もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

モト冬樹氏の野鳥飼育に思う

2018年03月14日 | 社会・政治問題

 モト冬樹氏が保護・養育(?)している雀(ピーちゃん)が波紋を呼んでいる。

 いきさつは、カラスに襲われている幼鳥を奥さんが保護し、以後8か月間養育していることに対し東京都が放鳥を命じる文書を送ったことである。確かに野鳥の飼育を禁じた鳥獣保護法には違反しているが、映像から窺える限り雀は手乗り文鳥のように放し飼いにされているらしく、氏は言うに及ばず愛犬にまで懐いており、ケージに閉じ込めて囀りのみ楽しむ一般的な野鳥飼育と同一視できないように思われる。野鳥の飼育が法令違反であることを知らなかったかとも思われる冬樹氏は、東京都の命令の趣旨については理解を示すものの、雀が幼鳥期から人間に飼われていることから野生で生きていくための採餌や護身の術を知らないことに危惧を感じている。動物愛護の優しさから出た保護行為が返って保護法に違反するという皮肉な結果になっているが、世の中には「捨て猫を拾う人」「親からはぐれたた猪や狸を保護している人」などの例が度々報じられている。野生の生き物は自然環境で生きていくべきで、過度に人が関わるべきでないとの法令は理解できるが、冬樹氏と同居しているピーちゃんは、人工の環境と人間の保護なしでは最早生存できない可能性が大きいと思う。人間に飼育され生き長らえるのと、自然に返されておそらく淘汰されるであろうのと、どちらが鳥獣保護の精神に沿うのだろうかと考えさせられる出来事である。

 「飼育」という言葉からは、食用にするとか声を愛でるとか鳥獣の本能に対して何らかの抑圧・強制を加える行為が連想される。今回の事案に対しては、飼育ではなく「同居である」とか「飛来した野鳥に餌を与えている」とかの大岡裁きは期待できないものだろうか。些か法の普遍性には悖るが、冬樹氏の優しさに免じての大岡裁きの方が、法の精神を生かすものと思うのだが。