前回は「体験」を求めるあまり今現在の自分の仕事をおろそかにすることを批判した。
一つ具体例を挙げると「トラウマ」という体験を求める人の存在がある。
幼児期や少年期に心に傷がつくような深刻な経験をすると、それを経験していない者より人間に深みができるという考え方をする人のことだ。
文学や漫画でも心にトラウマを持った人間の物語を好む人は多い。
中には「個性」を深めるために自分もトラウマが欲しいと願う人間まで出てくる始末である。
しかし劇的なトラウマを持つ人間にはそうなれるものではない。
そこでトラウマが欲しい彼らはある言葉に飛びついた。それが「アダルトチルドレン(AC)」である。
元の意味は「アルコール依存症の親の下で育った子供」であるが、今では「自分の生きにくさ。他者との関わり方が分からない。自分の居場所がない」これらのことを感じている人間のことをさすらしい。つまりACに厳密な定義はなく、誰でも自称さえすればその日からACになれる。そして彼らはACになることで深まった個性(笑)を他人に教えたくなるらしく、自分について切々と語りだすのだ。
そんな自称ACについて与那原恵氏は「羊たちの饒舌」の中でこう書いている。
「自らがACであると告白することで『自分は他の人とは違う』という信念にも似た自意識を手に入れることができるのだ」
しかし氏は、ACという言葉は自分を語る便利な道具に過ぎず、「個」や「他者」という問題を隠すものではないかと問う。
「人は他人のことなど分からない。想像することでしか他者との関係は結べないのだ」
「『私』を語ることに、他者への想像力は必要ないことなのかもしれない。
彼らは自分を語っているのではなく、むしろ自分を最初からガードすることに目的があるかのようだ」
つまり彼らは自分を語ることで他人を拒絶し、ACという安易な体験にのめりこんでいるのである。氏は最後にこう言っている。
「個々のトラウマは個々のものでしかなく、それを乗り越えるのも個人の時間と体験しかないだろう。生きるとは、体験に対する『態度』を持つことだと思う」
生きるのに必要なのは「個性」や「トラウマ」などではない。
自分の人生の中に劇的なドラマを求めるのは幼稚な妄想でしかない。
人生にトラウマがあろうとなかろうと大事なことは平凡な日常を過ごすことができる態度であると私は信じている。
一つ具体例を挙げると「トラウマ」という体験を求める人の存在がある。
幼児期や少年期に心に傷がつくような深刻な経験をすると、それを経験していない者より人間に深みができるという考え方をする人のことだ。
文学や漫画でも心にトラウマを持った人間の物語を好む人は多い。
中には「個性」を深めるために自分もトラウマが欲しいと願う人間まで出てくる始末である。
しかし劇的なトラウマを持つ人間にはそうなれるものではない。
そこでトラウマが欲しい彼らはある言葉に飛びついた。それが「アダルトチルドレン(AC)」である。
元の意味は「アルコール依存症の親の下で育った子供」であるが、今では「自分の生きにくさ。他者との関わり方が分からない。自分の居場所がない」これらのことを感じている人間のことをさすらしい。つまりACに厳密な定義はなく、誰でも自称さえすればその日からACになれる。そして彼らはACになることで深まった個性(笑)を他人に教えたくなるらしく、自分について切々と語りだすのだ。
そんな自称ACについて与那原恵氏は「羊たちの饒舌」の中でこう書いている。
「自らがACであると告白することで『自分は他の人とは違う』という信念にも似た自意識を手に入れることができるのだ」
しかし氏は、ACという言葉は自分を語る便利な道具に過ぎず、「個」や「他者」という問題を隠すものではないかと問う。
「人は他人のことなど分からない。想像することでしか他者との関係は結べないのだ」
「『私』を語ることに、他者への想像力は必要ないことなのかもしれない。
彼らは自分を語っているのではなく、むしろ自分を最初からガードすることに目的があるかのようだ」
つまり彼らは自分を語ることで他人を拒絶し、ACという安易な体験にのめりこんでいるのである。氏は最後にこう言っている。
「個々のトラウマは個々のものでしかなく、それを乗り越えるのも個人の時間と体験しかないだろう。生きるとは、体験に対する『態度』を持つことだと思う」
生きるのに必要なのは「個性」や「トラウマ」などではない。
自分の人生の中に劇的なドラマを求めるのは幼稚な妄想でしかない。
人生にトラウマがあろうとなかろうと大事なことは平凡な日常を過ごすことができる態度であると私は信じている。