遅れ先立ち 花は残らじ

人生50年を過ぎましたので
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ハラスメント

2017年06月25日 | 閑話
受売りでなく芸術を楽しむには相応の努力が必要となる。観る方の感受性の及ぶ範囲でしか理解することが出来ないためである。同時に、作品は自らの価値を一方的に決め、観る者の理解を拒否することだってある。しかし誰にも理解されない芸術は芸術として成り立ちえない。この意味から、芸術は鑑賞する者によって、存在している。味わいたいという気持ちを起こさせることが、芸術の必要な条件となる。同時に、作品が一方的に価値を決めるとしたが、その価値を認めるのは常にそれを観る側にあるのだから、芸術は徹底的に謙虚でなければならないことになる。

この事情は、相手が人であっても同じである。
人に対するある一定の行為は、その人の真意を慮りながら行われるのが普通である。誰かに何かを行うとき、こちらの行為が相手方にどのように受け止められるかを想像する。相手の身になって考えるということだが、それは一旦は相手の心に触れる、場合によっては心を置き換えると言えるほどに徹しなければならない。つまり、こちらとしては相手の心を知り、かつ持っていなければならない。そのためには、相手の言動から、その言動の奥底にある心を常に推し量らなければならない。別の見方から言えば、ある人の価値は無論その人自身が持っていようが、それを理解する者がいなければ価値として存立しえないということになる。
これは、相手方であっても同様で、「自分のとったこの言動からおそらく私をこのような人だと考えるだろう」との推測を働かせながら応接している。ただ、芸術と異なる点は、相手によっては嘘を言う場合だってあるし、見栄を張るようなこともある。いわゆる外面(そとづら)を使い分けるということだが、使い分ける方も納得ずくである。

通常はこのとおりだが、ある行為が何に当たるかを当の行為者とは別の人が決められるということは、悪意の人を前にすれば私たちは無防備と言わざるを得ない。
仮にだが、外面に応接していたところで、「それは私ではない」と否定されたらどうなるか。これは悲劇である。もしこんなことが起こるなら、こちら側の態度が真摯でないとすれば、外面には責任がないということを意味する。外面を使い分けるのは本来、納得ずくであるはずのもの、その外面だって自分の一面であることを承知しているはずのものが、言動と本来の自分とは別個のもの、乖離しても良いという考え方がどこかに含まれる。
「それは本来の私ではない。本来の私は別のところにいる」。あるいは「自分探し」などという言葉もある。けれどどのような外面であっても、さらにそれが本意でなかったとしても、やっぱり自分自身の一部であると引き受けなければならないのではないか。今を離れて私がいる訳ではないのだし、全てをひっくるめた私であり、その私に対して他人があり、そうして交歓という人生の喜びも生まれるというものである。
本来の自分はどこか別にところにあるということは、私を自らが問わなくても良い、少なくとも問うことを諦めてしまったということであり、人生はその人から遠ざかる。

芸術と人との違いは、前者は徹底して謙虚でなければならないが、後者は自らの価値を自らが決め、かつこれを他者に主張する点にあるかもしれない。それが極端になった場合の悲劇は上に述べた。

嫌がらせは良くないなどと改めて言うのも愚かであるが、近年ハラスメントと名を変え、更にセクシャル、パワー、アルコール、モラルなどと冠を入れ替えて新しい嫌がらせが増えている。良くないことが増えているのか、今まで知られていなかったのが分かるようになったのか、後者に重きがあると信じたいが、名を変えたハラスメントが今後も出てくるかと思うと憂鬱な気持ちが拭えない。

一つしっくりこないことは、ある特定の行為がハラスメントに当たるか否かは被害者が決めるということである。だから、同じ行為がある人にハラスメントとなっても、他の人には当たらないということが起こる。となれば、ハラスメントという言葉自体が独り立ちしていない、確かな定義をもっていないような感じがする。曖昧な言葉であれば、どこで、誰が、どのように使っても間違いにはならない。要は使いやすいから、何か嫌だなと思ったときには「ハラスメント」と呼べば良いことになる。もちろん被害の受け止めは正に人様々で、当事者でなければ分からないことも多いだろうから理解出来るのだが、ここでは加害者の側の認識を拒絶するようなところがあって、そこに一抹の違和感も感じるのだと思う。

価値は自らが決めるにしても、その存在は理解する者に委ねられているという構図を考えてて、ハラスメントに及んだが、嫌がらせを無くすための方策として、この言葉を用いるのは上手い手段ではないのかもしれない。曖昧な言葉に託したがために、かえってハラスメントを助長するおそれがないか。芸術がそうであるように、謙虚さと思いやりを徹底すべきところで、少なくともこの外来語からはあまり良い知恵が生まれないような気がする。
ここまで来て、単にハラスメントという言葉自体が余り好きではないのだと気が付いた。

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