黒古一夫先生のブログについてのよしなしごと

黒古一夫先生(筑波大学大学院教授)のブログについて幾つか思うことを書き付けるブログ

黒古一夫先生のブログから削除されたコメントを知りたい方のために

2009-01-08 23:20:06 | Weblog
黒古一夫先生がご自分のブログから、炎上した際に付けられたコメントを全部まるまる削除されたようです。もちろんブログのコメントをどう管理するのも基本的にはブログ管理者の自由に為しうるところですので、その点についてああだこうだ申し上げる気はありません。もちろん、そうした一括削除が「評論家」として相応しい態度か(いいことも悪いことも見栄えのいいことも見苦しいこともなんでも自分の書いてきたこととそれが引き起こしたことについて正対するという態度が)、とか「筑波大学教授という権力者に対して向けられた民衆の反権力的糾弾」としてのコメントを全共闘であらせられる黒古先生が抹殺することの道徳的意義とかについては論じる余地はあると思いますが。

さて、本題。この時あるを期して、黒古先生のブログが初期炎上している際に何回かウェブ魚拓をとってあります。必要な方はどうぞ以下のリンクから削除されたコメントのうちで必要なものをサルベージされると良いと思います。初期の途中経過のスナップショットなので完全ではなく、この魚拓に拾われていないコメントを書かれた方にはお役に立てませんが(古いGoogleキャッシュが残っていないかお探しになるのも手だと思います)。

http://s01.megalodon.jp/2008-0914-2049-46/blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/94af3f5ece4af8e5bd75d557365ffef3

http://s04.megalodon.jp/2008-0922-0005-53/blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/2b510886f6e643e3cc8c2fd25e024411

http://s03.megalodon.jp/2008-0922-0007-53/blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/72531ce00b71905994305486ec61b898

http://s03.megalodon.jp/2008-0915-2045-41/blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/59522afc2ed624f6292d1d36afafbaa8

http://s03.megalodon.jp/2008-0918-1247-07/blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/db4a95677b3177584cab88c1eb2dc032


などなど。http://megalodon.jp/ を「黒古一夫BLOG」などの検索語で検索してみてください。


「思想」の批判と「個人」の批判

2008-09-23 02:03:53 | Weblog
自分がブログを持っていないからという理由で自分を「安全地帯に置いて」黒古一夫先生のブログのコメント欄に人々が押しかけるのがお気に召さないとのことなので、ここに書いてみます。もちろんこのブログにコメントを寄せられるのもこのブログに批判をトラックバックされるのもご自由にどうぞ。無視するのも自由です。なお、黒古先生からの反論には時間が許す限り応えますが、他の方のコメントや反論には匿名と顕名とを問わず一方的コメント削除の可能性を含めて応答したり無視したり恣意的に対応しますので悪しからず(黒古先生以外の方々はそれがおイヤならコメントを書き込んでくださる必要はありません)。

2008年9月20日付けの記事について。

お前だって石原慎太郎とか小泉純一郎とかを批判しているではないか、と批判されるのは眼に見えているが、僕は彼ら「個人」を批判したつもりは全くありません。読者に伝わったかどうかはわかりませんが、彼らの言動が示す「思想」について批判したつもりですが、俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想) を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――。


まずお尋ねしたいことの第一点:黒古先生は本当に石原慎太郎や小泉純一郎「個人」を批判していないのですか。本当に彼らの「言動」に現れた「思想」を批判していましたか。この点が疑わしいと思われる最も顕著な事例として、2008年6月6日の記事から引用します。

昨日も、東京が候補地の一つになったことを受けての記者会見で、記者が「世論の支持が低いが」というようなことを質問すると、その質問を遮るように「それ は君らのせいだ」と断定し、あまつさえ「同じ日本人なのだから、(東京が開催地に決定するように)協力するのは当たり前じゃないか」というような圧制者 (ファシスト)の本質をあらわにするような発言をしていたが、本多勝一が「小心者」と言っていたのを証明するように、「チック症状」と思われる瞬きを繰り 返しながら「人を小馬鹿にした」ような笑いを交えて、悪いのはマスコミとばかりの言いぐさ、本心から「ああ嫌だな」と思う。僕など、彼のあの「人を小馬鹿 にした」ような物言いと「自分は絶対正しい。間違いはない」といった傲慢・不遜な態度が世論のオリンピック東京開催支持を低くしている原因の一つだと思う のだが、いかがだろうか。

