徳丸無明のブログ

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日本人はそれほど優秀な民族なのか・後編

2018-10-13 23:09:31 | 雑文
(前編からの続き)

それから「日本人は真面目で勤勉実直」という主張。確かに諸外国と比べて、勤務時間が長かったり、残業を厭わない人が多かったり、有給休暇の取得率が低かったりなど、日本人が勤勉であることを示すデータはいくらでもある。しかし、その勤勉さというのは、みなが自ら望んだ勤勉さなのだろうか。
日本がとりわけ同調圧力の高い社会であることはよく知られている。国民国家の成立以前、共同体の単位が「ムラ」であったころから、その成員には協調と協働が求められていた。今では、ムラ単位で働いていた同調圧力は、国家単位の規模に拡大し、国民がお互いを「出る杭あらばすかさず打つ」眼差しで監視し合っている。
その相互監視の網の目の中では、ほんのわずかな悪目立ちも許されない。SNS上にちょっとしたおふざけ動画を挙げただけでも、女優が恋人との仲睦まじい写真を公開しただけでも非難の対象となってしまう。しかもその非難は、冷静で理論的な言葉によるそれではなく、感情的で支離滅裂な、ただひたすら誰かを引きずり下ろしたいという陰湿な願望に基づくものでしかない。ついでに言えば、他の日本人の美点の多くも、この「極端な同調圧力の高さ」の産物として説明可能だ(礼儀正しい・マナーがいい・謙虚・ルールを守る等)。
そんな極端なレベルで「みんな同じ」であることが求められる社会の中で、人々が勤勉であるということは一体何を意味するのか。それは、「否が応にも勤勉でなければならない社会」ということなのではないだろうか。もちろん純粋に仕事が好きで、とにかく働くことが生き甲斐という人も大勢いるし、現実的にはそちらのほうが多数派なのかもしれない。けれども、そこまで仕事は好きではないとか、とにかく働くのが苦痛でしょうがないといった人だって一定数いるはずである。
そんな人達に否と言うのを許さないのが、同調圧力によって下支えされた日本社会の暗黙のルールなのである。これが健全な社会と言えるだろうか。

「勤労の美徳」というヤツは、とにかく肯定的に讃えられがちだ。小生も、その美徳自体を否定するつもりはない。汗水垂らしてコツコツ働く人の姿は美しい。でも、なんでそればっかりなんだろう、と思う。「勤労の美徳」だけでなく、「怠ける美学」だってあっていいじゃないか、と思うのだ。
でも、日本社会ではそんな考えは許されない。勤労が美徳である以上、怠惰は排斥されねばならないのだ。
小生は「働かざるもの食うべからず」という言葉がとにかく大嫌いで、この世からなくなればいいと考えているのだが(この言葉に傷つけられている身体障害者や生活保護受給者は少なくないはずだ)、作家の曾野綾子に似たようなタイトルの著作があって、この種の主義主張の持ち主に一定の支持者がいるという現状を鑑みると、日本人の労働観の極端な硬直性に頭を抱えずにはいられない。
経済学者の井上智洋は、人工知能(AI)の社会への浸透によって、近い将来人々の雇用が大幅に失われはするものの、ベーシックインカムを導入すれば、現行の社会保障制度よりも簡便で平等性が高く、かつ仕事がなくても生きていける社会が実現できると説いた著作の中で次のように述べている。


