玄文講

日記

陛下を敬う。崇め奉る。

2006-02-09 11:53:28 | 怪しい話
言いたいことは2つある。

我らが敬愛すべき天皇陛下の後継者問題についての議論が盛んに行われている。

女系天皇に好意的な人々が制度の改正を声高に唱えれば、
神社関係者や皇族関係者が伝統の為に反対する。

この状況を私は遺憾に思い、1つの不満と1つの事実について述べることにした。

まず私は敢えて言おう。

「この不敬者どもめ」、と。

これは賛成論者、反対論者の両方に対しての発言である。
彼らは共に不敬である。

そして、もう一つ忘れてはいけないが、思い出してもいけないことがある。
それは「天皇陛下が尊いお方であるというのは、実はウソである」ということだ。

私たちは天皇陛下を日本国家の象徴としていただいている。
だがそもそも人間が抽象的なシンボルなどという存在になれるわけはないし、この不平等と不自然を正当化する根拠などありえない。
そこにあるのは一から十までウソだけなのである。

ウソの伝統やウソの正当性を議論してどうするというのだろうか。

ウソに伝統はない。何故なら高貴な血などいうものは存在しないからだ。
人間は生命体としては皆、平等である。
偽善的な言葉が嫌いならば、人間なんてどいつもこいつも似たような出来損ないばかりだ、と言ってもよい。
よって皇室の歴史と私たちの一人一人の歴史は等価である。

ウソに真実はない。何故ならそれがウソの定義だからだ。
だからこのウソがいかに正しいのかなんて議論は「ウソがウソでないこと」を証明しようとするものである。
不毛である。

このウソは私たちが「真実である」と思い込むことでのみ成立する。
私たちが悩んでいいのは、「一介の人間である現天皇陛下を尊きお方として認めるか否か」の一点のみである。

そして私は、この愉快なウソを認めた。
このウソを認めたのならば、すべきことは決まっている。

信じるべし、敬うべし、崇め奉るべし。頭を深くたれて付き従うべし。

唯一拝聴すべきは陛下の御言葉のみである。
唯一守るべきは陛下の御意志だけである。
偉大なる陛下はまさに神のごとしである。

私たち下賤の民が神の存在理由や次の神を誰にすべきか議論するなど、まさに神をも恐れぬ不敬の極みである。

議論なんてしてはいけないし、私たちの判断なんて不必要である。
陛下の御意志だけが絶対である。

もちろん皇族関係者などという亜神の言うことも、神社の神官の言うことも聞く必要はない。
神聖不可侵なるお方は我らが陛下御一人のみである。
陛下の玉音なる御言葉にくらべれば亜神や下賤の言葉など雑音でしかない。

陛下が恐れ多くも「次の後継者は犬の糞にします」とご発言なされたのならば、私たちは黙って犬の糞に頭を下げるべきであり、全ての正当性は陛下御一人の存在に帰着する。

次の神を決めていいのは今の神だけである。私たちが神を選んではいけない。
それが人を神に仕立て上げた者の礼儀である。

(2/16追記)

以上は「狂信者」の立場になっての個人的な考えである。
現実的には法による規制が必要であることや、権威を保つためには正統性を重んじないといけないことも理解できる。
また陛下がこの件に関して積極的なご発言をなさることはないであろうから、陛下の御意思を尊重することもかなわないであろう。

しかし「間違いがないようにするためには議論が必要だ」という意見には賛成できない。
何故なら、この問題は不合理な問題だからである。
正しいも間違いもありはしない。
必要なのは「誰を天皇陛下にするのが正しいのか」という議論ではなく「支持する誰かを天皇陛下として崇めさせる」ための扇動であると思われる。

愚痴

2006-02-06 15:11:56 | 個人的記録
とても残念なことがあった。

これで私たちの計画は3年は遅れるであろう。

簡単に言えば、ようやく手に入れかけた某政府機関とのつながりが切れてしまったのである。

労働省、各種産業界ともつながりが深く、今後の計画の遂行に重大な役割を果たしてくれるはずだったのだが、痛恨事である。

計画は一部修正を余儀なくされる。
しかし、これで計画が中断されることはない。私たちの手札はまだ何枚も残っている。

今回は唯一の適任者が、仕事よりも家庭を優先させたことが失敗の原因である。
しかし誰も彼を責めることはできない。

何故なら自分の身近な人間さえも守れないような人間、自分の日常生活を大事にできない人間を私たちは求めていないのだから。

遠くばかりを見てそのために身近な人間を犠牲にし、尊大な目標ばかりをたて目の前の小さな仕事を放り出す人間などに何事かを成すことなどできないのだから。

だから仕方がないのだ。

それにしても私に彼の代わりができればいいのだが、それは無理なのだ。
何故なら私はバカだからだ。

どうして私はバカなのだろうか。
答えは、簡単。バカだから学歴も地位も財産も名声も能力も資格も、人から尊ばれるあらゆる肩書きを持たず、そしてバカになったのだ。
だから私ではダメなのである。
だれも私を認めはしないし、必要ともしないし、気にかけたりもしない。

だから他人が必要なのであり、私では彼の代わりにはなりえないのだ。
幸い次の他人はもう見つけてある。

それにしても今回は残念であった。
よって最後の未練として、ここに愚痴を書くことにした次第である。

耐震偽装問題にまつわる「住民の自己責任論」について

2006-02-03 19:06:33 | メモ
さて、今日の話題は耐震偽装問題にまつわる「住民の自己責任論」についてである。

世間的には今更な話題かもしれないが、私にとっては最近知ったばかりの新しいニュースである。

私はいつも世間様から一ヶ月ほど遅れているのである。

今回の騒動において、住む家を出て行かざるをえなかった人々がいる。

一般的に見れば彼らは同情すべき被害者であるはずなのだが、中には今回のことは彼らの家選びが軽率だっただけで、自業自得だと言う人もいるようだ。

だが、彼らは十分に購入物件を吟味しなかったうかつな人たちであったのだろうか?

