皆さんは「琴馴らし」という道教徒の物語を聞いたことがありますか。
Have you heard the Taoist tale of the Taming of the Harp ?
Have you heard the Taoist tale of the Taming of the Harp ?
太古の昔、竜門峡谷に森の王者たる一本の桐の樹があった。
ある日、仙人がこの樹から不思議な琴を作る。琴は中国の皇帝が秘蔵していたが、誰が弾いても耳障りな音しか鳴らない。最後に名人・伯牙が現れ、弦に触れると、古木の記憶が目を覚ました。甘い春の息吹が戯れ、奔流は峡谷を踊り、夏の虫の声、雨音、カッコウの悲しげな鳴き声が聞こえたかと思うと、虎の咆哮がこだまする。秋の月は草の霜に輝き、雪空に白鳥の群れが舞い、あられが枝を打つ。恋の歌に森は物思いにふけり、空には乙女のように透き通った美しい雲が飛ぶ。戦の曲には嵐起こり、龍が稲妻と飛び、雪崩が山を揺るがした。
帝王は伯牙に秘訣を問う。
答えて曰く、「他の人たちが失敗したのは、自分自身のことばかり歌ったからです。私は琴にみずからの主題をえらばせました。そして琴が伯牙だったか、伯牙が琴であるか、ほんとうはわかりませんでした」。
この話は、岡倉天心の「茶の本」(第5章)で知った。もともとは英語で書かれたもので、取り上げる訳は講談社学術文庫による(桶谷秀昭訳)。この伯牙が、「伯牙絶弦」の伯牙と同じかどうか知らないが、琴の名人は何人もいないだろうから、おそらく同一人物だろう。
「伯牙絶弦」は、琴の名手であった伯牙に鐘子期という親友がいたが、その友が亡くなり、自分の琴を理解してくれる人がいなくなってしまったと嘆き、琴の弦を断ち切って二度と弾くことはなかったという故事に由来し、真の友との死別にたとえられる。春秋時代の人というので、今から優に2500年も前のことになる。岡倉は、この「琴馴らし」が芸術鑑賞の秘密を具体的に示すものだとしている。
傑作は、われわれのきわめて繊細な感情という楽器が演奏する交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。
われわれの心は、画家が色を塗る画布である。画家の絵具は、われわれの感情である。その濃淡の配合は、歓びの光であり、悲しみの影である。
傑作をつくづくと眺めて、果てしない思想の広がりに思いを凝らして、畏怖の念に襲われることのない者がだれかあろうか。それらの傑作は、何と身近で共感を惹くことか。それにひきかえ、現代の凡作は何と冷やかであることか! 傑作にわれわれが感じるのは、人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を超えることはまれである。竜門の琴の霊を呼びさますことができなかった楽人のように、現代人は自分のことばかり歌っている。彼の傑作は科学により近いかもしれぬが、人間性から一層遠ざかっている。
われわれの心は、画家が色を塗る画布である。画家の絵具は、われわれの感情である。その濃淡の配合は、歓びの光であり、悲しみの影である。
傑作をつくづくと眺めて、果てしない思想の広がりに思いを凝らして、畏怖の念に襲われることのない者がだれかあろうか。それらの傑作は、何と身近で共感を惹くことか。それにひきかえ、現代の凡作は何と冷やかであることか! 傑作にわれわれが感じるのは、人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を超えることはまれである。竜門の琴の霊を呼びさますことができなかった楽人のように、現代人は自分のことばかり歌っている。彼の傑作は科学により近いかもしれぬが、人間性から一層遠ざかっている。
芸術は、あたたかな人の情けを呼び起こすものである。傑作を前にしそれを感じる者の心がけに、ある態度が求められる。
芸術鑑賞に必要な、共感による心の交流は、互いに譲り合う精神にもとづかなければならない。芸術家が伝言を伝える方法を知らなければならないように、鑑賞者は言葉を受けとる正しい態度を培わねばならない。
傑作を理解するためには、その前に身を低くして、その一言一句も聞き洩すまいと、息を殺して待っていなければならない。
傑作を理解するためには、その前に身を低くして、その一言一句も聞き洩すまいと、息を殺して待っていなければならない。
このような徹底した謙虚さによってこそ、芸術の鑑賞は可能になる。
感動するとは、生の不思議に触れて畏れることである。また、それを発見することである。人情への共感であり、愛であり不安であり喜びであり悲しみである。
