浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「神のいのち」(29)

2017年08月10日 07時24分18秒 | 「神のいのちーシリーズ」


「復習」

今の時代は、情報と知識が重視される時代です。
何かの知識や情報が得られることによって人は幸せになるという価値観があります。
また、一方で、規則や決まりごとによって問題を解決しようとしている傾向があります。
しかし、現実はどうでしょうか。
また、今日、人々はどこに元気やいのちあふれるものを求めているでしょうか。
音楽やスポーツもそうですね。

わたしたちクリスチャンも、一方で、聖書の知識を得て、それで満足するという場合もあります。
旧約聖書の創世記の始まりと、新約聖書のヨハネ福音書の始まりに共通したものがあることを見てきました。
ここで学びたいことは、命のことです。

このテーマのお話の流れは、マリヤが聖霊によって身ごもったということから始まったのですが、わたしたちキリストを信じる者も聖霊によって新しく生まれました。
生まれたというのは、今までもっていなかった新しいいのちによって生きることが出来る者とされたということでした。
その新しいいのちに生きようとする時、それを邪魔するものがありました。
その邪魔するもの、すなわち「古い人」「アダムの命」に生きる人は、いつのまにか自分に与えられているキリストにある新しいいのちのことが見えなくなってしまいます。
頭の知識としては、新しく生まれたこと、新生したことは知っていても、依然として「古い人」が努力し頑張って、クリスチャンとして成長しなければということになっていきます。
その「古い人」の問題をどう解決するかについて、これまで何度も語ってきましたので、お分かりですね。
忘れた方は前のところを読み直してください。
忘れることを繰り返しながら、また分かっていくこともあります。
「古い人」の問題を十字架で解決できることは大きな勝利です。
しかし、この「古い人」は主イエスと共に十字架で死んで、解決しているからと言って、現実の問題としてはそれで終わっているわけではありません。
キリストを信じる人にとって、正直なところ、それは絶えず繰り返されてくる問題でもあることを認めざるを得ません。
しかし、十字架の死ですべてが終わりではありません。
さらに、そこから復活の新しい命に生きることが新たなチャレンジとなります。
新しいいのちですから、今までもっていなかったいのちです。
そのいのちのことを、今、話題にしています。

そして、創世記2章に出てくる「命の木」のことを見てきました。
「善悪を知る木」とはどういうものであるかは、アダムとエバがそれから取って食べたことによって、その結果を見ることで、分かってきました。
ところが、「命の木」については、アダムとエバは食べていませんので、それがどういうものであるかについて分かりません。
聖書にも「命の木」について、あまり詳しく語られていません。
けれども、わたしたちは新約の光を通して、旧約聖書が開かれてくることを学んでいます。
ということから、いのちについて多く語られているヨハネ福音書に目を向けることになりました。
これまでの流れの復習でした。