音大のロビーにて ~Second Season~

自分の好きな音楽や、日々の雑感などを、気ままに書いていきます。ちなみに現役音大生です。現在更新停止中

目は開ける?閉じる?

2005年08月29日 | 雑談の場
唐突ですが、皆さんは音楽を聴く際、目は開けていますか?閉じていますか?僕も今まではこのことを大して意識せずにいたんですが、よく考えてみたら、この選択はかなり重要な気が最近してきました。

目を開けるか閉じるかで最も違ってくるのは、おそらく「楽曲に対して何処に意識を置くか」でしょう。あくまで僕の感覚で捉えたことですが、目を開けている時は、楽曲を鳥瞰的な位置から全体のニュアンスを眺める感じで、目を閉じている時は、楽曲のさらに奥深い所まで意識を沈めていく感じがします。何となく分かりますか?

で、この違いが何で重要なのかというと、どちらの聴き方を選ぶかで、一つの音楽を理解する上での有利・不利が変わってくるからです。

例えば目を開けている時は、楽曲全体が醸し出している雰囲気・ニュアンスや、作り手の込めた感情表現や気分などが、より捉えやすくなるのでしょう。いわゆる「歌もの」や、ジャズ・フュージョン・アンビエントみたいに、あまり意識を集中しなくても楽しめる、周囲の環境に溶け込むような音楽に適していると思われます。要するに、BGM的な聴き方ですね。

と言っても、決して真剣に聴いてないわけではないですからね。そうした方が良さが分かりやすいってことですから。よく、BGMにしてた音楽が周囲の景色にベストマッチしていて、思わず感動なんてことがあるじゃないですか。これはつまり、その景色から受ける印象と、聴いていた音楽から受ける印象を、自分の中で上手く結び付けたってことなんでしょうね。これはこれで、非常に賢い音楽の聴き方だと思います。

それに対し目を閉じている時は、より深く音楽の世界に没頭し、細かいディテールにまでこだわって、楽曲を細分化して聴くのに適しています。コンポの前で真剣に聴く感じです。クラシック・テクノ・エレクトロニカ・プログレッシヴロックなどは、この聴き方がベターでしょう。個人的には、こういうタイプの音楽の方が好きですね。

ただこの聴き方は、うっかりするとそのまま寝てしまうという、重大な欠点があるのですが…。おそらくこれは、聴き手の集中力がとにかく要求される聴き方なんでしょうね。可能な限り深いところまで意識を沈めていって、一つの音も聴き逃すことなく、それぞれの意味を考えながら、作り手の表現を理解するようにしなければならないのでしょう。これを成すには、どれだけ音楽に没頭していられるかが勝負なんでしょうね。その状態を維持するためには、眠気は最大の敵ですから、事前によく睡眠をとっておくぐらいの心掛けは必要ですよね。

まあでも、これはやっぱり難しいです。正直僕も完全には出来ません。この手の音楽でアルバム1枚ずっと集中力を維持できた事なんて、今まで数えるぐらいしかなさそうです。もっと経験を積めば、いつか自分の集中力を完全に操れるようになるんでしょうか。

皆さんも、これからちょっと目の開閉を意識してみてはいかがでしょうか?今までピンと来てなかった音楽でも、この使い分け次第で新しい発見があるかもしれませんよ。






大人になってみて雑感

2005年08月24日 | 雑談の場
実は、私ジーニアスは8月4日に20歳になっておりました。

これでようやく正式に大人の仲間入りというわけですか。普通の人なら「ああ、もう自分も若くないんだなあ」とか言って十代の頃を惜しむものなんでしょうか。僕なんて、自分が十代だったってこと自体すっかり忘れてましたよ…。なまじ音楽なんかに身を投じてるもんだから、普通の人が考えないような余計なことばっかり考えちゃって、どんどん浮世離れしてましたからね。

まあそれも、十代の子供だからこそ許されたことなんでしょうけど。やはり大人になったからには、個人的な世界を開拓していくだけじゃなくて、そうして獲得したものをどのように社会と関わらせていくか、ってことも考えなきゃダメでしょうね。