ここでは「同じ日本人なんだから~」云々の発言が批判されています。これは確かに言動が表現する「思想」についての批判でしょう。しかし、同時に

本多勝一が「小心者」と言っていたのを証明するように、「チック症状」と思われる瞬きを繰り 返しながら「人を小馬鹿にした」ような笑いを交えて、

僕など、彼のあの「人を小馬鹿 にした」ような物言いと「自分は絶対正しい。間違いはない」といった傲慢・不遜な態度

という2つの箇所は明らかに「思想」に対する批判ではありません。というのも、仮に瞬きながら「人を小馬鹿にしたような」笑いを交えて傲慢・不遜な態度である言動がなされようと、言動の中身である「思想」にはまったく影響がないからです。言動の動機や様態は言動の意味内容(すなわち「思想」)に影響を与えることはありません。「チック症状」と「小心者」を結びつけるのも(私はこれは度し難い差別的言辞であると思いますが)、「小心者」であるという、石原慎太郎の「思想」ではなく人格的属性を否定的に評価しているわけで、これは「思想」の批判ではなく明らかに「個人」の批判です。

黒古先生は本当に上に引用したような文章でご自分が「思想」を批判したのであって「個人」を批判したのではないと思われているのですか? 先生のブログのほかの記事でも上に類したような個人批判が行われている箇所を見出すことは容易です(もし他にも挙げろということであれば適宜対応します)。もし思われているのであれば、それは単なる事実誤認であり、早急に認識を改める必要があります。もし思われていないのであれば、「私は『個人』に対する批判を行っていない」というそもそもの主張が極めて不誠実であったことになります。


お尋ねしたいことの第二点:「思想」の批判と「個人」批判の分離が出来るとお思いですか。誤った事実認識や規範的評価などの「思想」の批判は、通常そのような誤った判断へとその人を到らせた当人の知的特性(traits)への批判を含みます。むしろ、誤った判断をなさしめた知的構え(事実を調べる手間を惜しむ怠慢・論理的推論ができないこと・etc.)に対する批判を含まない「思想」の批判とはなんでしょうか。考えられる場合としては、相手の知的特性が批判には値しないのだが(というのも本人の責任とはいえない事情によって知的能力を欠いているから)、それでもその人の言動の内容たる「思想」は間違っているから批判しておく、といったものくらいしか思いつきません。また、たとえ相手が自分の賛同できる「思想」を表現しているのだとしても、その「思想」に到る思考の過程がまったく不合理であれば、我々はその人を批判するでしょう。

上のように考えた結果、もし黒古先生が自分は「思想」を批判したが「個人」を批判していないと本気で言っているのであれば、それは先生が他者が批判に値するような知性すら持っていないとみなしているということを含意します。つまり、石原慎太郎や小泉純一郎は知性をまったく欠いている、というこういうことでしょうか? 私はそれは間違っていると思うと申し上げざるを得ません。


お尋ねしたいことの第三点:先生は「思想」の批判が「個人」に対する批判でもあるが、「個人」に対する批判が必ずしも「思想」に対する批判ではないということを理解されていますか? 「個人」に対する批判は、それがその当人の言動によって表される「思想」を導く特性についての批判でない限りは「思想」への批判とは関係がありません。もし「思想」のみが問題であるならば、「個人」の批判は多くの場合に「対人論法の誤謬 Fallacy of Ad Hominem」となります。しかしながら先生はブログでこの誤謬を犯されています。もし先生が「思想」の批判にコミットされているのであれば、思想とは関係のない語り口や態度の問題は総て捨象して「思想」のみを問題にしなければなりません。仮に匿名者によるものであろうが罵倒とともになされるものであろうが、そこに表される「思想」の内容にはまったく影響がありませんから、「個人」ではなく「思想」の批判を問題にされる先生としては、それらに応える必要が出てくることになります。

