遅れ先立ち 花は残らじ

人生50年を過ぎましたので
そろそろ始末を考えないといけません
浅く深く考えたことなどを綴っていきます

伯牙絶弦

2015年06月27日 | 日記
皆さんは「琴馴らし」という道教徒の物語を聞いたことがありますか。
Have you heard the Taoist tale of the Taming of the Harp ?

太古の昔、竜門峡谷に森の王者たる一本の桐の樹があった。
ある日、仙人がこの樹から不思議な琴を作る。琴は中国の皇帝が秘蔵していたが、誰が弾いても耳障りな音しか鳴らない。最後に名人・伯牙が現れ、弦に触れると、古木の記憶が目を覚ました。甘い春の息吹が戯れ、奔流は峡谷を踊り、夏の虫の声、雨音、カッコウの悲しげな鳴き声が聞こえたかと思うと、虎の咆哮がこだまする。秋の月は草の霜に輝き、雪空に白鳥の群れが舞い、あられが枝を打つ。恋の歌に森は物思いにふけり、空には乙女のように透き通った美しい雲が飛ぶ。戦の曲には嵐起こり、龍が稲妻と飛び、雪崩が山を揺るがした。
帝王は伯牙に秘訣を問う。
答えて曰く、「他の人たちが失敗したのは、自分自身のことばかり歌ったからです。私は琴にみずからの主題をえらばせました。そして琴が伯牙だったか、伯牙が琴であるか、ほんとうはわかりませんでした」。

この話は、岡倉天心の「茶の本」(第5章)で知った。もともとは英語で書かれたもので、取り上げる訳は講談社学術文庫による(桶谷秀昭訳)。この伯牙が、「伯牙絶弦」の伯牙と同じかどうか知らないが、琴の名人は何人もいないだろうから、おそらく同一人物だろう。
「伯牙絶弦」は、琴の名手であった伯牙に鐘子期という親友がいたが、その友が亡くなり、自分の琴を理解してくれる人がいなくなってしまったと嘆き、琴の弦を断ち切って二度と弾くことはなかったという故事に由来し、真の友との死別にたとえられる。春秋時代の人というので、今から優に2500年も前のことになる。岡倉は、この「琴馴らし」が芸術鑑賞の秘密を具体的に示すものだとしている。

傑作は、われわれのきわめて繊細な感情という楽器が演奏する交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。
われわれの心は、画家が色を塗る画布である。画家の絵具は、われわれの感情である。その濃淡の配合は、歓びの光であり、悲しみの影である。
傑作をつくづくと眺めて、果てしない思想の広がりに思いを凝らして、畏怖の念に襲われることのない者がだれかあろうか。それらの傑作は、何と身近で共感を惹くことか。それにひきかえ、現代の凡作は何と冷やかであることか! 傑作にわれわれが感じるのは、人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を超えることはまれである。竜門の琴の霊を呼びさますことができなかった楽人のように、現代人は自分のことばかり歌っている。彼の傑作は科学により近いかもしれぬが、人間性から一層遠ざかっている。

芸術は、あたたかな人の情けを呼び起こすものである。傑作を前にしそれを感じる者の心がけに、ある態度が求められる。

芸術鑑賞に必要な、共感による心の交流は、互いに譲り合う精神にもとづかなければならない。芸術家が伝言を伝える方法を知らなければならないように、鑑賞者は言葉を受けとる正しい態度を培わねばならない。
傑作を理解するためには、その前に身を低くして、その一言一句も聞き洩すまいと、息を殺して待っていなければならない。

このような徹底した謙虚さによってこそ、芸術の鑑賞は可能になる。
感動するとは、生の不思議に触れて畏れることである。また、それを発見することである。人情への共感であり、愛であり不安であり喜びであり悲しみである。
情けが心の底から底へと通いあう中にあっては、最早、個の意識はとどめようがない。個がない中で感じるものは全てであり、永遠でもあり得る。無から無限大の有が生まれる。これを「茶の本」では、自己の超越、束縛からの解放としている。

美の不思議な手に触られると、われわれの存在の神秘の琴線が目を覚まし、その呼びかけに応じてふるえ、わななく。心は心に語りかける。われわれは言葉にならぬものに耳傾け、見えざるものを凝視する。巨匠はわれわれの知らない旋律を呼び起す。ながいあいだ忘れていた記憶がことごとく、新しい意義を帯びてよみがえる。
共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実となり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。われわれの心に訴えるのは、手練よりも魂であり、技術よりは人間であって、その呼びかけが人間的であるほど、われわれの反応はそれだけ深いものになる。巨匠とわれわれのあいだのこの暗黙の了解があればこそ、われわれは詩や物語の主人公とともに、苦しみ喜ぶことができる。
芸術において、血縁ある精神の結びつきほど神聖なものはない。出会った瞬間に、芸術を愛する者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は 「無限」を垣間みるが、彼の喜びを声にする言葉がない。眼は舌をもたないから。彼の精神は物質の束縛から解放されて、物の律動となって運動する。かくて、芸術は宗教に近いものとなり、人類を昂めるのである。このことによって、傑作は何か神聖なものになる。