具体的にどうすればいいかは分かりませんけど、とりあえずもっと社会や世間というものを知らにゃならんでしょう。僕は音楽だけはちょっぴり詳しいですけど、他の事に関しては人並み以下ですからね。こんど都合よく選挙がありますから、これを機にニュースを真剣に見て、政治のことを熱心に勉強しつつ、自分が大人として社会に対して持つ意見というものを作ってみましょうか。

って、なんかこんなこと書いたら、本当にそこら辺にいる平凡な新成人ですね…。いつもあれだけ偉そうに音楽を語ってるくせに、フタを開けてみたらただの世間知らずだったってわけですか。でも、こういうことを思い知るってことも大切なことなんでしょうね。自分の世界だけに閉じこもってると、自分のことを通俗とは懸け離れた特別な存在なんだって勘違いしちゃいますからね。それを防ぐためにも、たまにこうして自分の身の程をわきまえるってことが必要なんでしょう。ひょっとして、これが「大人の自覚を持つ」ということなのかな?いや違うか…。






「OASIS」を語る

2005年08月20日 | アーティスト個別語り
もはや説明不要な、UKロック定番中の定番バンド。いわゆる「洋楽ファン」であれば、このバンドを知らないなんて事はまず有り得ないでしょう。

多分オアシスは、「今まで邦楽ばっかりだったけど洋楽も聴いてみよう」という人の耳に、これ以上ないほどベストマッチするバンドではないでしょうか。そういう人にとって、彼らのスタイルは非常に分かりやすく、自然に耳に馴染みます。実際僕もそうで、他の洋楽では多少の慣れを必要としたのに、オアシスだけは考えるまでもなく好きになりました。

その理由として、まず楽曲が比較的メロディー主体で、しかもとびっきりの歌心を持っていることがあるでしょう。カラオケやライヴ会場で大合唱になって楽しむような、とにかく親しみやすい作風が、オアシスの大きな特徴です。厳かにじっくりと聴くようなタイプが多い洋楽において、この作風はむしろ「邦楽的」とまで言えそうです。だからこそ、日本においても大人気なのでしょう。

加えて、オールドスタイルのロックがきっちり消化された、重厚で張りのあるロックサウンドも大きな魅力です。俗に「ブリットロック」などと言われていますが、ビートルズ直系の極めてオーソドックスな音使いは、上記のポップな歌を活かすのに一役買っていて、楽曲をよりいっそう聴き応えのあるものにしています。

このように、オアシスはひたすらにストレートな分かりやすさを追求したようなバンドなわけですが、そういう部分も災いして、とにかく賛否両論が出やすいのです。新作を出すたびに「これはアリかナシか」の大論争が巻き起こって、それぞれ独自のオアシス論が飛び交うし、はたまた「色々音楽を聴いてきたから、今さらオアシスなんて聴くの恥ずかしいぜ!」なんて意見が出れば、「色々音楽聴いてきたけど、やっぱりオアシスが最高だ!」という意見も出てきたりして、とにかく色々な人が色々な聴き方をしているのです。

そんなこんなも含めて、僕は「何て面白いバンドなんだろう」と思ってしまうんですけどね。ああいう賛否両論が出てくるってことは、なんだかんだ言って皆がオアシスを十分に理解し、愛してるってことじゃないでしょうか。

何を好きになるかは人それぞれだけど、聴けば必ず何か自分にとって大切な音楽が見つかる、そんなバンドなのです。洋楽を知りたいなら、まずは黙ってオアシスを聴きましょう。そして、自分流のやり方でオアシスを好きになってみてください。

引き際が肝心

2005年08月19日 | 雑談の場
さて、初めて普通の日記と言うものをつけるぞ、一体何を書けばいいんだろう。とりあえず、今日やったことを書いてみることにしようか…。

というか、この自然を装った出だしが凄いわざとらしくて、もう書く気が萎えそうになってきた…。やっぱり、一人称で書くのは向いてないのかもしれないです。いつもどおり「ですます調」で書くことにします。

今日やったこと。思い返してみたら、ただひたすら作曲活動してました。このブログで紹介することを目標に、ひとつピアノ曲を書くことにして、もう作業5日目ぐらいですかね。

