遅れ先立ち 花は残らじ

人生50年を過ぎましたので
そろそろ始末を考えないといけません
浅く深く考えたことなどを綴っていきます

生さぬ仲

2014年01月26日 | 日記
DNA鑑定によって実の親子か否かが、それも簡単に分るものらしい。料金は安価とは言えないにしても、個人では負担できないというものでもなさそうである。考古学といった学問かあるいは犯罪捜査に限られた話かと思っていたら、いつの間にか身近なものになっていたことに驚かされた。

実際にこれで血縁関係の真偽を確かめなければならないというのは、それぞれに深刻で差し迫った理由があるだろうから立ち入るつもりはないし、もとより第三者があれこれ穿鑿するものでもない。切迫した理由以外にも、ある程度の年齢になってくると自分のルーツを確かめたくなる気持ちになるものらしく、これは何となく理解できる。
ただ、不測の結果が大きく報道されたりするのに接すると、ややもすると暗い気持ちに襲われることがある。その理由は自分では分っていて、鑑定しなければならない事情はそれぞれなのだろうが、自分の人生を自分のものとして受け入れることができない辛さを感じさせられるためである。自分の人生は自分で切り拓く、私のことは私が決めていく、それがたとえ運命であってもと別の言い方ができるのかもしれないが、それならそれで、かえってどこかに不幸を生むことにはならないかと気にかかるし、運命を受け入れられないとなれば、高じれば傲岸に傾くおそれもある。
そうは言っても必要としている人がいるんだろうなあと思いつつ、同時に「生さぬ仲」という言葉もあるよなあとも思うのである。
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昔は良かったか

2014年01月24日 | 日記
「「昔はよかった」と言うけれど」(新評論刊)を読んでみた。
丹念な調査によって、明治維新以降戦前までの日本人の自分勝手傍若無人が綴られ、昔の高いモラルが現代は廃れてきたとする考えの過ちであることが記される。もっともいつの時代どの集団にも不心得者は絶えないので、このことは別段驚くに当たらない。いたずらに過去を美化する愚は避けなければならないことには得心したが、戦前の日本人のマナーの悪さ、公徳心のなさを延々と見せ付けられたのには、食傷気味というか辟易させられた感は否めない。

マナーの悪さは無知に由来するのが多いだろうし、明治以降新しい道具を次々と手に入れたものの、その道具の使い方までは覚えなかったという事情もあろう。
面白いと思うのは、無分別無軌道な行為に対する批判が同時代において常にあったということである。そうでなければ批判の対象として記録に残ることはなかっただろう。全ての人が自然なこととして振る舞い、誰も批判することすら思い浮かばないのなら、当の行為が指弾されることはない。

そうなると批判はどこから生まれるのだろうかという問が生まれる。どの時代も流行に敏感な人がいるように、新しいマナーを獲得するのが得意で速やかな人もいただろう。しかし源泉がこれだけなら、批判の基準は常に外から持ってこなければいけなくなる。外からとは、マナーを輸入することだけではない。制度を改めることもそうである。また、衛生に関する知識もこれが向上することによって健康の面から批判ができるようになるというようなこともあるだろう。

実は関心の中心は、外から借りずして内から批判の基準を得ることはできないかということにある。
結論は可と信じたい。人は何かの基準に照らさなくても、自分の行いを第三者がどのように感じるかを推し量ることが出来ると思うからである。相手が不快に感じると思えばこれを取りやめたり是正したりすることができるだろう。不快に思うかどうかに判断が分かれることがあるかもしれないが、少なくとも不快と思う人がいるならその理由を慮ることは出来るはずである。
この条件が満たされるなら、結果として無分別に見えたとしても、それだけをもって公徳心の有無を断ずることはできないようにも思われた。そうであるなら肝心なことは、相手方の不快を推し量ることができるか、それによって自らの行動を選択できるかであるように思う。道徳について考えるのは難しいが、中核に惻隠の情があるのは確かなことだと思う。
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翻訳

2014年01月21日 | 日記
ミステリファンの某氏によれば、訳によって(翻訳出版社によって)名探偵エラリー・クイーンのイメージが随分違うらしい。これがアガサ・クリスティの作だとあんまり違和感はないとのことである。訳本は余り読まないし、原書に立ち向う勇気もないので論じることはできないが、そのようなことは確かにあるだろうなあと考えさせられた。
生業になっているぐらいだから翻訳技術の巧拙によるのではあるまい。訳者の受けとめが先ずあり、これを読者にいかに伝えるかは訳者の技量であり同時に個性である。勿論そこに出版社の意向が入ってくることもあるだろう。このように翻訳は、AをBに一対一で置き換えるようなものでは到底ないし、新たに創造し直すような過程を経て出来上がるのであるから、某氏の嘆きも頷ける。

そのように納得したものの、それでは原作のイメージそのままを私たちはどうやって知り得るのだろうかと考えた。訳本を読んだ。興味を抱いて原作に挑戦した。そうして原作と訳本とを比較することが可能だろうか。その前に、原作を読んで抱くイメージは作者の意図通りなのだろうか。その確信が持てるだろうか。母国語でないと相当困難なように思う。バイリンガルあるいはマルチリンガルと呼ばれる人なら可能なのかもしれないが、よく分らない。分らないというのは、もし可能であるなら各言語が母国語でなければならないはずだが、母国語はそれを母国語とする人の認識に影響を及ぼすことに鑑みれば、複数の母国語を持つということが実際に出来るのか否かも分らないという意味である。

