名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロシアの良心 アンナ・ポリトコフスカヤ

2015-06-18 23:39:51 | 人物

チェチェンの真実を、書く
それが私たちの責任
"ロシアの良心"が暗殺に斃れるまで






Anna Stepanova Politkovskaya
1958~2006


「いろいろな人々が編集部に電話をかけてきたり手紙を寄こして何度も同じ質問をする。

『どうしてこんなことばかり書いているんです?
どうして私たちを怖がらせるの?
私たちに何の関係があるの?』と。

私は書かなければならないと確信している。
理由はただ一つ、私たちが生きている今、
この戦争が行われている。

そして結局私たちがその責任を負うのだから。

その時にこれまでのようなソ連式の答えで逃れることはできない。
そこにいなかったから、メンバーじゃなかったから、参加していなかったから、などと。
知っておかなければならない。
真実を知ればみんな、居直りとは無縁になれる」


「楽観的な予測を喜ぶ力のある人は、そうすればいい。そのほうが楽だから。
でもそれは、自分の孫への死刑宣告になる」

参考文献:『チェチェン やめられない戦争』




アンナ・ステパノヴァ・ポリトコフスカヤ。
ニューヨーク生まれ、モスクワ育ち。
モスクワ大学卒業後はジャーナリストとして各紙で活躍。
『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙上で、当時ロシア国内で大きな問題となっていたチェチェン独立戦争についてをレポート。苛烈な戦線に向かい、現地の難民キャンプや病院のレポート、独立派幹部へのインタビューなどを通して、チェチェンの惨状とともにロシア社会の歪みも訴えた。





1. チェチェン独立戦争の経過


首都グロズヌイ







18世紀 ロシア帝国、カフカスへの南下
1859 コーカサス戦争によりロシアに併合
・ソ連成立後 チェチェン・イングーシ自治共和国(ソ連の一部)
1944 スターリンによる強制移住
1957 フルシチョフによる帰還許可、共和国再建
1992 チェチェン・イチケリア共和国建国宣言
1944 エリツィンによるロシア連邦軍派遣=第一次チェチェン紛争
1995 連邦軍グロズヌイ制圧およびチェチェン大統領ドゥダエフ殺害
1997 ハサヴユルト協定=5年間停戦
1999 独立派バサーエフが協定を破り、隣国ダゲスタン共和国へ侵攻=第二次チェチェン戦争、モスクワアパート連続爆破事件、プーチンによる連邦軍派兵
2000年 連邦軍グロズヌイ制圧、親ロシア派大統領擁立







この後は独立派によるゲリラ活動、テロ活動、及びロシアによる報復が続く。
2002年からほぼ毎年、独立派による大きなテロ事件が勃発。しかし2009年、ロシア政府は、独立派指導者たちの殺害完遂とともにテロ活動が沈静化したとし、紛争終結宣言。
これまでにチェチェン側は総計20万人の犠牲(人口の1/4)を出した。
一方、テロ活動はまだ続く。
列車爆破、地下鉄、空港などを狙った事件や、記憶に新しいところではボストンマラソン爆弾テロ事件がある。

ポリトコフスカヤは存命中に、チェチェンの人質テロ犯行グループとの交渉に関わったことがある。その事件について、ポリトコフスカヤの著作から2002年モスクワの劇場占拠事件を、そして2004年の最も悲惨な事件、ベスラン学校占拠事件についてを以下に書く。



2.モスクワ劇場占拠事件

2002年10月23日、モスクワの劇場ドブロフカミュージアムが公演中、テロリスト42名に占拠される。
要求は、チェチェンからの連邦軍の即時撤退。だが強硬な政府は全く応じない。
26日朝、特殊部隊が突入。無力化ガスを使用。意識不明、無抵抗の者をも含め、その場で犯行グループ全員射殺。
しかしその無力化ガスにより、人質922名のうち129名が窒息死。想定外の大きな犠牲を出した。

特殊部隊の銃撃による死者はいないと公には発表されている。
しかし、ポリトコフスカヤの著書の中でそれを否定せざるをえないような事実が報告されている。

ヤロスラフ・ファジェーエフ15歳の件。
事件後の母イリーナへのインタビューより。

当日、ヤロスラフと母、叔母、従姉は劇場へ。
特殊部隊突入の後、ヤロスラフ以外の3人はガスによる意識不明で病院へ搬送。ヤロスラフはしばらく行方不明であったが、親類が安置所で遺体を発見、頭に銃弾の貫通穴があった。
穴にはロウを詰めて隠してあった。死亡証明書には死因の記載はなし。
親類の話によれば、銃痕はライフルによるもののようであるが、犯行グループは皆ピストルしか持っていなかった。おそらく突入時の銃撃に巻き込まれてしまったのだろう。突入部隊の流れ弾に。