それにしても、今日の作曲活動はことさらに厳しかった!何しろ、ふざけてるとしか思えないくらい暑いし、しかも発想が行き詰って全然作業が進みませんでした。こういう時の作業は、まさに「命をすり減らして曲を作る」という言葉が相応しいですね。実際そういう辛さがありましたよ。

でも、こう言えば何となくカッコいいですけど、実はその全く逆でしょう。だって調子悪いんですから。本当だったら、命なんかすり減らさずにさっさと済ませたいものなのです。もっとスマートに、滞りなくサラッと曲が作れたらどんなに楽なことでしょう。それが出来ないってことは、やはりまだまだ経験が足りてない証拠なんでしょうねえ…。

そして今回の敗因は、そんな状態にも関わらず、しつこく何時間も無理矢理作ろうとしたことでしょう。少し間を置いてから改めて取り掛かれば、アラ不思議とばかりにスラスラ出来ていくことがあるんです。たぶん、曲作りのテンションが上がりきってないから、こういうことが起こるんでしょう。出来ない時は何をやっても出来ないし、出来てもろくなものになりません。

やはり、こういう時は引き際が肝心。スッパリと作業を中断するのが賢い選択なのです。多分、作曲以外でも何でもそうでしょう。その作業をやるテンションになってなきゃ、絶対に良い結果は出ないものです。やってて「つまんないなあ」と少しでも感じたら、もうそれは止めた方がいいというシグナルなのかもしれません。

ここでこうして書き留めることができたから、これでもう同じ失敗は繰り返さないはず!皆様も是非覚えておいて下さい。何事も引き際が肝心なのです。たぶん本当ですよ、これ。

曲が出来たらここで紹介しますので、もう少し待ってて下さいね。





「BECK」を語る

2005年08月18日 | アーティスト個別語り
記念すべき、音大のロビーにて洋楽一発目のアーティストは、僕が洋楽の中で最初に好きになったアーティストを選ぼうと考えていました。色々と候補はありましたが、悩んだ末にこのBECKことベック・ハンセンに決定しました。

実際はベックを聴く前にも、パラパラと洋楽をかじってはいたんですが、現在の様に、本格的に洋楽を貪るように聴き出すキッカケとなったのは、考えてみればベックの「ODELAY」だったように思います。このアルバムが自分を完全に洋楽フリークに変えた、ということです。

そうなった原因はやはり、彼の作り出す音楽に、邦楽との決定的な差異を見た気がしたからでしょう。国内に閉じ篭っていては決して触れられなかった、海外の音楽文化のネイティヴな姿と、それにのっとったベック自身の唯一無二なオリジナリティ。「海外にも触れておかねばならない音楽表現が無数にある!」と確信させるには十分なものでした。

これはおそらく、ベックの音楽が日本人の目に極めて「洋楽的」に映るからではないでしょうか。AメロBメロサビなんていう型にはまった構成に囚われない、あまりにも自由で発展的な音使いと、フォーク・ファンク・ブルース・ヒップホップなどの、向こうの国の「ルーツ音楽」を全く自然な形で取り入れられる感性は、紛れもない「本物」の凄みを感じさせるし、そこまでの音楽は、さすがに日本ではお目にかかれそうにありません。

と言っても、それは別に「洋楽が凄い」のではなく「ベックが凄い」ということなのですけれどね。なにしろ「オルタナの救世主」とまで言われた人ですから、彼の音楽はもう誰にも真似できない次元までいってしまったんでしょう。

それほどに彼の創造力はハンパではないのです。一体どこからこんな音楽を創り出す種が出てくるのか、その頭の中を覗いてみたいほど。サンプリングをすれば、仰天するほど手の込んだサウンドによって有り得ないようなノリとグルーヴ感を生み、しかもバラバラにならず作品としてのバランスを取ってしまう奇跡的な楽曲を創り出すし、かと思えば、ルーツに忠実になって「歌心」を前面に出し、人々の心を打つような楽曲も創り出す。その変幻自在のスタイルからは、単純な発想だけど「天才」を感じずにはいられません。

