浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「神のいのちの表れ」(5)

2017年09月10日 07時31分33秒 | 「神のいのちーシリーズ」

「寛容な心」

イエス・キリストとはどのような方でしょうか。
人によっていろいろな見方があるかもしれませんが、ここでは、聖書が教えているイエスとはどういう方かを見ています。
イエスの33年の人生を通して表された神のいのち、それは聖書の言葉で言えば、御霊の実として表されています。
それは御霊の9つの実でした。
そのひとつひとつをイエスの歩まれた、その地上人生に見ることができます。

前回まで、愛、喜び、平安までの3つを見てきました。
今日は、寛容です。
辞書によれば、寛容とは、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とあります。
しかし、今の時代、この寛容な心はあまり評価されない傾向があります。
なぜでしょうか。
間違いを間違いとせず、そのままになってしまい、何が本当なのかがハッキリしなくなると、わたしたちは我慢できません。
もちろん、それは大切な場合もありますが、これもアダムが善悪を知る木から取って食べた結果と言えます。
聖書の言葉ではありませんが、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
素晴らしい言葉ですが、いくらそのように教えられても、実践できるとは限りません。
寛容な心がなければ難しいことです。

聖書を見ると、イエスは寛容な心をもっておられたことが分かります。
当時の社会では、一般的に嫌われていた罪びと呼ばれていた人たち、ローマ政府に雇われて税の取り立てをしていた取税人と言われる人たち、イエスはそのような人たちと食事を共にし、その寛容な心を示されました。
当時も、今も同じだと思いますが、食事を一緒にすると言うのは、親しい仲を示すものです。

「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(マルコ2:16口語訳)

当時の宗教家たちは、そのイエスの寛容な心、御霊の実が見えず、批判しました。
社会的に見下されている取税人や罪人と言われる人たちと接触し、親しくする人は、その人も同じように見られると思って、律法学者たちはその人たちに近づこうとしませんでした。
しかし、イエスがその人たちと一緒に食事をして、親しい交わりをもっていたのは、その寛容な心からだと言えます。
取税人のかしらザアカイが今までの生き方を悔い改め、変えられたのは、イエスの寛容な心に接したからでした。

イエスのたとえ話の中で、「放蕩息子」のお話がありますが、放蕩の限りを尽くして家に帰ってきた弟息子を大手を広げて迎え入れた、その父親の姿は、寛容な心をもっておられる父なる神を表しています。
一方で、兄息子は、とてもとてもそのような寛容な心をもてませんでした。
ですから、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。
寛容な心、それは父なる神のいのちの表れと言えます。
このような心がほしいと思いませんか。

コメント
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