タローさんちの、えんがわ

京都在住のアーティスト・きしもとタローの、日々をかきとめるブログ。音楽とか笛とか人とか…美しいものたち。

森は生きている

2014-01-28 18:00:16 | 日々を綴る
「歳をとると涙腺がゆるむ」…というのは、本当は正しくないのだろう。
ゆるむ人間は歳とは関わりなく、感じることへのタガがはずれ、より「共鳴しやすくなっている」のだ。
この、思い込みで仕切られた社会の上に拡がる「未だ名付けられていない場所」に、心がさまよい出ている。
これはある意味、やばい。

マルシャーク原作の「森は生きている」を観に行った。
超久しぶりの児童劇、かつて広大な森に覆われていた時代の、古い民話を下敷きとした作品。

原作「十二月物語」の題名の通り、一年十二月の月ごとに精霊がいるというアイディアそのものに、そしてこの作品が先の大戦時に書かれたということそのものに、大きく心揺さぶられる。つまり、舞台が始まっていきなり(ストーリーも何も進んでいないのに)、もう涙ぐんでいる。こいつは、やばい。

原題「十二月物語」を、「森は生きている」と意訳した、故・湯浅芳子氏の感性と発想を想うと、またまた心揺さぶられる。
何という着想、何というアイディア。

舞台の上では、動物が口々に喋っている。もう、いかん。何をしにきたんだか…
周囲のガキンチョ共よりも落ち着きなく、いちいち「おおお」なんて心の中で感嘆の叫びをあげながら、舞台を観ている自分がいる。最近、どんなコンサートでも、どんなアルバムを聴いても、こんなに目がユルんでることはない。もしかして、進む道を間違えたか??

…そういえば僕は、高校生の時に「二つ目の太陽」「エネルギーの同調・反転」をテーマにした壮大な物語を思い付き、それを具現化すべく、文化人類学と心理学、歴史や宗教学を学びたくて、フラフラ生活(拙著「空のささやき、鳥のうた」参照)の後、わざわざ大学受験したのだった。当時僕は、脚本から演出から、音楽から舞台衣装から…全て自分で手掛けた映画を撮ろうという計画を立てていたのだ。

そして気がつけば、卒業してから、えらく長い間、音楽家として暮らしている
(と言っても、音楽家としても、さまよってた時間の方が長いのだが)…いや、まぁそれはよい。

「森は生きている」のパンフレットに、故・湯浅芳子氏の言葉がある。
「子供が大切にされているようで、これほど冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられている時代はない。これは大人の責任だ。」

書かれた年号をみると、1963年とある。

そうか。冷淡に、本当の文化・芸術から遠ざけられた時代に、僕たちは生まれているのか。

見渡す限り、プラスチックのような商品が行き交い、回収できそうなものごとにしかエネルギーをかけず、無意味を恐れるあまり、顔の見えない他者の群れに寄り添いながら生きようとする表現者たち…確かにそうかも知れない。

原作者マルシャークが、上演されてからも更に自ら手を加え、より良くしようと改訂台本を作り続けていた…という話も、大きく共感できる。そして、「踊りが生ぬるい」と、日を追うごとに演出家の罵詈雑言が激しくなり、(通し稽古の)スタジオが修羅場と化していった…という話や、80年代から5人も演出家が変わり、音楽や舞踊を理解しない人がほとんどだったので、舞踊は削られてゆく運命に晒されていた…が、数年前に復活した、という振付師による回顧、当時会社員だった倉本聡が連日会社をサボってモギリを手伝い、舞台に通っていた(奥さんはこの劇団初演時のまま娘役だったとか)という話も、興味津々だ。パンフレットを読んで、色々謎が氷解した。

なるほど。舞台が始まってすぐに漂い始めた一種の空気のようなものに、僕は引き寄せられ、ストーリーは何も進んでいないのに、妙に目頭があつくなっていたのだが…そこに漂っていたのは、そんな、この物語の背景に見え隠れしている、多くの人々の物語、作者や翻訳者の、この社会を見つめる熱い目線のようなものだったのだろう。