その時、母は怖がる息子の手をしっかり握り、守っているつもりであったのに、後頭部から貫通した銃痕は、逆に息子が母を守ったことを示していた。
母はガスにより、そのときの記憶はない。
病院で意識が戻ったとき、自分だけが裸で寝かされていたので、看護師に服を返してほしいと頼んだところ、服には血が付着していたため処分したとのことだった。
それは息子の血を浴びたということか。

イリーナは言う。
「息子が私を救ってくれたんだわ。
でも、あの、人質になっていた57時間のあいだ、私の唯一の願いはあの子を守ることだった

突入直前に、息子が母に言った最後の言葉は、
「母さん、ぼくは母さんのこと、いっぱい覚えていたい。もしものときのために…」

拘束されている間、テロリストに1人2人呼び出されて引き離される様子をみて不安に怯える叔母に、ヤロスラフは優しく声をかけていた。
「ヴィーカ叔母さん、怖がらないで。もし何かあったら僕が一緒に行くから。僕のこれまでのこと、許してね、許してね」
息子の見せた成長に母は感動した。

イリーナがヤロスラフに言いそびれたこと、
どれほど息子が素晴らしいか、それを言ってやらなかった。
息子と、もっともっとたくさん話したかったと。
数日後には息子と列車の旅に出る予定でチケットも用意していた。車中でならゆっくりたくさん話もできただろうと考えていた。
しかしそれはもう夢の中でしかかなえられなくなった。



プーチンはこの事件を通し、むしろ名声を高めた。
「われわれは犠牲を惜しまない。
惜しむだろうなどと期待するな。
たとえそれがどれほど大きな犠牲だったとしても」

プーチンは過去、チェチェンに連邦軍を派遣する際にもこう宣言していた。
「独立に向けた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する」「テロは先制制圧する」と。


ロシア社会はこの事件の被害者に対して冷やかだった。
ポリトコフスカヤは鋭い筆致でこう書いた。

「腐りきった社会では、人は己の安らぎ、平和、穏やかさを追求し、そのつけを他人の生命で払おうが何だろうが気にも留めない。ノルドオスト事件(劇場占拠事件のこと)の悲劇から逃れようとし、真実より国家の嘘八百を信じる」




3. ベスラン学校占拠事件






北オセチアはチェチェンの隣国であり、ほとんどがイスラム教徒であるチェチェンと異なり、正教徒が多い。
ベスランは首都近郊の富裕層の居住地であり、事件のあった第一中等学校は名門校であった。

2006年9月1日は始業式で、保護者も学校に集っていた。7歳から18歳の学生および保護者、計1181名が人質となった。犯行グループは31人。犠牲者は386名。その1/3は子供だ。

周囲を固める治安部隊との膠着状態のなか、爆発物の誤爆をきっかけに銃撃戦となった。
混乱の中、逃げる子供たちの背中に発砲、取り残された人質を人間の盾にし、建物の爆発を続け、多大な被害を出した。
なお、犯行グループの仲間のうち女2人男1人が、子供を人質に取ることに反対すると、すぐにその場で粛清された。
また、人質拘束直後に父親ら成人男性は別の場所に集められ、すぐに銃殺して窓から放り出された。





その様子を子供達が語る動画にて推察いただきたい。なお、1 of 6から6 of 6まであるが、4は削除されたかで存在しない⬇︎


Beslan Massacre1より

Beslan school Massacre 1 of 6

被害にあった子供達は復讐を心に抱き続ける。いつかチェチェン人を殺す、と。
では、チェチェンの子供達はどうなのか?
心にどんな思いを持っているのか?