けれど、人は何でも自由に認識することはできない。運命は超えられないのである。これは芸術鑑賞においても同様である。

しかしながら、芸術は、それがわれわれに語りかける度合でのみ価値があることを、忘れてはならない。もしも、われわれの側の共感が普遍的であるならば、芸術が語りかける言葉も普遍的であるだろう。われわれは生まれながらにして、有限の存在である。それに、先祖伝来の天分はむろんのこと、伝統と因習の力が、われわれの芸術享受の受容能力の幅を限定している。われわれの個性さえも、或る意味でわれわれの理解力に制限を設けている。つまり、われわれの審美的人格は、みずからの同類を過去の創作品の中に探し求める。修養によって、われわれの芸術鑑賞の感覚が幅広くなり、それまでは知らなかった美の多くの表現を享受することができるようになることはたしかである。しかし、結局、宇宙の中でわれわれにみえるのは、自分自身の形象だけなのであって、言いかえれば、われわれの固有の気質が認識のかたちを指図するのである。茶人たちにしても、彼らの個性的な鑑定基準の外に一歩も出ることのない物のみを集めた。

鑑賞する側からみてきたが、芸術を創出する場合においても同様である。 端的にこうある。

われわれが傑作によって存在するごとく、傑作はわれわれによって存在する。

徹底した謙虚さが求められるのは、作り手側の事情も同じである。伯牙も「失敗したのは、自分自身のことばかり歌ったから」と言っているではないか。芸術が存在するためには、芸術を真に人情の交流、共感として理解できる者が不可欠となる。
このようにみてくると、芸術を理解するのも、人を理解するのも同じである。情けの通い合うことによって人生の価値がつかみ得るなら、相互に人間性を理解できる他者が必要である。
人の存在は、その人に親身になれる者がいるかいないかにかかっている。
そのような人を謙虚に捜し求めているのが、人生の意味となる。

仮にこれが得らなかったらどうなるのだろうか。
伯牙はこの点にも答えている。「絶弦」によって。
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平和

2015年06月24日 | 日記
初めて吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読む機会を得た。
昭和12年、中学生向けに倫理について書かれたそうで、用いられる言葉に古めかしいものがあるのは仕方ないが、内容は今なお新鮮で、もともと企図されたように若い頃に読んでおけば良かったと感じさせられた。
さりとて読んだら今どうなっているかは分からないし、考えても詮方ないことである。
吉野源三郎という人は不勉強で知らなかったが、「人間を信じる」(岩波現代文庫)という本を見つけ、同じ作者であるということと、題名がこれまで書き散らかしてきたことに通じるような気もして、取り寄せて読んでみた。

短い論文や随筆、対談が載っており、この中に「自らの運命を自らの責任において-八・一五記念国民集会に臨んで-」という一編がある。
昭和44年に書かれたものだそうで、ベトナム戦争でアメリカが直接軍事介入したのが39年のトンキン湾事件以降であるし、40年から沖縄・嘉手納基地が出撃基地となり、そうしてアメリカ軍の撤退は48年であるから、太平洋戦争で日本に投下されたのをはるかに超える激しい爆撃が絶え間なく続けられている、正にその只中にあって、平和に対する日本人の態度を問うものと言ってよいと思う。

日本は戦争に負け、それも無条件降伏であった。戦後、国民は基本的人権と主権を得たが、虚脱状態の中では自国民の運命を自分で決定するまでには至らなかった。無力ではあったが、「戦争の責任を問われ、再び戦争を引きおこすまいと決意し、軍隊さえももたないと誓」い、「私たちが平和の大義に誠実である限り」、「平和に徹することによって、自分たちの征服者も批判する原理的立場をもつに至り」、「少なくとも精神的には、このようにして独立を回復した」のだと論じる。
その上で、「日本の政府が、日本人の名において、世界平和のためにならないことをやるとしたら、それをやらせないようにするのは、日本の民衆が、アジアの他の民衆、世界の他の民衆に対して負っている第一の責任ではないでしょうか。できれば、進んで日本の政府をして、世界平和に寄与するような行為をとらせること、そこまでやりぬくこと、それが民主主義の原則の上に立った日本人民の責任だ、と考えようではありませんか」と語りかける。
そうして憲法の序文から「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」が2度引用される。

これまで、本来の自分を知るとはどういうことか、といったことを書いてきたのだが、読みながら、これを国家に置き換えたらどうなるだろうか、即ち本来ある日本とは何だろうか、ということを考えさせられた。

侵略から敗戦に至っての虚脱感、あるいは占領による無力感の中から、日本が国家として独立を果たし得たのが平和への希求であって、日本という国が存続し、一つの独立した国としてここに今正にこのようにしてある唯一の理由を求めるなら、その運命を徹底的に受け容れていくほかないのではないか。ここから離れて、このほかに、このようにあるべきだという理由を作り出すのは、偽りであり、驕りでしかない。そうして、驕りから本来の自分を見出すのは困難であるとは、何度か取り上げた。それは人のことであったが、一つの国も同じではないかと思う。信頼されない国が国として認められるはずはないだろうから。
人がそうであって、そうしてそのゆえに信頼を得ることができ、本来の自分自身が立ち現れるように、国家も相互信頼の中で本来の姿が現れるのではないか。自ずと示されるのではないか。それには傲岸であってはならず、謙虚に徹することが肝要であり、それも人と同じと思われた。

憲法の序文には、次のようにもある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

平和を念願し、理想を自覚し、諸国の公正と信義を信頼して誓ったのであるから、これを守るに徹底することが、日本に生まれた者の責任である。このほかに正しく生きる道があるとは思われない。運命を受け容れて生きるとは、そういうことであろう。
憲法の序文を久しぶりに読んだが、平易だが真意をつかむため静かに深く考えたい。
該当部分の英文を載せておく。

We、 the Japanese people、 desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship、 and we have determined to preserve our security and existence、 trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace、 and the banishment of tyranny and slavery、 oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace、 free from fear and want.
We believe that no nation is responsible to itself alone、 but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
We、 the Japanese people、 pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.
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