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一回座りましょう 3

2014-04-27 16:56:27 | 大喜利についてのこと

3.

先日『note』にpostされた柴田さんの考察、

素人大喜利の人はなぜ大喜利にしかほとんど興味がないのか、という疑問に対する考察や、その他もやもやしていること(※全文読むには有料となります)
https://note.mu/sbt_note/n/neb2e47e1158d

に関しての感想をおおっぴらに書いてもいいとの許可をご本人から頂いたんですが、そのまま感想を書く気はなくて、それっぽいまた別の文章です。

 



この文章を僕はしばらく前に柴田さんから頂いていて、個人的に既に感想を返信しているし、それは特におおっぴらに出す必要の無いものだと思っています。
つまんないケチが付くのも嫌なので、経緯を説明しつつ有料であることについても軽く説明を。

元々柴田さんがお手てさんに「最近考えてる事があるんで会った時にでも」なんて話してたのを、僕が横から「面白そうな話ですね、聞かせてください!」って入っていったのが始まり。
それならば、と一つの『考察』という体の文章に、柴田さんが手間かけて起こしてくださったものです。
その内容の性質上、公にしていなかったものですが、有料コンテンツを比較的簡単に配信できる『note(https://note.mu)』というサービスに合わせて「条件付き公開」というような形を取られたようです。

 

 

 

 

このツイートからも含めて、たぶんそういうことで間違っていないと思います。

 


 

で、ようやく本題の、感想ではないけどそれっぽいやつ。

上記の考察の主な部分、例えば「素人であろうと興業はお客さんを満足させることが第一目的であるべきだ」という主張であるとか、「『予想外』の答えが『予想の範疇』のなかで行われる」という言い回しであるとか、肯ける部分も多かったのですが、まあ、この手の物言いは正しい正しくないではなく、おおっぴらにしたら酷いことになるだろうな、とは思いました。

あの考察に対して否定的なコメントをした人の内、どれくらいの人達が今引用したような箇所を実際に読んだんでしょうね、って思うんです。
タイトルと、無料公開されているほんのさわりの部分だけを読んで、「どうせ気に入らない奴らを叩いてるだけなんだろう」って言ってる人達がどれくらいいたんでしょうね、って。

 


 

この「ごく少額での有料化」の、その有効性の、そのまた可能性、みたいなものを僕は柴田さんに提案しましたし、今回の件がどうなるかとても興味深く見ていました。
もうだいたい収束しちゃったみたいですけど、ご本人の言うところの「悪意のある斜め読み」と「そうでない目」をどれくらい選り分けられるものなのか。

ただ、僕の感覚としてそれは「悪意のある」目線では無いんじゃないかな、と今んとこ思っていますし、「悪意」でないからこそ、声をあげる事の虚しさみたいなものを感じます。

 


 

昨年末からこっち、大嫌いな言い回しをいっぱい見ました。
誰それは「どちら側」であるとか「影響力」や「~~派」etc etc・・・
でもそういう事なのかな、と思います。
大事なのは、例えば、「誰かが別の誰かに対して肯定の(あるいは否定の)意を示している」という印象で、その立ち位置であって、その発言によって人物相関図に矢印が浮かび上がることが重要で、その文言にはあまり意味は見出されないのかな、と。

問題提起をする事は、どうしても否定的な目線が入ってしまいます。
何も疑問を感じなければ、そんなことする必要は無いわけですから。
ただそれは“現状”であったり、どこかで見た“場”であったり、何らかのシチュエーションに対して、事象に対してのものではないかなと。
それが『問題提起』であるなら、その事象に関わっている、構成している人の、その人間性のくだらなさではなくて、そこから生まれた成果物の至らなさへの否定的な目線なんじゃないかなと思うんです。

上手く言えてないかもしれませんが。
僕は軽口も悪口も叩く大人げ無いバカ野郎ではありますが、大喜利や興行や、そういった核の部分のビビッドな事案に関しては『人格批判』ではなく『問題提起』をしてきたつもりですし、前述の柴田さんの考察も『問題提起』であると思って目を通しました。

でも僕が目にする多くの反応は、
「なぜ他人を叩くのか」「もっと立場や影響力を考えろ」「言い方が悪い」
そういう“ガワ”を齧るだけの声で、その提示した問題のその本質は「思慮無く他人を叩く、立場を笠に着て無遠慮な物言いをする奴が言った、取るに足らない事」であると言わんばかりに、ほとんどの人が触れることなく消えていったように感じられました。
本当のところはわかりませんけどね、ただ、例えば

【9月20日】映画美学校ドキュメンタリー初等科修了作品上映会感想日記
http://d.hatena.ne.jp/the_tramp/20120927/1348696259

この記事を僕が引用した時に見られた意見は「俺たちを内輪と言って馬鹿にするな」という、それだけじゃない人もわずかにはいたものの、ほぼ全てがそんなでした。
僕はこの記事の中に多くのヒントが隠されていると思ったし、だからこそあまり目に優しくない文言ではあったけれど表に引っ張り出してきた、という葛藤があっただけに、たまらなく残念だった事はすごく覚えています。
それからなんとなく、僕やお手てさんが『あっち側から攻撃してくる人』という、例の、僕の嫌いな、派閥の、立ち位置の、印象ができてきたように思います。

柴田さんの考察にしてもそうで、序文で引用されたのがお手てさんのツイートで、その周辺の会話に端を発しているとあるものだから、「あ、『そっち側』からの物言いなんですね、はいわかりました」っていう、もうその実の部分を齧る前から印象が固まっているなって感想をいくつか目にしました。

 


 

そんな中にあって150円の試みが、どのくらいの効果の、発信者の望む効果のあるものだったのか。
わかりませんが、小銭分のささやかな覚悟を持って読まれた方の、その分の誠実さみたいなものは、ちらほらと散見しました。
このやり方が解答ではないのでしょうが、関わる人全員に向けて声を上げなければフェアではない、という感覚は、それはそれで違うのかな、という。
なんかそんな教訓を得ましたよ、って、そんな話。