情けが心の底から底へと通いあう中にあっては、最早、個の意識はとどめようがない。個がない中で感じるものは全てであり、永遠でもあり得る。無から無限大の有が生まれる。これを「茶の本」では、自己の超越、束縛からの解放としている。
美の不思議な手に触られると、われわれの存在の神秘の琴線が目を覚まし、その呼びかけに応じてふるえ、わななく。心は心に語りかける。われわれは言葉にならぬものに耳傾け、見えざるものを凝視する。巨匠はわれわれの知らない旋律を呼び起す。ながいあいだ忘れていた記憶がことごとく、新しい意義を帯びてよみがえる。
共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実となり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。われわれの心に訴えるのは、手練よりも魂であり、技術よりは人間であって、その呼びかけが人間的であるほど、われわれの反応はそれだけ深いものになる。巨匠とわれわれのあいだのこの暗黙の了解があればこそ、われわれは詩や物語の主人公とともに、苦しみ喜ぶことができる。
芸術において、血縁ある精神の結びつきほど神聖なものはない。出会った瞬間に、芸術を愛する者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は 「無限」を垣間みるが、彼の喜びを声にする言葉がない。眼は舌をもたないから。彼の精神は物質の束縛から解放されて、物の律動となって運動する。かくて、芸術は宗教に近いものとなり、人類を昂めるのである。このことによって、傑作は何か神聖なものになる。
共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実となり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。われわれの心に訴えるのは、手練よりも魂であり、技術よりは人間であって、その呼びかけが人間的であるほど、われわれの反応はそれだけ深いものになる。巨匠とわれわれのあいだのこの暗黙の了解があればこそ、われわれは詩や物語の主人公とともに、苦しみ喜ぶことができる。
芸術において、血縁ある精神の結びつきほど神聖なものはない。出会った瞬間に、芸術を愛する者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は 「無限」を垣間みるが、彼の喜びを声にする言葉がない。眼は舌をもたないから。彼の精神は物質の束縛から解放されて、物の律動となって運動する。かくて、芸術は宗教に近いものとなり、人類を昂めるのである。このことによって、傑作は何か神聖なものになる。
けれど、人は何でも自由に認識することはできない。運命は超えられないのである。これは芸術鑑賞においても同様である。
しかしながら、芸術は、それがわれわれに語りかける度合でのみ価値があることを、忘れてはならない。もしも、われわれの側の共感が普遍的であるならば、芸術が語りかける言葉も普遍的であるだろう。われわれは生まれながらにして、有限の存在である。それに、先祖伝来の天分はむろんのこと、伝統と因習の力が、われわれの芸術享受の受容能力の幅を限定している。われわれの個性さえも、或る意味でわれわれの理解力に制限を設けている。つまり、われわれの審美的人格は、みずからの同類を過去の創作品の中に探し求める。修養によって、われわれの芸術鑑賞の感覚が幅広くなり、それまでは知らなかった美の多くの表現を享受することができるようになることはたしかである。しかし、結局、宇宙の中でわれわれにみえるのは、自分自身の形象だけなのであって、言いかえれば、われわれの固有の気質が認識のかたちを指図するのである。茶人たちにしても、彼らの個性的な鑑定基準の外に一歩も出ることのない物のみを集めた。
鑑賞する側からみてきたが、芸術を創出する場合においても同様である。 端的にこうある。
われわれが傑作によって存在するごとく、傑作はわれわれによって存在する。
徹底した謙虚さが求められるのは、作り手側の事情も同じである。伯牙も「失敗したのは、自分自身のことばかり歌ったから」と言っているではないか。芸術が存在するためには、芸術を真に人情の交流、共感として理解できる者が不可欠となる。
このようにみてくると、芸術を理解するのも、人を理解するのも同じである。情けの通い合うことによって人生の価値がつかみ得るなら、相互に人間性を理解できる他者が必要である。
人の存在は、その人に親身になれる者がいるかいないかにかかっている。
そのような人を謙虚に捜し求めているのが、人生の意味となる。
仮にこれが得らなかったらどうなるのだろうか。
伯牙はこの点にも答えている。「絶弦」によって。