てつがくカフェ@ふくしま

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第8回本deてつがくカフェ報告―『わがままに生きる哲学』―

2016年05月08日 18時39分06秒 | 本deてつがくカフェ記録
今回は、この4月に出版されました、多世代文化工房著『わがままに生きる哲学』(はるか書房)を課題図書とした哲学カフェを開催しました。
参加者は24名。
その中には、著者である佐藤和夫さんと片山南美子さんにも参加していただき、「わがまま」な議論が展開されました

●僕はわがままな人が嫌いで、職業上わがままな人に振り回されているんですが、皆さんは「わがまま」を好意的に受け取っているのか、そうではないのか。そこをまず確認させてもらえばなと思います。

●なんで嫌いなの?

●常にわがままな人にはふりまわされて、結局その人の「わがまま」を追認させられるというか、そんな否定的なイメージしかないです。

●僕も大人の「わがまま」は嫌いですが、子どもの「わがまま」は、まぁ受け入れられます。今回の哲カフェに参加するにあたって、「わがまま」っていったいどういうことなんだろうと始めから考えて読みましたが、僕も人生相談を読むのは好きで、新聞なんかではお気に入りの人の時しか読みません。この本の場合、三人くらいが回答者となっていてこれまでの人生相談とは異なるなと思いました。実践人生経験が豊かな人ばかりが描いているのが印象的です。「わがまま」について、現代社会における問題を扱いながら各々が回答しているスタイルがよかったなと思います。結局は、「わがまま」とはあるがままに生きるということなのかな、というのが結論です。

●この本を一読してみて、読みやすかったところと、読みにくかったところに分かれました。自分に関係がなく、割と客観視できるところは読みやすかったけれど、自分自身の問題と重なって身につまされて苦しかったところは、一気に読めなかったです。外で読んだり暗くしたり読んだりしました。自分に当てはまるところが読みにくかったのは、知りたいけれど知りたくないという感情が生じるからなのだと思います。自分の悩んでいる内容について回答を読むと、理屈ではわかるけれど、「でもさ」って言いたくなるところもある。その葛藤の中で読みにくかったのだと思います。

●冒頭にいきなり「暗い時代だ」という言葉があるけれど、この言葉についてどうなのかと考えました。私が小さい頃は貧しいのが当たり前の時代で、高度成長の時代は先が開けてきたという感じがあったんですね。でも自分の子供なんかを見ていると将来が見えない。これからの若い人たちにとっては暗い時代だというのは頷けると思いました。本の最後の方を読むと、けっきょく「わがまま」に生きるということは、いろんなユニークな生き方をしなさいということなのだろうなと思いました。皆が同じ方向を目指しすぎているので、それぞれの生き方をしなさいというのは同感です。自分本位で「わがまま」を肯定する。あまり周囲に流されずに、自分らしく生きなさいと言うことなのだろう、と。

●夏目漱石の「自己本位」というのがこの本でのわがままの一つなのかなと思っていましたけれど。

●自己本位って引き受け感がある人をイメージするんだけれど、僕が「わがまま」を否定的に評価してしまうのは「自分勝手」というイメージしかないからなのかな。僕が念頭に置いているのは、未成年で、自己本位に生きることを模索する人たちは割と自分のことを責任をもって引き受けられる大人なのだと思うんです。

●その「自分勝手なわがまま」の例を一つ挙げてください。

●たとえば、「5千円もかけて行く意味がない」といって、学校行事の遠足を拒否する生徒がいるんです。それはそうなんだけれど…

●今の例で思ったのは、自分の思いを言えない人と言える人がいて、自己表現ができて自分を大切にするという点では、私はその「わがまま」を肯定したいと思います。そこには先生と生徒という立場の違いによって葛藤があるのかもしれませんが。

●自己表現があって、生徒と教師の対話が発生するというのは重要だと思っているけれど、組織の人間としてふるまわなければいけない中で、それは何とも肯定しがたい自分もいます。声を上げて社会が変わっていくということもありうることはわかるし、その理屈はわかるんだけれど……。

●子どもたちにとっての「わがまま」を取り上げるときと、大人にとっての「わがまま」を取り上げるのは違うなと思いました。「自己本位」から始めたいというのは、みんなが思っていることだと思うけれど、そこには自分のことを考えることが、同時に他人のためになるんじゃないかということではないでしょうか。そのことが、この本の全般に貫かれているんじゃないかな。この本の回答には、その意味での自己本位をもって社会の中で生きられればいいのにねというのが通底している。

