富士スバル 太田店

今日もありがとう!!

拝啓、百瀬 晋六さま・・・「ほぼ週刊すなブロ」

2011-05-10 20:48:29 | すなブロ

GW明け如何お過ごしでしょうか?当太田店はスタッフ全員元気100倍にぎやかに営業中です。4月17日より「すなブロ」をはじめさせて頂き今回で6回目ですが、地元太田を中心に反響の多さにびっくりしている今日この頃です。

「すなブロ見たよ!」と会社訪問時、ご来店時等、お声掛け頂けることが最高の喜びになっている今日この頃です。

そこで今回は、マニアックなお客様のご意見に、お応えして、スバルの礎(いしずえ)を築いた百瀬晋六さんについて「すなブロ」します。

百瀬さんは、1919年(大正8年)2月に長野県塩尻市の造酒家の家に生まれました。松本高等学校 (旧制)を経て1939年東京帝国大学工学部航空学科へ入学し原動機を専攻。1941年12月の卒業と同時に中島飛行機株式会社に入社。戦闘機用「」エンジンの設計・改造(高高度用過給機の追加)に従事されました。

敗戦後、中島コンツェルンの財閥解体に伴い、伊勢崎工場を継承した富士自動車工業(株)に転じ、1949年に航空機技術を生かしたフレームレス構造リアエンジンバス「ふじ号」を開発。「ふじ号」とは、いすゞ製BX91G型リヤアクスルを使用し、民生ディーゼル製KD2型60psエンジンを縦置きに搭載した国産初のフレームレスモノコックR5型ボディのリヤエンジンバスです。(マニアックですみません。

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「ふじ号」は産業遺産として富士重工業㈱群馬製作所伊勢崎工場正門脇に保存されています。

その後の日本のバス設計に大きな影響を与え、富士自動車工業の後進である富士重工業㈱がその後大手バスボディメーカーとして発展する基礎を築かれました。残念ながら私は直接ご教授頂けませんでしたが、新卒で、バス設計部に配属になり当時の上司に百瀬さんの門下生が沢山いらっしゃいまして多くの百瀬語録を教えて頂きました。

①「出来ねーって言うことは、やる気が、ねーからだ!」

②「何とか出来るはずだ。不可能は無い。」

③「自分のやった仕事は、誰にも負けねー自信をもて。」

④「上に立つものは、手を汚せ!汗をかけ!」

⑤「やってみなけりゃ、わかんねーじゃねーか!」

⑥「一ヶ所だけでなく、全体を見ろ!」

等々沢山の語録があり、豪快な方の様ですが、実は大変面倒見が良く繊細なお人柄の方だそうです。

富士重工業㈱が1954年に自動車生産進出のための第1号試作車、スバル1500(コードネームP-1)を開発。当時としては画期的なモノコックボディ・前輪独立サスペンションを採用した画期的なクルマでした。

Subaru_1500

現在は、当店のすぐ近くの富士重工業㈱群馬製作所矢島工場内ビジターセンターに展示してありますが、私が新入社員の頃は、伊勢崎工場の試作工場の奥に置いてありました。

その後、NHK「プロジェクトX(エックス)」でおなじみのスバル360の開発を主導されます。

今日はこの辺で、スバルの歴史の時間を終わりにします。(この続きは、またいつか・・・)

私たちは、偉大なる諸先輩方が、自由闊達に独創的なクルマづくりを開拓され、いまでもその「パイオニア・スピリッツ」が脈々と生き続けているスバル車をお客様に直接お届け出来、お客様の一番近いところに居られることを日々感謝し誇りを持ってカーライフのお手伝いをさせて頂いております。

今後ともよろしくお願い申し上げます。


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