“坂本龍馬が夕顔丸船中において『船中八策』を提唱した”という龍馬伝説「『船中八策』提唱伝説」はウソである。
『船中八策』と其の逸話は、明治から大正にかけて、龍馬親族の著書内の記述をもとに段階的に整理・補完され成立したものだ。判りやすく端的に言うと「捏造」である。
近代史専門家の間では以前から、〝坂本龍馬が『船中八策』を提唱した〟という話には疑問が持たれていた。
理由1 龍馬本人や『船中八策』を聞いたという長岡謙吉による自筆も、信頼できる写本も存在しない。
理由2 同時代の記録や、龍馬に関連した人々の証言等に一切登場しない。土佐海援隊の日誌にさえ記述が無い。
理由3 後年の龍馬自筆が現存する『八義』(所謂『新政府綱領八策』)よりも、先行するはずの『船中八策』の方が内容が充実している。
近年に明らかになって来た『船中八策』と其の逸話の成立経緯を大雑把に言うと次のようなものだ。
明治29年西暦1896年に龍馬の親族である弘松宣枝が著した龍馬の伝記『阪本龍馬』(何故か「阪」)に『船中八策』の原型となる記述が登場する。同書内で龍馬が長岡謙吉に語ったとされる「建議案十一箇条」という物のうち、「不詳」三箇条を除いた、残り八箇条である。其の内容は現在の『船中八策』とほぼ同じだが異なる部分もあり、〝龍馬が夕顔丸船中で語った〟という話も登場しない。当然だが、まだ『船中八策』ではない。
その記述を元に、『殉難録稿 巻之五十四 坂本直柔』という書物の中で今我々が知る『船中八策』の内容がほぼ確定したのが明治40年西暦1907年。この時点では名称は「建議案八條」であり、龍馬が京都において長岡謙吉に起草させたものとされている。〝龍馬が夕顔丸船中で語った〟という話はまだ生まれておらず、当然、未だ『船中八策』ではない。
そして、岡部精一という人物の講演において〝長崎から上京する途中の龍馬が夕顔丸船中で長岡に語った〟という物語と『船中八策』という名称が世間に登場したのが大正5年西暦1916年のことである。つまり、我々が知る『船中八策』とその逸話が完全に成立したのがこの時。
〝夕顔丸船中において語られた〟という逸話や『船中八策』という名称が後世の捏造であっても、龍馬が『八義』(所謂『新政府綱領八策』)とは別に八箇条の建議をしたということが事実であるなら其の意義は変わらないわけだが、其れを示す根拠が全く無いのは、前述した通りである。
詳しくお知りになりたい方は知野文哉著『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫蘭』(人文書院刊)をお読み頂きたい。