●大人なら「自己本位」の意味を分かったうえで、ちゃんとやってほしいのにそういう大人が少ないということですね。子どもの「わがまま」を許せるのは、その意味を今は知らなくても、対話を通してこれから関係を作っていく途上にある人だから許せるのだと思います。でも、大人でその意味を知っている人がもう少し増えてもいいと思う。

●153ページで、「当事者にしか理解できない何か」とあるんだけれど、ここが「わがまま」のことを示しているのではないかなと思う。他者にはわからないけれど、でもどうしても他者に頼らざるを得ないもの。けれど、それがなかなか人には伝わらないものというか。

●少し話の内容が抽象的になっているので、ちょっとここで本に関して尋ねてみたいんですけれど、この本の人生相談で関心を持つところは世代によって異なるものなんですか?

●第4章の「おカネに縛られずに生きる」というのが惹かれました。

●40代後半ですが、圧倒的に第3章「家族とパートナーシップをくみかえる」がおもしろかった。というのは、その他の章というのはステレオタイプで聞かれるのですが、この章だけは他の章と異なる印象というか、インパクトがあります。たぶん、他の章はそれを突き抜ければ何とかいけそうなんだけれど、この家族の問題だけは切実で、それこそわかってはいるけれどできないというか、直視できない。けれど、それを突破する痛快さがありました。

●60に近い年齢ですが、子どもが30代なので、第4章の「おカネと仕事にしばられずに生きる」ですね。共感できる。たしかに、先ほどの意見にもあったけれど、観たくないんだけれど、答えを読むとつらくて読めないんだけれど。

●60代だけれど、次々と職探しに苦労している親戚の子を念頭に置くと、第1章「人生の不安をふりきる」と第2章「わかりあえない関係を生きる」を読ませたいと思っていました。けれど、だんだん先を読み進めていくと、第3章第4章なんて、読ませちゃまずいんじゃないかと思うようになった。キケンすぎる。けれど、やっぱり第3章が一番面白かった。自分も60歳になったら、家族を解消したほうがいいんじゃないかなと思っていたので、それをまさに論じているところがあって共感しました。

●なぜ、60歳になったら家族を解消したいと思ったんですか?

●それまでは子どもに対する責任があるけれど、人まず親の責任を果たし終えたところで、夫婦で我慢してきたところをいったん解消して、お互いに自由になろうと思いまして。

●60で夫婦関係を解消した後、もう一度同じ相手とパートナー関係をもちたいですか?

●なりたいですよ。相手次第ですが。

●著者から各相談内容と世代の関心をリンクさせる質問が出されたのは意外でしたが、そういう意図があって編集したんですか?

●以前、この本を何人かの人に読んでもらったところ、たまたまか年齢の違いによって関心を持つ相談内容が違うことがあって、それが印象に残っていたからです。特に編集上、世代によって関心事が異なるかどうかまでは意図していなかったと思います。この場では、割と年配の方から本の人生相談に関して意見が出されましたが、それを聞いて若い世代の方々はどう思われたのでしょうか?

●私は20代で、割と妊婦さんや母親が来る職場なんですが、113ページを読むまでは、出産とか子育てを幸せだと思っていたんだけれど、色々読んだり意見を聞いたりする中でわからなくなりました。

●読んでいてつらいところもあるのですが、若い人ほどすっと読めると思う。というのも、年齢を重ねると色々な経験を重ねていくので、この本で引っかかる場面が多くなるような気がする。人生相談の回答コメントを読むと、わかっているんだけれどできない自分がいます。ただ、それが第1章、第2章、第4章は割り切れればいけるところがあるけれど、第3章はちがう。あまりにも自分の現実的な悩みに近すぎて生々しすぎる。その中で、特に家族を相互扶助の保険契約システムという考え方がとても興味を持ちました。自分の親の介護とか生きづらさを考えると、その意味がよくわかる。でも、「わがまま」に生きることにうらやましさを感じてしまう自分がいます。

●58ページにある「自己本位」と「わがまま」がイコールにならない。「自己本位」の人のように他者の自己本位を尊重できるということなのでしょう。

●「わがまま」という言葉は、やっぱり一般的にはネガティブなイメージがあると思います。それをポジティブな意味に反転させているところに本書の意味はあるんだけれど、僕にとって、他人の自己本位を認めながら自己本位に生きている人のイメージは、まさに佐藤さんなんですね。