そして何より、この物語の根底にある
人間でないエネルギーと語らう、人間の感性と豊かさに、僕は心打たれたのである。





今の自分に連なる、幾つかのこと①

2014-01-17 13:16:05 | 音楽の話
このところ、あれこれと鮮明に思い出す

まだ10代、20代になりたての頃…それ程までに、音楽家になるとは考えていなかったし、将来ここまで音楽をやることになるとは考えていなかった。けれど、音楽は今と同じく、僕にとっては既に特別なものだった。だから、新聞や雑誌、書店でパラパラとめくった本の中でも、音楽にまつわる記述には、いつも目がとまり、日常の中の音楽に関わる一つ一つの経験も、そのまま自分の人生の指針となってきた。思い起こせば、それらが現在の、自分の在り方の背景ともなっている。

そんな今の自分、今の音楽活動に連なる、幾つかの記憶、経験などを記しておきたい。

◆高校の頃だったと思う。第二次世界大戦時のナチスの収容所での出来事をあれこれ読んでいた中で、こんな物語があった。捕虜の中から音楽経験のある者が振り分けられ、収容所の中でオーケストラが編成された。次々と捕虜が処刑されるのを横目に、宿舎の中では小さなコンサートが行われる。軍の幹部や兵士たちは、自分たちの演奏に耳を傾け、涙を流している者もいる。仲間が処刑される中、自身も涙し自問自答しながら、それでも演奏を続ける音楽家。そこで、何が起こっていたのだろう。自分が音楽家として生活を始めてからも、ずっと心の片隅から消えることのない物語だ。

◆大学時代、シンクタンクのアルバイトで、音楽演奏や舞踊ショーを備えた飲食店の幾つかをリサーチするという仕事をした。とある南米料理店を訪れた時の事…南米出身の店主に、僕が昔からチリのビクトル・ハラの音楽が好きだということを口にしてしまったことで、店主の態度が一変。アイツはチリの音楽を暗いイメージにした、軍事クーデターは正しかったのだ、我々は機関銃で共産党員どもを「掃除」したのだ、それで国は良くなったのだ、と主張する店主。唖然としながらも、湧き上がる感情に我慢できず、言葉を挟もうとした所へ、店主の信奉者たち(全員日本人)が、たまたま大挙して入店してきた。その店主は、ビクトルの血縁者でありながら当時は軍政側の人間であり、そしてミュージシャンでもあった。ファン(中には批評家らしき人もいた)に囲まれ、とたんに機嫌を直した彼は、馴染みの客と僕に食事をふるまうと、ギターを片手にライブを始めた。拍手を送り、リズムをとり、バラード風の歌に涙ぐみ、声援を送る日本人ファンたち。僕はその光景を目前に、「ダダダダッ」と機関銃掃射する真似をしながら当時の出来事を、自身の武勇伝のように語っていた彼の姿を想い出していた。クーデター時のスタジアムで、最期まで歌い、全身に銃弾を浴びたというビクトルのことも、想い起しながら。ライブが終わるまで、席は立たなかった。出された食事は、残さず食べた。実のところ、怒りと疑問で、その場を動けなかったのだ。動くべきでもないと思った。

◆フォーク好きの父の影響もあって、僕は小学生の頃からフォークを聴いていた。岡林信康はその一人だ。ひょんなことで彼が書いた文章を読んだ。それは、美空ひばりとの想い出を記したものだった。若かりし岡林信康が、「音楽・歌は、自分にとって最大の自己表現の道具だと思う」と話したところ、美空ひばりが、「岡林さんは、いい歌も沢山作るのに、歌のことは何もご存じないのね」と話したという。歳を重ねた岡林信康が、当時を振り返り、こう書いている。「ひばりさん、ひばりさんが言っていたことの意味が、ようやくわかるようになったよ」と。僕は、作曲作品のみでアルバムを制作しているが、実は自己表現という言葉はあまり好きではない。音楽を自己表現だとも思っていないし、自分が自己表現の為に音楽をしているとも思えない。むしろ、自己とやらを溶かしたいと思ってやってきたようなところがある。だから岡林信康の言葉も、美空ひばりの言葉も、しんしんと心に響く。