「有用性」というのは、20世紀前半のフランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユが提示した概念で、要するに「役に立つこと」を意味します。バタイユは有用性を批判するような思想を展開しました。
資本主義に覆われたこの世界に生きる人々は、有用性にとりつかれ、役に立つことばかりを重宝し過ぎる傾向にあります。将来に備えて資格のための勉強をすることは言うまでもなく有用です。
ところが、その勉強は未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えます。現在という時が未来に「隷従」させられているのです。有用な営みに覆われた人生は奴隷的だとバタイユは考えました。
役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失うので、その価値は独立的ではありません。会計士の資格は会計ソフトの普及で、運転免許はセルフドライビングカーの普及で、英会話能力は自動通訳機の普及で、有用ではなくなり価値を失うかもしれません。
バタイユは「有用性」に「至高性」を対置させました。「至高性」は、役に立つと否とに関わらず価値のあるものごとを意味します。「至高の瞬間」とは未来に隷属することない、それ自体が満ち足りた気持ちを抱かせるような瞬間です。
至高の瞬間は、労働者が一日の仕事の後に飲む一杯のワインによって与えられることもあれば、「春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝き」によってもたらされることもあります。
(中略)
さらに私たち近代人は、人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなり、人間はすべからく社会の役に立つべきだなどという偏狭な考えにとりつかれているように思われます。
現代社会で失業は、人々に対し収入が途絶えるという以上の打撃を与えます。つまり人としての尊厳を奪うわけですが、それは私たちが自らについてその有用性にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。みずからを社会に役に立つ道具として従属せしめているのです。
(井上智洋『人工知能と経済の未来――2030年雇用大崩壊』文春新書)


小生は有用性を全否定するつもりはない。有用性の追求・経済成長の追求によって、現代の日本では飢える者の少ない食糧事情や、高度な医療水準、利便性の高いインフラなどを獲得し、比較的裕福な社会を実現できているからだ。
有用性それ自体が問題なのではない。有用性しか追求できなくなる硬直性が問題なのである。
「障害者は苦しみしか生み出さないから生きる価値がない」として、福祉施設に入所していた障害者数十人を殺傷した者がいた。「LGBTの人達は子供を産まないから生産性がない」と論じた国会議員もいる。
いずれも、人間の価値を「金銭」という尺度のみでしか測っていないことは明白である。彼等は、それぞれ違う形で「人間の存在価値はいくら金を稼いでいるかだ」と宣言しているのだ。人間の価値は、金銭収入にのみあるわけではない。価値判断基準が金銭しかない思想は、あまりに貧しい。
彼等はいずれも、「有用性の罠」に深く嵌まり込んでしまった人達である。資本主義の要請に忠実になり、その理念を深く内面化してしまったがために、自分が近視眼的な偏見に捕らわれていることに気付けないのだ。
しかしながら、我々は安易に彼等を愚劣と嗤うことはできない。資本主義社会に生きる我々は、みな少なからず「有用性の罠」に捕らわれているからだ。彼等と我々との違いは、その嵌まり込み具合が「浅いか深いか」という濃淡にしかない。
我々は少なからずあらゆる物事を有用性で測定する習慣を身に付けてしまっている。だから、ニートのような無職者を、ただ働いていないというだけの理由で憎んでしまう。勤勉であるということ、労働を無条件で賛美するということは、浅からず「有用性の罠」に落ち込んでしまっているということであり、まかり間違えればさらに罠に深く埋没し、「金を稼いでいない人間は生きる価値がない」と考えるようになってしまう。過労死のような悲劇を黙認することにも繋がるだろう(と言うより、労働を無条件に肯定することは、過労死を半ば容認することと同じなのである。我々は過労死のニュースに同情の声を上げながらも、その実それをやむを得ないこととして受け入れているのだ)。
これまで人間が行ってきた労働を人工知能が代行するようになり、人間が仕事をする余地が(ほぼ)なくなれば、有用性などという価値判断基準は消滅する。有用性とは、資本主義経済が隆盛を極めたひとつの時代においてのみ信奉された徒花に過ぎない。そんな砂上の楼閣のような価値観を賛美し続けるのは、本当に正しいのか。
日本人は、もっと労働以外での存在意義を見い出すべきだ。それは何も、働いていない人を無価値だと攻撃するのがよくないことだから、という道徳的な理由だけではない。自分自身のアイデンティティが、労働のみによって構築されているような仕事人間が、働かなくてもいい状態、働きたくても人間が働く余地のない状態に置かれてしまうと、自分がまるで価値のないからっぽの存在になり下がったように感じてしまうだろう。下手すればそれだけでなく、これまでの人生がまるきり無意味であったかのような感覚に陥ってしまうおそれもある(失業による自殺者の死因の多くはこのようなものではないかと思う)。だから、今現在勤労が美徳であると考えている人達の精神衛生のためにも、「至高性」の見直しは必須なのだ。
 