むろん「匿名」で批判を行うメンタリティそのものが厭わしいので応えてやりたくないということであればそれはもちろん結構なことですが、匿名者たちから先生の「思想」に投げかけられた批判という「思想」は無傷でブログに陳列されたままとなり、「思想」の批判のみに興味ある読者はブログを見て、黒古先生が応答できない致命的な批判が行われたのだなと解することになることでしょう。また、その場合には黒古先生は他者の「思想」をではなく(またその「思想」と不可分の限りでの「個人」の特性をではなく)、相手「個人」の特性を批判していることになります(それが悪いということではありませんが黒古先生は「個人」の批判をなさっていないということですから一貫性を欠いていることにはなりますね)。

お尋ねしたいことの第四点:むろん、「思想」ではなく「個人」の特性を批判することが妥当であることは当然にあります。たとえば横領への傾向性を持った人物は銀行員としては不適格でしょう。必要な知的徳性を備えていない人物は公務員(三権のどれについても)として不適格です。また、「思想」とは関係なく「個人」の特性が問題になることは普通です。たとえば、臆病な人間は何らの思想を表現していない場合でも――つまり「思想」の批判が成立しない場合でも――道徳的批判の対象となるでしょう。黒古先生は、自分が石原慎太郎や小泉純一郎に対して、その「思想」を批判しているのであって「個人」を批判しているのではないと「弁明」された際に、何を「弁明」されたおつもりなのですか? 「思想」の批判は構わないが「個人」の批判はダメだ、という態度はおよそナンセンスです。殆どの道徳的批判は「思想」ではなく「個人」についての批判だからです。石原慎太郎や小泉純一郎の言動ではなく知的・道徳的特性、為政者としての適格性といった個人的特性そのものを批判することには――その批判が正しいものである限りに於いて――まったく問題はありません。黒古先生は

俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想) を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――

と言われるとき、コメント欄での人々の批判を、黒古先生の「思想」ではなく黒古先生「個人」に向けられたものとして、不適切だと考えていることが読み取れます。私には、人々の批判が黒古先生の「思想」と「個人」の両方に適切に向けられていると思えます。コメント欄での批判によれば、「無意識」にせよ――だからこそ悪質だということなのだと思いますが――蕪村の調査の際に「法政大学名誉教授」「筑波大学大学院教授」という自分たちの「権威」に従わないといって怒る「権威主義的メンタリティ」、差別批判について常人よりも理解の深かるべき立場にありながら差別について軽く考えて、自分が擁護したいと思った作家のためであればそれに阿って差別批判の手を止め、「チック症状」が批判されるべき精神的欠点の存在を証明するなどという愚かな差別意識を丸出しにするという「差別主義的メンタリティ」、こういったものが道徳的批判の対象となるべき、黒古先生「個人」の道徳的「欠点」とされていますが、このこと自体には何ら不思議な点も不合理な点もありません。もちろんこうしたメンタリティからなされた言動の中身たる「思想」はそれ自体「思想」として発話者の動機や様態に関わりない形で批判されねばなりませんが、それに加えてこういう個人のメンタリティそれ自体もまた道徳的批判の対象としてまったく正当です。確かにここでは黒古先生の「思想」(だけ)ではなく、黒古先生「個人」への批判が行われています。そのことの何が問題なのですか? 関係があるのはそれらの批判が正しいか正しくないかだけです。

また、以上のこととも関係するのだが、「見解(見方・考え方)の相違」ということを認めない人がこの世の中にはたくさんいるんだな、ということも理屈では なく実感として知ることができました。――僕がいちいちのコメントに答えなかったのは、この「見解の相違」に基づいた「論争」は、水掛け論になると思い、 それは消耗だ、と思ったからです。それ以上でも、以下でもありません。

