玄文講

日記

福田恒存「私の幸福論」(美人論)

2004-10-31 22:13:46 | 
この本は昭和30年ごろの女性向け雑誌に連載された記事をまとめたものである。
タイトルから女性向けの安易な人生論だと思う人もいるかもしれないが、これはそんな安い本ではない。
まずいきなり氏は「美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かもしれないが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります」と言ってしまうのだ。

そして外見で人を判断するのは卑しく、内面を見るのが尊いとされているが、それは本当なのかと氏は問う。

「人相は人柄を表し、人柄は人相を裏づけするにしても、両者の関係はまことに微妙なものです」

氏は人間は外見で分かると言うのである。だがそれは当然たんなる美醜だけではない。
(もっとも氏は「単なる美醜で人生の損得が分かれるという事実は受け入れるべきである」とも言っている。)
それはその人の生き方に「自分を演じる余裕」があるかないかでもある。

氏は「生きること」とは他人とのぶつかりあいであり、適切に力を用い、適切に力を抜く必要がある。そのやり方が「自分を演じる」ことなのだと言う。
そして氏は「自分を演じる」節度は教養から生まれ、その教養は文化によって自然と身につくものであり決して「知識」のことではないと主張する。

「教養」がある人には「正義われにあり」という押しつけがましいものはない。抵抗しながらも相手を認める余裕がある。それがユーモアや機智となって表われる。
一方「知識」とは実は重荷であり、人の神経を傷つけるものなのだ。氏はこう言う。

「文化によって培われた教養を私たちが持っているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです」

自分の教養以上の知識を持った者は、知識を共有しない人に当り散らし、いい気になり、人々を軽蔑し、憂国の志を起して他人を教えこもうとするようになる。つまり余裕を失ってしまうのだ。


「自分を演じる余裕」があるというのは教養があるということであり、それは「品」や「スタイル」があるということでもある。そして品はその人の外面にも染み出してくるのである。自然体の振る舞いがそのままスタイルとなるのだ。
それが人は外見で分かるということの意味ではないだろうか?

いささか氏の主張を曲解しているかもしれないが、私はこの本をそう解釈した。
福田氏は右翼系の論客として知られる大物であるが、最近にわかに増殖した余裕のない憂国の士と異なり、品格のある尊敬できる人物である。
さて、私には余裕があるだろうか?

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