聞くところによると日本人の遺伝子というのは、世界で最も多種多様であるという。雑多な遺伝子が保持されているということ。このことが意味するのは何か。
それは、ユーラシア大陸や、北方や、南の島々など、様々な場所から移り住んできた日本列島の先住民たちが、互いを殲滅させることなく、共存共栄を図ってきた、ということである。もちろん一切の争いがなかった、ということではない。先に列島に来ていた民族と、後から来た民族の対立はいくらでもあっただろうし、そのなかで不幸にして絶滅への道を辿った民族もいくつかはあったはずである。しかしそれでも、棲み分けなどの工夫によって、列島の住人たちは極力共存する道を選んできた。
また、上に述べたように、日本列島の環境条件・地理的条件(植生が豊かで作物がよく育つ、魚介が多く獲れる等)がたまたま共存共栄を可能にしてきた、という一面もあるだろう。しかし、人間というのは、必要に迫られて争いを起こすのみならず、争いのための争い、純粋に攻撃性を発露させるための争いを起こすような、倒錯した生き物でもある。争いごとを抑えるためには、それなりの努力が欠かせない。日本列島の先住民たちは、少なからずその努力を重ねてきたはずである。
その懸命の模索によって、多様な遺伝子の保持という、今日に至る民族史上の成果があるのだ。それこそが、真に誇るべき日本の美点ではないだろうか。
ヘイトスピーカーや歴史修正主義者は、中国人や韓国人などの外国人を見下し、その文化を野蛮と愚弄し、日本からの排除を主張している。排除によって日本列島が日本人だけになれば「血の純潔」が保たれ、あるべき日本国が、理想国家が出現すると、誇り高き日本国の姿が実現するのだと思い込んでいる。
だが、そんなのは日本を誇ることでも何でもない。それは、共存共栄の努力を営々と積み重ねてきた列島の先人達の成果に、唾を吐きかける行為でしかない。「今そうやって排除の言説を撒き散らしているあなたが、日本に生まれ、日本の国籍を有し、日本人としての権利を行使することができるのは、列島の先人たちが共存共栄の道を選択してきたからだ。あなたはその事実をどう考えているのか」、小生は、そう問いたい。

自分達の美点を確認し、それを誇るのは、悪いことではない。それが人の精神的支えとなるのなら、必要不可欠であるだろう。
でも、みんなそんなに胸を張りたいのかな、と思う。反り返った姿勢で、他人(外国人)を見下している人も大勢いるけど、そんな醜悪な振る舞いでしか精神衛生を保つことができないのだろうか。人から褒めてもらうならともかく、自画自賛というのはなかなかみっともないものだ。手前味噌を飽くことなく繰り返す日本人が、外国人の目にどう映るか、という客観的な視点も持っておいたほうがいいのではないかと思うが。
胸を張る姿勢は、ともすれば他人を見下す眼差しに転化する。プライドというものの危うさ、傲慢さに、もっと敏感であるべきだ。
「たいしたモンじゃございやせん。あっしにゃ自慢できることなどなにひとつありゃしませんよ」。そう呟いて韜晦することはできないのだろうか。要するに、もっと大人になれよ、と言いたいのだ。
人間は誇りがないと生きていけない、なんて嘘だよ。プライドを投げ捨てた、肩肘はらない身軽な生き方だって充分可能だ。
自らは何も誇らず、ひたすらこうべを垂れて低姿勢。誰かに褒められた時は軽くはにかんで受け流す。内輪褒めで悦に浸り続けるよりも、そのほうがずっと見てくれのいい、「大人の国」なのではないだろうか。


オススメ関連本・大澤真幸『可能なる革命』太田出版


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