お尋ねしたいことの第五点:黒古先生はこのような妙に相対主義的な見解を本気で保持されているのですね? そうであるとすれば、石原慎太郎や小泉純一郎や麻生太郎は先生と「見解の相違」があるのであって、如何にご自分のブログで得々と「体制批判」を繰り広げても、もしそれに対して石原・小泉・麻生と同じ見解を持つ人が出てくれば、「論争」は水掛け論だというわけですね。都合のいいときだけ相対主義に閉じこもって自己保身を図るというのは相対主義者の常套手段ですが、黒古先生はコメント欄での人々からの批判についてひとつ初歩的かつ重大な誤りをおかしています。人々は黒古先生の数々の言動が自分自身の言動に照らして一貫性を欠き、不誠実であると批判しているのです(差別批判や権力批判をしたその口で差別擁護を行い権威主義的言動を恣にするなど)。ここでは批判者の側の「見解」などまったく問題にはなりません。言動の一貫性に関する批判は仮に「見解の相違」を認める場合にでも文句なく成り立ちます。過去のブログをつらつら拝見するに先生はご自分の一貫性(のなさ)を批判するコメントに対して「自分の政治的立場を明らかにしないのは『卑怯』である」といった反論を返されています。しかし、黒古先生の言い分からすればもし政治的立場を明らかにすれば「見解の相違」ということになるわけですから、このような返答はまったく馬鹿げています。仮に「私は右派ナショナリストです」という返答が返ってきたところでどうするのですか。仮に「私はネオ・ファシスト」であるという返答が返ってくればどうするのですか。黒古先生はそれを「水掛け論」にしかならない「見解の相違」に基づくものとご覧になっているはずではないのですか。俗流相対主義の最も醜悪な発露がここには見られます。


この「言わんや・況や」について、僕が「況や」の方が正しい言い方だ、といったのは、辞書的な意味では僕の間違いだったようです。しかし、今ここで具体的 事例を書けないのが残念ですが(時間があれば調べられるのですが)、明治以降の文学作品の中には結構頻繁に「何をか、況や」が使われていたと記憶してお り、僕もそのような使い方をするようになった、ということです。

「況や」を巡る問題は、まず第一にはブログにある信じがたいほど膨大な誤記の一部として、規範的な国語の運用能力について国文学研究者の備えているべき水準に黒古先生が達していないのではないかという批判であり(誤記を引き起こした先生の知的特性への批判)、また辞書をきちんと引いていないか(知的怠慢への批判)、辞書を引いてもそこに書かれていることを適切に読解していない(基本的研究能力の欠如への批判)ということが主として問題になっています。更に批判者を「一知半解」と罵倒したことについて、根拠のない罵倒を行うことへの躊躇がないという点が道徳的批判にさらされています。更に事態を悪くしているのは、ご自分の誤記について「辞書的にはそうだが、明治期の文学作品で何回か見たので使っただけのことだ」という応答をされていますが、これは根本的に不誠実です。辞書を持ち出したのは黒古先生であり、相手を辞書も読んでいない「一知半解」と罵倒したのは黒古先生だからです。更に、この弁明は自分の誤記について誤記の原因の説明をしようとしたものであって、誤記を正当化するようなものではありません。漱石に「六ずかしい」とか「仕合わせ」などという表記があるからといって、それらが辞書的に言って「誤記」にならないのではありません(そもそも「辞書」を持ち出したのは黒古先生なのですよ&自分の論拠に「辞書」を持ち出しておいて、相手が「辞書」に基づいて反駁したら今度は「辞書」が論拠となることを否定しようとするのは明らかに不誠実です)。したがって、言動の非一貫性や不誠実性、「誤記」の正当化を要求されたのに「誤記」の原因に摩り替えてしまう不誠実性(或いはそれらを混同するという論理的思考能力の欠如)及び、誤記の原因の説明としても具体的な明治期の文学作品の該当箇所を示そうとすらしないという学問的不誠実性が問題となっているのです。どれもこれも黒古先生自身の一貫性や誠実性、批判の手続きを問題にするものであり、「見解の相違」の問題だなどといって逃げられるようなタイプの批判ではないのです。なぜこのような批判が「見解の違い」に過ぎないなどと思われたのでしょうか。


とりあえず、以上のとおり質問と批判を述べさせていただきました。むろんご返答いただくもいただかないも自由です。申し上げるまでもないことですが、このブログの記事自体は黒古先生のご意志とは関係なく存続いたしますし、少々時間がたてばGoogleの検索などに引っかかって「黒古一夫」と検索すればごく上の方に出てくるブログになるでしょう。

黒古先生のブログの元記事は本文中に引用してありますが、先生がブログを閉鎖された場合には詳しい経過がわかるように先生のブログのスナップショットを引用として著作権法上許される形で適宜付け加えて読者の便宜に供することができます。ですので、先生がブログを閉鎖される場合でも、このブログの可読性はなんら損なわれませんのでご安心ください。