確かに家を買うという大事においては慎重さと警戒が必要であろう。
しかし専門家ではない私たちの調査能力には限界がある。

もし私たちが自己責任で家を調べないといけないのならば、その費用と負担は膨大なものになり、家を買う人は少なくなり、景気も悪くなるばかりである。
だからこそ調査機関や政府の機関があるのである。

そして政府の機関が保証した家を買った人間をどうして責めることができようか。
政府の機関を信用した人間が「うかつ」で「軽率」な人間扱いされる社会とは、まるで無政府状態の無法地帯ではないか。



また、地震で家をなくした人の救済さえまだ不十分なのに、豪華なマンションを買える恵まれた人間に新しい豪華なマンションを用意するのは不公平ではないかと言う人がいる。

しかし、地震は天災である。

そこに明確な責任者はいない。

自然に損害賠償を請求するわけにはいかないし、いくら努力してもあれだけの災害で無傷な街などはありえない。

それに比べて、今回は人災である。

責任者は存在する。一番悪いのは業者。次に悪いのは十分な業者の指導と監視ができなかった天下り先の民間検査機関、国交省、政府である
今回の被害は国や業者が努力すれば避けることのできた問題である。

責任者がいて、賠償能力がある。ならば被害者は優先的に保護されるべきである。
そして業者に賠償能力がないのならば、2番目に悪い政府が責任を取るのは当然のことである。

もちろん自助能力のない震災被害者にも保護を与える必要はある。
彼らが救われないのだとしたら、それもまた政府の怠慢である。
しかし、それは飽くまでも「福祉」であり、「過失に対する賠償」ではない。

「天災の補償」と「人災の補償」は比較すべき対象ではなく、ましてや「優遇される金持ち」VS「冷遇される貧乏人」という対立構造を見出すべきことがらでもない。


「なるほど、政府に責任があるのは分かった。
しかし結局、使われるお金は私達の税金。負担をしょいこむのは我々ではないか」
と、税金で彼らを救済するのに不満を漏らす人がいるかもしれない。

中には本当に被害者を税金泥棒扱いして罵る人さえいるという。

しかし民主主義国家において政府の失敗は私達の失敗である。

政府が業者の監視を怠った責任があるように、
国民には、政府に業者を指導させられなかった事に対する責任がある。

私たちが建設業界の手抜き体質に気がつき、声をあげて政府を動かし、建設業界に抗議できる人物を選挙で選べば今回の事態は起きなかったのである。
だから今回の問題の責任者は私たちでもある。

もっとも、これは私の本心ではない。
民意?市民の声?連帯した人々の行動が政府を動かす?

そんなオメデタイことが起こるものか、である。
政府を動かせるのは金とコネを持った有力者だけである。

それに政府や業者が裏で何をしているかなんて私たちには分かりっこないのだから、
それに気がつかないで放置したことを責められても、無茶な話である。

しかし、それでも日本は民主主義国家なのである。
民主主義国家を標榜しているからには政府の失敗は、すなわち彼らを選んだ私たちの、声をあげて彼らに行動を起こさせることのできなかった私たちの失敗なのである。

そして今回は私たちが失敗することで被害者の方々に迷惑をかけたのだから、私たちのお金「税金」を使うのが筋というものなのだ。

それでは私達の責任の重さ。つまり負担すべき金額とはどれくらいになるのだろうか。

そこで調べもしないでいい加減なことを言うのだが、大げさに「公的資金100億円投入!」と仮定してみよう。
(しかし実際には、それほどの手厚い補償はされないであろう。)

さらに本来は公的資金の財源を調べて、負担の重みを階層ごとに分けて計算すべきなのだろうが、
ここでは国民1億人が同じだけの負担を負うと仮定する。

すると今回の国民の失敗の代償は一人当たり100円である。

ああ、100円とはなんという大金であろう!

しかし私達の責任の重大さを考えれば断腸の思いで一人あたり100円程度の損失をすることも、仕方のないことである。

それにしても貴重な100円だ。他人のためには1円だって使うのが惜しいのが人情というものであろう。
拳を振り上げ、目を充血させて、唾をとばしながら「俺たちの金を使うな!この税金泥棒め!」と抗議したくなる気持ちも分かるというものである。
なにせ100円である。あと20円足せばコーラが買える金額だ。

誰が彼らのことを、「わずかな金額を惜しんで、社会正義を唱えながら被害者に罵声を浴びせる倒錯したイカレポンチ。心の狭い矮小な愚民ども」などと言えるものだろうか。
誰も言えはしない。心の中で思うだけである。