「歳をとると涙腺がゆるむ」…というのは、本当は正しくないのだろう。
ゆるむ人間は歳とは関わりなく、感じることへのタガがはずれ、より「共鳴しやすくなっている」のだ。
この、思い込みで仕切られた社会の上に拡がる「未だ名付けられていない場所」に、心がさまよい出ている。
これはある意味、やばい。
マルシャーク原作の「森は生きている」を観に行った。
超久しぶりの児童劇、かつて広大な森に覆われていた時代の、古い民話を下敷きとした作品。
原作「十二月物語」の題名の通り、一年十二月の月ごとに精霊がいるというアイディアそのものに、そしてこの作品が先の大戦時に書かれたということそのものに、大きく心揺さぶられる。つまり、舞台が始まっていきなり(ストーリーも何も進んでいないのに)、もう涙ぐんでいる。こいつは、やばい。
原題「十二月物語」を、「森は生きている」と意訳した、故・湯浅芳子氏の感性と発想を想うと、またまた心揺さぶられる。
何という着想、何というアイディア。
舞台の上では、動物が口々に喋っている。もう、いかん。何をしにきたんだか…
周囲のガキンチョ共よりも落ち着きなく、いちいち「おおお」なんて心の中で感嘆の叫びをあげながら、舞台を観ている自分がいる。最近、どんなコンサートでも、どんなアルバムを聴いても、こんなに目がユルんでることはない。もしかして、進む道を間違えたか??
…そういえば僕は、高校生の時に「二つ目の太陽」「エネルギーの同調・反転」をテーマにした壮大な物語を思い付き、それを具現化すべく、文化人類学と心理学、歴史や宗教学を学びたくて、フラフラ生活(拙著「空のささやき、鳥のうた」参照)の後、わざわざ大学受験したのだった。当時僕は、脚本から演出から、音楽から舞台衣装から…全て自分で手掛けた映画を撮ろうという計画を立てていたのだ。
そして気がつけば、卒業してから、えらく長い間、音楽家として暮らしている
(と言っても、音楽家としても、さまよってた時間の方が長いのだが)…いや、まぁそれはよい。
「森は生きている」のパンフレットに、故・湯浅芳子氏の言葉がある。
「子供が大切にされているようで、これほど冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられている時代はない。これは大人の責任だ。」
書かれた年号をみると、1963年とある。
そうか。冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられた時代に、僕たちは生まれているのか。
見渡す限り、プラスチックのような商品が行き交い、回収できそうなものごとにしかエネルギーをかけず、無意味を恐れるあまり、顔の見えない他者の群れに寄り添いながら生きようとする表現者たち…確かにそうかも知れない。
原作者マルシャークが、上演されてからも更に自ら手を加え、より良くしようと改訂台本を作り続けていた…という話も、大きく共感できる。そして、「踊りが生ぬるい」と、日を追うごとに演出家の罵詈雑言が激しくなり、(通し稽古の)スタジオが修羅場と化していった…という話や、80年代から5人も演出家が変わり、音楽や舞踊を理解しない人がほとんどだったので、舞踊は削られてゆく運命に晒されていた…が、数年前に復活した、という振付師による回顧、当時会社員だった倉本聡が連日会社をサボってモギリを手伝い、舞台に通っていた(奥さんはこの劇団初演時のまま娘役だったとか)という話も、興味津々だ。パンフレットを読んで、色々謎が氷解した。
なるほど。舞台が始まってすぐに漂い始めた一種の空気のようなものに、僕は引き寄せられ、ストーリーは何も進んでいないのに、妙に目頭があつくなっていたのだが…そこに漂っていたのは、そんな、この物語の背景に見え隠れしている、多くの人々の物語、作者や翻訳者の、この社会を見つめる熱い目線のようなものだったのだろう。
そして何より、この物語の根底にある
人間でないエネルギーと語らう、人間の感性と豊かさに、僕は心打たれたのである。
ゆるむ人間は歳とは関わりなく、感じることへのタガがはずれ、より「共鳴しやすくなっている」のだ。
この、思い込みで仕切られた社会の上に拡がる「未だ名付けられていない場所」に、心がさまよい出ている。
これはある意味、やばい。
マルシャーク原作の「森は生きている」を観に行った。
超久しぶりの児童劇、かつて広大な森に覆われていた時代の、古い民話を下敷きとした作品。
原作「十二月物語」の題名の通り、一年十二月の月ごとに精霊がいるというアイディアそのものに、そしてこの作品が先の大戦時に書かれたということそのものに、大きく心揺さぶられる。つまり、舞台が始まっていきなり(ストーリーも何も進んでいないのに)、もう涙ぐんでいる。こいつは、やばい。
原題「十二月物語」を、「森は生きている」と意訳した、故・湯浅芳子氏の感性と発想を想うと、またまた心揺さぶられる。
何という着想、何というアイディア。
舞台の上では、動物が口々に喋っている。もう、いかん。何をしにきたんだか…
周囲のガキンチョ共よりも落ち着きなく、いちいち「おおお」なんて心の中で感嘆の叫びをあげながら、舞台を観ている自分がいる。最近、どんなコンサートでも、どんなアルバムを聴いても、こんなに目がユルんでることはない。もしかして、進む道を間違えたか??
…そういえば僕は、高校生の時に「二つ目の太陽」「エネルギーの同調・反転」をテーマにした壮大な物語を思い付き、それを具現化すべく、文化人類学と心理学、歴史や宗教学を学びたくて、フラフラ生活(拙著「空のささやき、鳥のうた」参照)の後、わざわざ大学受験したのだった。当時僕は、脚本から演出から、音楽から舞台衣装から…全て自分で手掛けた映画を撮ろうという計画を立てていたのだ。
そして気がつけば、卒業してから、えらく長い間、音楽家として暮らしている
(と言っても、音楽家としても、さまよってた時間の方が長いのだが)…いや、まぁそれはよい。
「森は生きている」のパンフレットに、故・湯浅芳子氏の言葉がある。
「子供が大切にされているようで、これほど冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられている時代はない。これは大人の責任だ。」
書かれた年号をみると、1963年とある。
そうか。冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられた時代に、僕たちは生まれているのか。
見渡す限り、プラスチックのような商品が行き交い、回収できそうなものごとにしかエネルギーをかけず、無意味を恐れるあまり、顔の見えない他者の群れに寄り添いながら生きようとする表現者たち…確かにそうかも知れない。
原作者マルシャークが、上演されてからも更に自ら手を加え、より良くしようと改訂台本を作り続けていた…という話も、大きく共感できる。そして、「踊りが生ぬるい」と、日を追うごとに演出家の罵詈雑言が激しくなり、(通し稽古の)スタジオが修羅場と化していった…という話や、80年代から5人も演出家が変わり、音楽や舞踊を理解しない人がほとんどだったので、舞踊は削られてゆく運命に晒されていた…が、数年前に復活した、という振付師による回顧、当時会社員だった倉本聡が連日会社をサボってモギリを手伝い、舞台に通っていた(奥さんはこの劇団初演時のまま娘役だったとか)という話も、興味津々だ。パンフレットを読んで、色々謎が氷解した。
なるほど。舞台が始まってすぐに漂い始めた一種の空気のようなものに、僕は引き寄せられ、ストーリーは何も進んでいないのに、妙に目頭があつくなっていたのだが…そこに漂っていたのは、そんな、この物語の背景に見え隠れしている、多くの人々の物語、作者や翻訳者の、この社会を見つめる熱い目線のようなものだったのだろう。
そして何より、この物語の根底にある
人間でないエネルギーと語らう、人間の感性と豊かさに、僕は心打たれたのである。