蝦夷徒然草

雑感を書き込むためのブログ

近世アイヌ住居跡 伊達の遺跡で確認 17世紀の津波痕も

2011-09-19 16:42:16 | 雑感

日本史で北海道が登場するのは、田沼意次の政治で蝦夷地の開発が行われたのが最初だと思う。しかし北海道からみれば、アイヌの縄文、擦文時代を通して綿々と歴史が続いてきたわけで。文明が高い方の歴史に合わせた時代の見方というのはどうも…まぁアイヌの歴史は口頭伝承で、文字を持たないがゆえに文献でその歴史を検証することができないわけで、歴史を調べるには物証は極めて貴重になるわけですな。というわけですでに明らかになっている関西・関東の歴史を軸に北海道の歴史は考えられていくわけですかね。

「すでに事実とされている」というのは、歴史を思うときにいつも考える言葉です。時の為政者は自己に都合のよいことしか残さないでしょう?何が事実か、真実の歴史かは有力な説を信じるかどうか、個人の歴史観に委ねる問題ですよね。

上記の田沼意次にしても、学校教育では株仲間を奨励して賄賂が横行したとの悪いイメージが植えつけられてきましたが、最近の研究では正反対にいい評価も出てきていますよ。資料が信頼できればね。(…まずは疑うという考え方をしていると何も信じられなくなるからいけない(汗)

さて、この記事で伊達市で見つかった住居跡は年代が特定されて17世紀。江戸時代の初めです。文字でその歴史を残すことのなかったアイヌの歴史を想像するのはモノしかないのは、少し寂しいです。そして貴重です。今回矢尻のような道具と畑、墓が見つかったと記事にはあります。津波が運んできた海の化石も見つかったということ。かなりエキサイトします。狩猟に弓を用いた、農業を行っていた、埋葬する文化が近世北海道にあった。矢尻は銅とあるが、この時代には銅を精錬する技術を持っていたのだろうか。どこから伝わったのだろうか。

明治の開拓(←先住民にとって屈辱的な言葉だなぁ)時代に死者も出たヒグマ。里に下りてきて数人が犠牲になった食害事件をこの前TVで見ました。

ヒグマの脅威から逃れるためにアイヌ民族も石狩平野を中心に山ではなく平野で暮らそうと考えたのでしょう。平取、厚真、恵庭や千歳に集落があるのはよくわかりますね。そこに伊達があるのはおもしろいですね。

現在では冬でも温暖な気候と知られる伊達にすんでいた近世のアイヌは、松前藩との交流がはじまるまでどのように暮らしてきたのか。

今現在住んでいる北海道の昔を考えてしまいます。


白っぽい砂の層となっている津波の堆積物を説明する添田学芸員(伊達市のカムイタプコプ下遺跡で) 北海道開拓記念館は、伊達市向有珠町の「カムイタプコプ下遺跡」から、17世紀頃の近世アイヌ文化期の住居跡が見つかったと発表した。近世アイヌ文化期の住居跡が、噴火湾沿いのエリアで見つかったのは初めてで、地層からは1640年の駒ヶ岳噴火で発生した津波の痕跡も確認された。

 発掘調査は、伊達市噴火湾文化研究所などの協力で同記念館が実施してきた。同遺跡は、約1000年前の擦文時代から約340年前の近世アイヌ文化期にかけての遺跡と見られ住居跡は地下約50センチの地層で見つかった。土の一部が焼け、近世アイヌの生活の特徴を示す大小の炉の跡があった。

 付近では、近世アイヌが使ったとされる銅製の矢尻のような道具も出土し、畑や墓2基も見つかった。

 また、住居跡地の地層の上には、海の微生物の化石を含んだ砂が堆積し、その上は火山灰が積もっていた。このため砂は、1640年の駒ヶ岳噴火に伴う津波が運んだ堆積物と判明した。津波は海岸から、少なくとも約200メートル内陸まで到達したことが分かった。

 近世アイヌ文化期住居跡は、これまで千歳市や恵庭市、厚真町、平取町の4市町でしか確認されていなかった。同記念館の添田雄二学芸員(38)は「今回の発見は、当時の生活環境や災害が分かる貴重なデータとなる」と話していた。

(2011年9月19日  読売新聞)


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