そんなベックの魅力の発端は、彼の音楽に対する深い「愛情」ではないかな、と僕は考えます。だってこんな音楽は、本当に音楽を好きで好きでたまらない人でなければ絶対に出来ません。それは、自分に影響を与えてくれた先人に対する敬意だったり、新しい音楽を創ろうとする志だったりと、形は様々ですが、それらは全て音楽に対する真摯な愛情から生まれるのでしょうね。それを彼の音楽から感じたからこそ、僕もベックの音楽に惚れたのかもしれません。ベタな言い方ですけど、やはり音楽への愛情は国境を越える、ってことでしょうか。

そんなわけで、まだ洋楽をちゃんと好きになれてない人は、直ぐにでもベックを聴いてみることをお薦めします。彼の音楽を聴けば洋楽の面白さは一発で分かるはずだし、それと同時に、その奥に果てしなく広がる未開の音楽文化を垣間見て、そこにも無性に興味を掻き立てられるのではないでしょうか。そういう意味で、洋楽入門にはうってつけのはずです。

セカンドシーズンスタート!

2005年08月18日 | 雑談の場
皆様こんにちは、ジーニアスです。このたびやっと洋楽紹介をスタートさせることになりましたが、それと同時に、ブログタイトルに「セカンドシーズン」のサブタイトルをつけ、レイアウトも一新し、さらにこの「雑談の場」という新コーナーを設置することになりました。

内容自体は別になんてことはありません。普通の日記です。しかしご存知のように、このブログにはもともと普通の日記がありませんでしたし、当初はそれを書こうとも思ってなかったのですが、試しに始めてみることにしました。

そういう気になったのも、僕自身このブログに「マンネリ」を感じ始めていたからです。以前は毎日更新してたほどパワーがありましたが、プライベートが忙しくなって徐々に間隔が空きがちになるにつれ、だんだんと進んで書こうという気が薄れてきてしまいました。それに加えて、「アーティストを紹介しなくちゃならない」という、ある種の「やらされてる感」が出てきてしまいました。そのせいで、肝心の自分自身が楽しめてない状態が続いていたのです。そこで、その「やらされてる感」から開放され、自由気ままに文章を書くためには、普通の日記を書くのが一番と考えたのです。

よくよく思い出せば、このブログはもともと「ロビーにいる感覚で気ままに音楽を語る」ことが主旨だったんですよね。始めた当初はその主旨を意識できていたから、すごくワクワクしながら楽しく文章を書いていたのに、そのことを忘れてしまったせいで、今となっては、もはや「ひたすら硬派な音楽コラムのブログ」と化してます。それも当然ありだとは思いますけど、それは僕には元々あまり合ってないようで、どうにもしんどくなってしまいました。ですから、初心を取り戻す為にも、「セカンドシーズン」として新たに出発する意気込みが必要だったのです。

それもこれも、ひいては読む人を楽しませるブログを作るためです。最初は僕ごときの文章で人が楽しむのかどうか疑問でしたけど、多くの人から「楽しんで読んでます」というコメントを頂き、そのたびに「やっててよかった」とメチャクチャ感謝しておりました。本当にありがとうございます。そして、これからのセカンドシーズンの展開にも期待してみてください。

ちなみに、ひょっとしたら必要に応じて、今までの「ですます調」の文体を使わない文章も書くかもしれません。そのほうが自分の言いたい事が書きやすいと判断したらそうします。というか、単純にそういう文章も書いてみたいので。

「NUMBER GIRL」を語る

2005年08月12日 | アーティスト個別語り
僕にとってナンバガは、長いこと「近寄りがたい存在」でした。最初に彼らの音楽を聴いた時には、「こんなの聴いちゃっていいんだろうか…?」というような、一種の罪悪感すら覚えたほどです。聴いてはいけないものを聴いてしまった、という感じでしょうか。これほどまでに反逆的で怨念に満ちた音楽は、今までに聴いたことがありませんでした。

しかし、そんな良い意味でも悪い意味でも「衝撃」を与えるのが、ナンバガの音楽の本来持っている性質なのかもしれません。最初に僕が受けた印象は、ある意味では正しいものだったのでしょう。