●「わがまま」の意味をネガからポジに反転させているというのは、そのとおりだと思いました。204ページにある「生き方の大転換が必要だ」という言葉や、「時代の転換期」という言葉に、今まで安定していた環境が変わってどれが正しいかわからないという意味で、「わがまま」に生きるのが最適な生き方になったという意味なのではないでしょか。

●私の人生の大転換期として、38歳のころに一人になりたいという欲求が生まれたんですね。それまでは一人になりたいという欲求が生まれるのは、妻の他に好きな人ができたとか言われるんだけれど、そうではなくて単に「一人になりたい」という欲求が生じた問題を研究してみたことがあります。それについて文章に書いたのは男性にはいないけれど女性にはいたんです。その代表的な人はバージニア・ウルフ。そういう心を持っている人がいるのだということを知って、自分の中に持っている感情をうまく肯定できたんですね。そのことを考えてみると、世の中に示しちゃいけないという感情があると思うんですが、それについては皆さんはどうですか?たとえば、与謝野晶子の「君に死に給うことなかれ」という発言がそうだと思うんですが、戦争時代には「そんなこといっちゃいけないだろう」という世間一般の圧力がある。けれど、そうした思いを声にだせないという問題をどう考えるか、ということなんですが。

●そんなのいっぱいありますよね。実行したら犯罪になるということもあるし。文化の中によって言っちゃいけないこと、やっちゃいけないこともあるわけで。それを全部言ってしまえばいいのかと疑問に思う。賛成する人もいれば不愉快に思う人もいるし。苦労しなきゃイイ人になれないという世の中の価値観があるじゃないですか。だから、ぐっとその思いを我慢しなければいけないと生きていかなければならないと思います。

●最近、印象に残った言葉の中に、「しょせん、人生は芝居でしょ」というのがありました。つまり、役割を演じているのが大半で、対外的には制度・慣習の枠組みの中に合わせて生きている。でも、自分の中ではもっとこうした方がいいのにということが、先ほど60歳になったら家族は解散することを制度化した方がいいということにつながったんです。

●40代前半ですが、一番面白かったのは「家族の卒業」で、それを子どもの立場で親に言うことは想定していなかったけれど、子供世代からではなく親世代の方から家族の卒業旅行をしたという話が提起されたことが印象的でした。「わがまま」に関して言うと、「自己本位」になることで誰かを翻弄するかもしれませんが、そうすることによって救われる人もいる。「わがままな人」は、他者を責めない人が多い気がします。我慢している人ほど他者を批判するような気がしていて、それはなぜかというと自分を抑圧しているが故の結果なのだと思うのです。その点、「自己本位」になれる人は、自分が解放されている分だけ誰かを縛る欲求が生まれないのではないでしょうか。それと「わがまま」には、自分の中でもっている「わがまま」という感情と、次にその「わがまま」を他者に対してどう表現するかという2段階があると思います。この本で論じられている「わがまま」は、その第2段階だと思います。

●難しいところは、「俺、一人になりたいんだよ」といわれたら、妻は衝撃を受けるんだと思うんです。こうした人生の問題についてパートナーと一緒に考えるときに、私は3人以上の中で話し合わなければいけないという原則を持っています。つまり、一対一の対話では、どうしても行き詰ったり、関係を悪化させてしまう対話になってしまうんですね。
●その場合に、三番目の人はどう選ぶのですか?

●離婚の危機の時は親友を呼びました。家族の問題に関しては家族だけで話し合うのは難しいです。

●今の話を聴いて、私にも同じようなケースがあって、夫と二人で話すとわがままになり、話し合いをファミレスでするようにしたんですね。そうしたら夫は紳士的に話したので、誰かの目の届かない二人だけの空間では、暴力的にわがままになってしまうというのは経験的に理解できます。

●それに関して言うと、私には「神様」がいて、「神様」がいると想定して、つまり自分たち夫婦の間に自分たちを超えたものを想定して話しています。

●今の意見でまた思い出したんですが、私の頭上から光のシャワーがあると思っていて、その光のシャワーが降り注いでいると感じるときには、誰かの眼がなくてもお互いに冷静に話し合えるということがあります。

●一応、哲学的なことを言うと、アリストテレスという人は家族の関係は独裁的になるといっていますが、それは公的な光が届かない領域だからというのですね。その公的なものというのは今おっしゃったように、家族にも光を照らせばそうした危険性を回避できるのかもしれませんね。

