進ぜよう。昔からの友よ、用意はいいかね?勇気を出そう。・・・

<牢獄の者たち一同の合唱>
 叶わぬ夢を夢み・・・
 打ち負かすことのできない敵と戦い
 耐えがたき悲しみに耐え
 勇者も敢えて行かぬところへ向かって行く。
 ゴールがどこまでも永遠に遠くとも
 旅に疲れ果ててもなおも挑戦しようとする、
 及びがたき星に手を伸ばそうと、
 及びがたき星に手を伸ばそうと、
 それが不可能なほどに高いところにあることを知っていても、
 心では上を目指して生きる。
 遠くへ
 及びがたき
 星を(目指して)

Youtube による 動画紹介(英語)
http://www.youtube.com/watch?v=RfHnzYEHAow
Youtube による 動画紹介(スペイン語)
http://www.youtube.com/watch?v=72WRdem_EBQ
スクリプト全文紹介
http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/m/man-of-la-mancha-script-transcript.html




 
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