その内容は、もう筆舌に尽くし難いです。日本にこんなバンドが存在していたこと自体が信じられないくらい、超オルタナティヴで超シュールな音楽世界は、僕じゃなくたって誰でも衝撃を受けるはずです。ぬるま湯に浸かってるようなメジャー志向の軟弱ロックとは丸っきり違う、激烈で鮮烈で、それでいてリアルなナンバガのロックは、そう簡単に耳に馴染むものではないでしょう。

それでも、いちど波長を合わせてしまえば、もう抜け出せなくなるぐらいハマれます。この状態に持ってくには、このバンドがただ毒を振りまいてるだけではなく、音楽的にも極めてハイレベルなことをやっていると気付かなければならないでしょう。そのバンド演奏の上手さときたら、もはや国内最強レベルのはずだし、ルーツとして洋楽のオルタナロックに立脚しているものの、楽曲にそこはかとなく「和」のムードを取り入れており、決して過去のオマージュに収まらない唯一無二のオリジナリティも確立しているのです。

それが分かれば、最初に感じた「衝撃」も、一種のスタイルとして受け入れることができて、今度はそれに酔いしれることができるでしょう。僕もそうなって、あれほど近寄りがたかったはずのに、今となっては自分から進んで会いに行くようになりました。

彼らの音楽をどうしても敬遠してしまう人がいるとしたら、それはある意味仕方が無いことです。そういう性質の音楽ですから。要は、その敬遠してしまう嫌いな部分を、好きだという気持ちに変換できるかどうかなのです。それを達成してしまえば、どうしようもないぐらいハマれる要素を持っていると、僕は自信を持って保障します。こういうオルタナな世界に縁の無い人にこそ、是非とも聴いていただきたい音楽です。







「フリッパーズ・ギター」を語る

2005年08月04日 | アーティスト個別語り
小沢健二を語って、コーネリアスを語ったのですから、このフリッパーズギターを語らない訳がありませんね。ご存知、前出の二人が中心メンバーの伝説的ユニットです。ピチカートファイヴやカヒミカリイも分類される、「渋谷系」の創始者としても有名ですね。

僕の場合、まず小沢健二とコーネリアスのソロ作品を聴いた後で、改めてフリッパーズギターの作品を聴くという、本来と逆のパターンで彼らの音楽に接しました。そのせいかもしれませんが、「ヘッド博士の世界塔」を最初に聴いた時は、思ったほどピンと来ませんでした。しかしそういう出会い方の音楽は、もう必ずと言っていいほど、数を重ねることで大好きになってしまいますから、諦めずに何回も聴き続け、そして見事に愛聴盤とすることに成功し、さらに「Camera Talk」でダメ押しの一撃を喰らい、完全にこのユニットに魅了されたのです。

こうなったキッカケはやはり、フリッパーズギターの音楽の中から、小沢健二と小山田圭吾の個性を見出せたことでしょう。オールドポップスから強く影響を受けている、どこか哀愁を含んでいて、それでいてポップなメロディーと歌詞・アレンジは、紛れも無く小沢健二のものだし、あの洪水のようなサンプリング音と、遊び心を持った実験サウンドの数々は、紛れも無く小山田圭吾なのです。その二つが合わされば、当然フリッパーズギターのようになるなと、妙に納得してしまいました。

彼らの音楽の魅力は、あれほど実験的でマニアックにも関わらず、聴き手を拒むような姿勢が全く無いことでしょう。確実に通俗的な歌謡曲とは一線を画すのに、音楽マニアだけでなく、どんなリスナーの心も掴めるほどのポピュラリティーも併せ持っているのが凄いです。各々のソロ作品もそうですし、フリッパーズギターもそうですね。こういった、「普通じゃないけど聴きやすい」という点が当時のリスナーに新鮮に写り、カッコ良くてオシャレな「渋谷系」となって浸透していったんじゃないでしょうか。

もはや、小沢健二と小山田圭吾の両名無しには、90年代の邦楽は語りようがないほど、彼らの功績は偉大なものとなっています。リアルタイムで知ってるわけじゃないですが、フリッパーズギター出現の以前と以後で、日本のミュージックシーンが大きく変わっているのは間違いないでしょう。今後、彼らのような時代の寵児は出現するのでしょうか。すっかりと閉塞してしまった日本のミュージックシーンですから、今こそ第二のフリッパーズギターが必要な時期なのかもしれませんね。