翻訳作業が先に述べたとおりなら、訳を通じて何かを理解することには必ず限界があることになる。多分そうなのであって、だから翻訳は難しいのだろう。もっとも悲観するには当たらない。日本語で本を読んだり会話しているときでも同じような限界はあるだろうが、普段気にすることはない。多分、疑問を抱かないのが幸せで、抱かせないようにできているのである。
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火事場の馬鹿力

2014年01月16日 | 日記
火事場の馬鹿力はつとに知られた諺だが、その実際を目にした人も少なくないようである。腰の曲がったお年寄りが石臼とか箪笥を担ぎ出したといったことを身近に聞いた記憶もある。そんなことから字義通りの話題に展開したり、人の持つ潜在能力などに及んだりするのも自然なことと思われる。

物理的な力ではないが切羽詰れば出てくる智恵もある。裏から言えば切羽詰らなければ良い智恵もなかなか出ないものらしい。力は火炎に迫られて出てきたことになるが、智恵を搾り出した切羽詰っているとは一体何に何に迫られているのだろうか。
自分自身の問題に限るのなら、生活の糧、生命や身体あるいは財産に対する危害からの回避、さらには名誉の毀損や失墜へのおそれなどだろうか。火事から始めたので否定的なことが並んだが、就学、就職、求婚など人生の岐路に立ち幸せを求めて重大な決断を迫られることも無論ある。
一方、自分のことではない場合も少なくない。家族、親兄弟については当然といえば当然だが、誰か第三者のために切羽詰って智恵を絞らなければならない場面もある。家族は当然などと書いてはみたが、家族のための切実さは一様ではない。切羽詰りの詰まり具合は様々である。これが親族の手前といった見栄の張り具合の決断を迫られるときには猶更であろう。さてこの違いはどこから来るのだろうか。自分との距離感だけでは説明しきれない。そうなると一般には遠い存在である第三者。放って置いても差し支えないかもしれない他人のために切羽詰るのはどのようなときか、その条件を考えればよい。

この点、相互理解が一つのヒントになると思われる。
AがBに何かを依頼する。まったくの赤の他人でも良いけど話が進みにくいので、Bは何かサービスを提供する立場にあるとして、Aの依頼の内容が一般的なものであれば、Bは通常に対応するだろう。依頼が困難であったり通常行っていないものなら、Bは応諾するか拒否するかの選択を迫られる。通常拒否するような内容を応諾まで引き上げるとするなら、そこには何らかの理由があるはずである。商売なら高い報酬か。しかし打算以外に何か理由があるとするなら、その底には相互理解がなければならない。規則があって応諾できないものかもしれない。あるいはそもそも対応困難なリクエストかもしれない。それでも何とか解決策を見出そうと真剣に考えるには、BはAの切実さを等しく理解していなければならないという意味である。別の言い方をすれば、Bが切羽詰っているのはAの幸いが同時にBの幸いであるためである。あるいはAの哀しみが同時にBの哀しみであり、そうしてBはお互いの哀しみをできるだけ軽減しようとして智恵を絞るのである。

このためにはAの依頼の原因もまた切迫したものでなければならない。そうしてようやく良い智恵が生まれる。確かに平時、例外や極端な事例への対応を想定するのは容易でない。
回り道をしたが、関係者が等しく切実で真剣でなければ良い解決には達しないだろうという当たり前に行き着いたことになる。
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天神様

2014年01月07日 | 日記
今年の初詣は湯島天神となった。
多くの受験生やその御家族で賑わっていたのは例年報道されるそのままで、都内にあってそれほど広くはないのだろうけれど、本殿をぐるりと取り囲む境内は参拝者は多いもののゆったりとお参りすることができた。
絵馬には希望する学校名などが書き連ねられ文字通り鈴なりに膨れ上がり、本殿で1年の無事を祈祷してもらったが、祝詞が合格祈願に移ると20名近くの名前が読み上げられたところをみると、松の内だけでも優に数千人の合格祈願者が祈祷を受けているはずである。神社も繁盛で大いに結構なことである。
合格祈願の絵馬の記載例というのが掲げてあって、試験日が分っているのであれば記入するように書いてある。分らなければ吉日とせよと親切である。学問の神様を祀っているのだから当然といえば当然だが現世利益を希求するに極まった感じがする。それだけ本人も御家族も切実ということであろうか。

数え切れない切実さを見せ付けられては天神様もさぞかし大変だろうと思ったけれど、これと同時に神様に現世利益を願わないというようなことがあるのだろうかと考えさせられた。利益と書いたが実利というのではない。いずれにしても神頼みには目の前の幸せを望む気持ちがあるのだろうから、それを叶えてくれる神様こそが大切であって、叶えてくれない神様はいらない。そうなるとこれこれの願いを叶えてくれる神様というものを、お参りする方で個々に想定して作り上げ、その上でその神様に祈りを捧げていると見立てることができるのではないだろうかと考えた。そうであればどんなに沢山の参拝者からどんなに沢山の願いを聞かせられても、天神様は一向に困らない。願いを叶えてくれる神様は祈るその人に宿っているはずだからである。とは言っても神社に実際に足を運ばなければ、当の神様に出会うことはできないだろう。

願いを叶えてくれる神様であるが実現しないことは当然ある。しかしそれは神様のせいではない。祈りが足りない、受験で言えばこちら側の努力が足りないためであると納得するしかないのである。何となればそこにいるのは願いを叶えてくれる神様なのだから。この点でもどんなに沢山の願いがあっても神様は困らない。
こんな風に成就すれば神様のおかげで成就しないのは祈るこちら側の責任と考えるのが最も健全だなあと、鈴なりの絵馬を見ながら思ったのである。
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