玄文講

日記

橋本治「宗教なんかこわくない!」

2004-12-26 00:05:21 | 
私は昨日、神や宗教は思想を人格化したものだと言った。
これは私が自分で思いついたことではない。

橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」においてこう言っている。

自分の頭でものを考えることのできない人間が、“思想”を人格化する。
宗教というものは、思想を思想として抽出することができない人間がした“思想の人格化”から始まる。
だから宗教はおとぎ話なのである。


橋本氏は、それから次のように主張する。
「おとぎ話は子供を成長させ、大人になったときに自分を成長させた要因が分析されることで解体される。しかし宗教や神はその解体を許さず不合理な存在のままで残ってしまう。だから人は神を信じるか信じないかの2つの選択を迫られ、“美しい思い出”として再吸収できないでいる」

この本は他にも「生産の空洞化」や「肉体性の欠如」という視点から宗教を論じている。
(今日はここまで。後日追加修正します。)

この本の内容についてまとめようと思っていたところ、下のサイトからトラックバックをいただいた。
デジタルももんが

ここでリンクされているサイトに本の内容、出版された時の社会背景などがまとめられているので、ここではこの本に対する私の感想だけを述べたいと思う。

この本で橋本氏は「宗教」を「思想の劣化したもの」として扱っている。
更に言えば「妄信(=宗教)」することよりも「合理的思考(=思想)」を推奨している。

しかし氏と違い、私は「宗教」と「思想」は似たようなものだと考えている。
何故かと言うと、私は「思想」というものを「合理的思考方法」だと思っていないからである。

ちなみに、ここで私が言う「思想」の定義は「言葉で考えられること」「数学、実験を用いない思考方法」とする。
橋本氏の言う「思想」や現代の「思想」には他の面があるのかもしれないが、私はそれらを知らないので一切の評価ができない。片手落ちで申し訳なく思う。

本題に戻ると、私は「思想」というものは特に合理的な存在ではなく、むしろ合理的に考えられない問題を合理的に扱う手段が完成されるまでの中継ぎ、間に合わせのハリボテだとみなしている。

例えばギリシャ時代の哲学者は物質について様々なことを考えた。
電子顕微鏡も粒子加速器もない時代に、電磁気学も量子力学もない時代に、行動面でも思考面でも合理的手段がまったく無い時代に、それでもあえて「物質とは何か」を考えたのである。

そして4元素だとか真空の存在の是非とか様々な思想を生み出した。
それらの思想はある程度現在分かっている真実に近く、ひょとしたら「これから判明する新事実」に近くもあるのかもしれない。
しかし厳密には完全に間違っている。
「思想」だけでは合理的思考にはたどりつけないのである。

他にも現在においては「生産性」の問題は「経済学」で、「肉体性」の問題は「認知心理学」で考えることが可能になったので、これらの問題について「思想」は思考手段の主役ではなくなった。、、、と私は考えている。

つまり私の解釈では、不合理を強引に考える方法が思想で、それらが人格化されると神や宗教になり、この2つに大きな違いはない、となる。

昔の理系の学者は「社会学」や「経済学」は科学ではないという偏見を持っていた。
私のこの考えも無知ゆえの偏見なのかもしれない。
ご叱責、ご指導、ご鞭撻(べんたつ)をいただけるとありがたい。

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