4. 首都グロズヌイ






いうまでもなくチェチェンは戦場である(当時)。もちろん、罪なく犠牲になったベスランの子供達も親たちも悲運であるが、チェチェンでは空爆、銃撃、拷問は常に身近であり、死んでも葬儀は出せず、生きていても家はない。
では彼らがこういう目に遭わなければならないのはなぜか。
なるほど、テロ活動をしている独立派の者たちはチェチェン人だ。悪名高いアルカイダとも繋がっている。それらと同じ「チェチェン人」だからだろうか。
無差別テロを行う者は断じて許されるべきではない。しかし、そもそもの発端として、独立を望んだことが、軍の撤退を要求することが、なぜこれほどの暴力で弾圧されなければならないのか。

無差別テロを起こしてどれほどたくさんの犠牲を出したとしても、プーチンにはまるで効かない。先のとおり、彼の「不屈の精神」は、まわりにいくら血が流れてもびくともしない。そして双方の血はいくらでも流れ続けることになる。

ポリトコフスカヤの言葉では、
「死屍累々の上に立って、幸福なふりをするなど、誉められたことではない。なんと私たちは品性というものを失ってしまったのか、吐き気がするほどだ」


ときに、ロシア人であるポリトコフスカヤはチェチェン人から非難されることもあった。

「あなたがたロシア人は私たちを敵に仕立て上げようとしている。もうこうなってしまった以上、私たちは独立を要求するほか道はないだろう。それはわかってほしい。私たちにも土地が必要なんだ。平和に暮らせる場所がいる。どこでも良いから私たちに生きる場所をくれ。そうすれば私たちはそこへ行くから」

ベスランの子供達同様、チェチェンの子供達も復讐に燃え、お手製のライフルで戦闘ごっこをしている。
大きくなったら戦士に。そして誰に銃を向ける?
ベスランの子供は「チェチェン人に」と。



手作りのライフル
男の子はみなこういう遊びが好きなものだが、この銃口を特定のものに向けようとするとき、それは本当の悲劇になる



もう少し年長の子供達は少し精巧なものを持っている
中央の男の子は顔に痛ましい傷の痕がある



少年兵



この子にどんな覚悟があるのか
劇場占拠事件のテロリストの中にはお腹に爆弾を巻きつけた妊婦もいた
どんな未来をもかなぐり捨てて報復テロを行う
「◯◯◯か、死か」という思考を離れないかぎり報復の応酬は止まらないだろう



ポリトコフスカヤはかつてインタビューでこう言った。

「ロシアの兵士に聞いたの。何故チェチェン人を殺すのかと。
彼らは答える。
〈だってそれは彼らがチェチェン人だからさ。〉
それならチェチェンで起きた事、あれは民族の大虐殺、ホロコーストよ! 」







予告編 仏語字幕





Room 1 字幕なし 約6分






Room 2 英語字幕 約9分



フィンランドで制作された映画、『3 rooms of meranchories』は、紛争で不遇の運命を辿った子供達を追ったドキュメンタリーだ。
戦争で孤児となった、或いは極貧となった子はサンクトペテルブルクのクロンシュタットの兵学校で訓練され、終了後はチェチェンと同じような国内の紛争地やテロ制圧の任務に着かされる。
なんと皮肉なことか。
予告編のなかで子供達が劇場人質事件のビデオを見ているシーンがある。



5. アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺

2006年10月7日。ちなみに10月7日はプーチンの誕生日だ。この日、自宅アパートのエレベーター内で、ポリトコフスカヤは射殺体で発見された。




ポリトコフスカヤは、かつてベスラン学校占拠のとき、交渉に向かう機内で飲み物に毒を混入されて重体になった。
それ以来、彼女は自分の命がいつ奪われるかと案じていた。
プーチン批判の本を国内で発行するのはリスクが高いので、海外から発行した。しかし本来は国内の人々に向けて警鐘を鳴らすための著作である。

彼女はプーチンを批判する一方で、実際に最も危険視していたのは、ロシア国民の無関心だった。

「社会はいつまでも無関心であり、チェキストは盤石の権力を持ち、私たちの不安を知り、それによって私たちはますます家畜のように扱われるというプーチン政策の責任は、私たちにもある。KGB(ソビエト連邦時代の秘密警察組織であり、プーチンは元KGB)はただ強きを尊び、弱きを潰す。全ての人々はこのことを知るべきである」


彼女の遺したこの言、

「楽観的な予測を喜ぶ力のある人は、そうすればいい。そのほうが楽だから。でもそれは、自分の孫への死刑宣告になる」


こうした脅し文句(?)のために大衆から白眼視されつつも警鐘を鳴らし続け、暗殺された。しかし彼女のこの遺言の重さを誰もが知らねばならない。

アンナ・ポリトコフスカヤ。
ロシアの失われた良心、と呼ばれていた。