●今の話で思い出したのは、コールバーグの道徳性の発達の理論です。これは、簡単に言うと道徳は下のレベルから言うと怒られるから善い行いをする、次に他者(世間)の目を気にして善い行いをする、最終的には神の目お天道様が見ているから道徳的にふるまうという段階に意識は発達するという理論です。その光のシャワーというのは、そこで言い神様やおてんとうさまのイメージなのかなと思いました。

●そこでいう「光」というのは見られているということだと思いますが。それは常識の範囲内でふるまうということになると、わがままにふるまえないということではないですか。すると、「光」と「わがまま」にふるまうということとは、どう関係するのでしょうか?

●光のシャワーのレベルは、夫の要求にしても魂のレベルで合意ができたねという経験をしました。

●今までの話を聞いていると、自分が常識的なものにとらわれているから、逆に「わがまま」にふるまえる人を羨ましい思う気持ちが働き、自分を「わがまま嫌い」にさせたのではないかと思いました。

●わがままに生きたいし自己本位で期待と思うけれど、それを邪魔しているものは何かと思うと、世間だったり慣習だったりが邪魔するんですよね。じゃ、それがなくなっていいのかといえば、それはないでしょう。自分自身の声が聞こえてくると書いてあるけれど、40歳後半になってもそれが明確に聞こえてこない。じゃ、それらを全部一蹴できるかというと、それもできない。そのせめぎあいなんですね。だから、「自己本位」とか「わがまま」ということが問題化できる。でも、皆がわがままに生きちゃったら「わがまま」が成立しないんじゃないかな。皆が「わがまま」に生きたら、「わがまま」に生きられないということになるんじゃないか。

●いや、むしろみんなが「わがまま」に生きるようになったら、それを超えた何かが出てくるのだと思う。みんなが「わがまま」になって肯定しあって、それが肯定して成り立つ社会になったならば、次に出てくるのは、いま私たちが考えてくる「わがまま」を超えた何かが出てくるのではないでしょうか。

●今の議論に出ている「わがまま」は、「自己本位」を意味しているのでしょうか。それとも、ネガティブな意味での「わがまま」なのでしょうか。

●たしかに混乱して「わがまま」という言葉を使ってしまいましたね。最初は「自己本位」という意味での「わがまま」だったのですが、後半はごっちゃになってしまっていたかな。

●ちょっと、自分を抑圧しているものを捨てきれない。それを本当に捨てきっちゃっていいのかと考えちゃうんですね。世捨て人になりたいとは思わないので。

●ここに集まっている人は、「わがままな人」が多いと思いますが、みんな本当に自由になりたいんでしょうか?僕は、ちょっとだけ日本は自由になりたい人が増えてもいいと思うんですが、自由になんかならないで楽したい人って多いんじゃないかな。皆が自由になりたいということを前提として話し合いを進めていること自体がおかしいんじゃないかな。

●それぞれが思うように生きることができるというのが「わがまま」なんじゃない。だから楽をしたいということも含めて、それを選んでいるのが「わがまま」ということでしょう。

●自分で決定することが「わがまま」なんだと思うけれど、決定したくない人が多すぎるような気がする。

●「楽だから自由なんていらない」という人が増えれば、今の政権のトップが正しいんだという人が多くなって、結局、全体主義みたいな事態になりかねないんじゃないでしょうか。

●僕は〇〇長とか総理大臣なんか、とてもなりたいと思わない人間なんです。それはなぜかというと、「わがまま」には次元があるんじゃないかと思うのです。自分の人生については「わがまま」になれるけれど、首相をするレベルでそれを実現してしまっては、膨大な他者を傷つけてしまうでしょう。だから、どう公平にふるまおうとしても首相になった以上、1億3千万人全員に公平に振舞うことは不可能です。ある政治家と会合を持ったとき、「あなたはもしかして政治は全員が幸福になるような営みだと思っているんですか?それは勘違いですよ。政治は誰かの犠牲の上に成り立っているんです」と言われたことがあります。つまり権力を行使するというレベルで、「わがまま」を実現するととてつもない加害者になってしまう。実は、若い人が自由を放棄するというのは、「楽だから」というよりも、この「わがまま」を行使するレベルを混同してしまっていて、自分が他者を傷つける加害者になるくらいなら被害者でいた方がいいという思いの現れなんじゃないかな。