2014年 ホーム・ページ&ブログ 新スタートによせて

2014-01-12 15:16:33 | 日々を綴る
ノラ夫が雨戸をあけまして、野生の力、おめでとうございます



さて、同じ言葉と写真で始まったFacebookでの新年投稿から、数日遅れる形にはなったけれど…2004年から10年に及び使ってきたHP「タローの世界!」もリニューアルすることとなり、このブログも新たなスタートを切ることになった。この数年間取り組んできた新アルバム&エッセイ「空のささやき、鳥のうた」も、昨年末ようやく完成し、晴れて僕は「次の活動」へと踏み出せることとなった。

ちょうどアルバム制作が本格的にスタートする(2011年春)頃から、震災や原発事故をはじめ、世の中では大きな出来事が幾つも続き、そんな出来事の一つ一つを眺めていると、今の時代がかつてない程、光と闇の両極端な揃い踏みの中で進んでいるのが、感じられる。

これまでも常に「そう在ろう」として生きてきたつもりではあるけれど、今年は、アーティストとしての在り方を改めて探求する年にしたいと思っている。僕には毎年、その年の言葉…静かに正月を過ごしていると、突然どこからともなく湧いてくる&降ってくる言葉があるのだが、今年の言葉は「真ん中に出よ」というものだった。

真ん中とは、世間の真ん中とか、何かの舞台の真ん中とか…そういう意味ではない。それは「人と、人の、間の、真ん中」という意味だ。そこは本来、表現を志すものが分け入ってゆく場であり、僕がずっと目指している場所だったのかも知れない。

言葉は、互いの間の真ん中に置かれて、はじめて言葉となる。何かとの間の、真ん中で発せられた音が、はじめて音楽と成り得るように。

声にしても音にしても、「より自分に寄った所」から発せられるなら、それらは実は「言葉にも音楽にも、成り得ていない」。幾ら言葉に聞こえようが、音楽に聴こえようが、幾ら言葉として扱われようが、音楽として扱われようが。「より誰かに寄った所」から発せられる声や音は、その誰かにとっての、何らかの道具にしか、成り得ていないのだから。

この世の中には、言葉でも音楽でもない、声や音の羅列が、何者かの「道具」となって、右へ左へと行き交っている。それらはこの社会で、誰かに何かをもたらしているかも知れないが、実際には、使われるだけの道具となって、あちらこちらを浮遊したまま、行き場所を失っている。だから僕たちの社会は、こんな風になっているのだ。

年の初めの言葉が「命令形」のような形で浮かんだのは、初めてのことだった。ちなみに去年は「迎える」、その前は「動く」、その前は「生まれ変わる」、その前は「引きずらない」。毎年、何かの折に触れては、これらの言葉について考えさせられ、過ごしてきた。この「真ん中に出よ」は、今年2014年、僕に何度も、考えるきっかけを与える言葉になるに違いない。

アルバム&エッセイの制作が終わって、机の前から解放されやすくなったことで、今まで以上に、音楽や楽器への探求は強くなるかも知れない。でも一方で、今の僕が最もワクワクするのは、「社会をかえてゆく」きっかけとなる、「関わりの中での進化」について、それに向かって自分ができる行動を探求することだ。音楽家…という「在り方」を首からぶら下げずに、世の中に出て、世間をわたる人間となりたい。今回の作品、「空のささやき、鳥のうた」に書き綴ったことの、まさに「続き」を、表現してゆく年にしたいと思っている。