●たしかに、決定しなければならない問題を他者に譲っちゃったり、決めたくない、決めなくて楽でいられるという風潮は、決定することは他者に迷惑をかけるという葛藤が若い人の中にあるのかもしれません。

●断ってもいいんだということを知っているのと知らないで育つのでは大きな差があります。お見合いは断っていいんだということを知っていれば、断っていたのにと、お見合い結婚した自分の経験を思い出します。人と人とのコミュニケーションを育てずに生きてきちゃうと、自分のわがままをニュートラルに出せないのかなと思いました。

●「断ることもできたんだ」と選択肢の問題は、ブラック企業の問題でもありますね。そこから抜け出ることも難しいし、エネルギーが要りますよね。それに疲弊し、「仕方がない」と悶々と毎日を過ごしている若者が多いと思いますが、ただ仕方がないんだというんじゃなくて、自分だけじゃなくてみんなで変えようという動きが労組なんかと相まって動き出さなきゃいけないと思います。

●私の研究したところによると、過労死してしまった人の多くは、「いやだ」という感情を持たないで、「申し訳ない」と思うようです。ある女性が「生きるということは社会的義務を果たすことだ」と私に話してくれたことがあるのですが、じゃ、それを果たした先にあなたの人生の何があるんだと絶句してしまったことがあります。

●「わがまま権」があるのに、それを知らずに行使できない状態があまりにも日本は多すぎるんじゃないかな。

●農家がみんな自民党を支持することとも関係すると思います。自民党を支持しなくてもいいということを知らないんじゃないかとしか思えないんですよ。TPPなんて自分たちを苦しめるような政策を決めた政党を、なぜ選ぶのか理解不能ですが、たぶん彼らは「選ばない」という選択肢を知らないだけなんじゃないかとしか思えないんです。

●選択権があるのに行使しないということには共感します。その業界の分断を生んでいるのは事実です。

●そもそもどっかでみんな加害者意識を持っているがゆえに、わがままを攻撃しているのではないでしょうか。生きづらさはわかっているけれど、その加害者性を知っているがゆえに黙ってしまうのではないか。

●時間も少なくなってきました。最後に聞きたいのですが、この本は制作するにあたって世代間の差を意識したのですか?

●制作した当初は、それを想定したんだけれど、生き難さという問題は世代間の差ではないということがわかりました。よく若い世代は年配の世代の話なんか聞いていられないというし、上の世代は「今時鵜の若い者は」と言いがちですが、問題に対して世代間の経験の違いはあるけれど、問題それ自体を考えること自体には世代の差はないということが、この出版計画を通じて発見したことでした。

●私自身は世代によって考え方の違いはあると思います。世代の持つ悩みというのは実際のところあると思います。私は40代ですが、若い世代が直面しているブラック企業の問題なんかはわからないし。

●だから世代の違いというのは問題のぶつかり方なんだろうということですね。

●「わがまま」を抑えきれるというのは、どういうものなのかなと聞きたいです。つまり、自分の「わがまま」を、皆さんどうやってコントロールできているのかなというのが一番気になっています。

●20代です。公私ともに「わがまま」だと思いますが、「わがまま」であることを「わがまま」だよと突っ込んでくれる人がいるから、自分は「わがまま」にふるまえていると思います。

●私は自己決定を大事にしてはいるけれど、あなたは「わがまま」だとよく言われると、そうかと気づかされる。

●40歳になったばかりだけれど、30歳まではレールの上を歩かされてきて、その抑圧者であった祖父が死んだことで、家族全員が解放されました。それ以来、「わがまま」になりすぎて、こまっちゃっているんですけれど、40歳になったことで、わがままを応援し、認めてくれる年上の人も多くて、それで今は逆に「わがまま」をどうすればいいんだろうと悩んでいます。決められていた方が楽だと思うようになっています。

●自分をコントロールできる力ということで、自分の場合は人に決めてもらった場合は、他人のせいにできるけれど、自分で決めると不利益は自分で責任を取らなくてはいけないし、それが不安で怖いのでそれを避けています。被害者感覚の方が,後でつらいことがあったときも人のせいにできるということです。

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2 コメント

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感想を書きました。 (foxydog)
2016-05-09 21:51:03
お世話になりました。とっても楽しい時間をありがとうございました。

こちらに 今回の本deてつカフェについて感想を書きました。よろしかったらのぞいてみてください。

http://blog.goo.ne.jp/foxydogfrom1999/e/b3f1ab4ee51f869f9b9ad80fc3cc9564
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ジブンを燃やし、わがままになれ!? (ベンジャミン)
2016-05-10 13:31:42
『わがままに生きる哲学』で「てつがくカフェ」した翌日の新聞に、『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』栗原康 著・岩波書店刊の書評を見つけて、取り消しのつかない失敗をしてしまった気分に襲われた。絶対忘れてはならぬ人を忘れたまま、この書評を読み初めてもなお思い至らず、突如眩暈に襲われ、やっとソノコトに気付いたのだから。彼女を呼び出さなくて何が「わがまま」を考える!だ。よりによって、どうやって伊藤野枝を忘れたままでいられたのだ!?…と。

つまりはこういう「不足不明の知性」の内で空回りしてるだけの「考え」でもって哲学だなんて、チョー笑える!!と、娘がいたらいわれそうだ(いないんだけど)。『わがままに生きる哲学』の中でもほとんど野枝のすぐ隣りで話し合っている感があったはずなのに、どうしてそこに彼女がいることに気付かないまま、2時間を終えてしまうことができたのだろう……と。

感じ方(考え方)がすっかり目先のことに埋没してはまってしまった、そういうことなのだろう。こういうことが日常化してしまって、因習・慣習のくびきと化し、ほだしとなる、そういうモンダイが「わがまま」の腑分けでもあったはずだ。ずいぶん根源的に考え「わがまま」を捉えようと苦吟したつもりでいたが、彼女にまったく触れもせで、おめおめと帰ってきてしまったものだ……。


……というような沈んだ気分で、早々にアップされた「報告」を読みながら反省していると、んん? まったく別の思いが湧いてきた。「ここに参加する人はもっともっとわがままにこの場を利用しないとイケナイ!」のではないか、という一種の危機感(?)のような思いだ。

当日の騒音のせいもあったのだろうか、せっかくの発言や問いかけが、案外かみあわないままに流れてしまってる(自分としても流れにまかせてしまっている)、そんな気がしたのだ。参加者は、もっと貪欲に自分の思い感想考えにこだわって、欲する答えを得ようとしていいのに、どこかで遠慮し猶予し合ってしまっているカンジ…。でも、それじゃあ物足りなさや食いきれなさが残り、せっかくの発言のオモシロサも宙に浮き始める…。自分の問題意識(こだわり)においてはもっと食いつき、食い下がってわがままを発揮し合あうべきではないか。その対話の舵取りは手練れの世話人に頼る、そういうスタンスの方が、互いの話もより噛み合って、内容も深められるのでは──と、そんな思いがした。


カフェの進め方についてリピーターからの提言もあったが、それにもつながる思いだ。さすがに「てつがくカフェ@ふくしま」5周年、その積み重ねにふさわしい、いわばさらなる洗練というか「初心の鍛錬」への思いなどが醸し出され始めたということだろう。先に述べたこととの兼ね合いでいえば、「場」としてのカフェについてのユメ(目的?)を共有しはじめている回数を積んだ参加者は、この「場」およびカフェの濃淡にかかわる「わがまま仕掛け」の役どころを、ちょっと意識して臨んでみてはどうだろうか。つまり、掲げられたテーマに関しての自分の目的(こだわり)を持ち、そのためにこの「カフェ」を利用するというキモチのギアを上げてて(下げてローギアでぐいぐい!?)参加する!

…って、伊藤野枝を思い出せぬような余裕の無いジブン、なかなかできそうな気はしない。せめて次回は「これまで以上に遠慮なく!」を目指してみよう。

………………

それにしても7日のカフェと8日の新聞との陰陽合体的な符合は、自分の胡乱さを打ちのめししょげさせものでありながらも、同時に、ちょっとした神がかり体験でもあるかのような痛快さも催してくれた。霧に巻かれた解明の山道が一気に晴れて、間近に聳えている頂上が眼に飛び込んできたときのような!求めよ、さらば…!!!の出遭い、これこそが「てつカフェ」のおいしさであり、さらに深まる醍醐味だ。

人間も世界もいまここわたしたち自身の本当の豊かさをまだまだ知らず、その生き方・生かし方を確かにすることができないでいる。東日本大震災・原発事故はそれこそが「ふくしまからはじめる」ものでなければならないとの開示であり、判決裁定だったはず…との思いをかみしめながら、今回も参加された皆さんの命がけの知のお裾分けに感謝です。
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