Re:SALOON & VBA

【OUTSIDER】序章

アウトサイダー論の予告をしたくせに、40日以上も書き始められないでいる。
理由は、言うまでもない「怠惰」故。
まあ、この間、新型コロナになり、体調を、著しく崩したというのもあるけど。

久し振りに、何もしないでもいい、土日なので、
書いてみようかと・・・

「ライ麦畑で捕まえて」を読んだのは、いつだったか、
勿論、憶えていない。ほぼ半世紀前。
物凄く、世界で、読まれているというのを聞いて、
人気小説、是非、読まねば、きっと、人を引き付ける要因、理由があるに違いない。

でも、何も引っかからなかった。惹かれる部分が分からないでいた。

そのストーリーも、まったく、憶えていないが、
題名の由来、
ライ麦畑から、落ちそうになる、子供達を、捕まえる人になりたい。
落ちないように、救ってあげたい。
これは、主人公自身が、実は、捕まえてほしかったと言っているのだと思う。

実は、小学生時代の一番仲良かった友人と、半世紀ぶりに機会があり、出会えて
LINEを交換、いろいろな話が出た中で、
僕が文学部卒ということもあり、好きな文学作品は何という話題になり
彼があげて来た小説が、「華麗なるギャツビー」とこの「ライ麦畑で捕まえて」
だった。
彼は、もう定年退職しているが、小学校教諭だった。
つまり、「ライ麦畑で捕まえ」る人になっていた、という訳。

実は、この小説、
僕には、全然、響かなかった。
彼が、よかったという小説、僕には、全然、響かないテーマ
何故なんだろうな・・・と
考えて、思いついたのが、この「アウトサイダー」論という訳。

僕が、響かなかったのは、「ライ麦畑」の外=「アウトサイダー」に
既にいて、捕まえたいとも、捕まえられたいとも、思っていなかったということだと思う。

じゃあ、この「ライ麦畑」というのは、何なのか、
何を象徴、意味しているのか・・・
というと

常識、既存価値観、集合体の暗黙価値観・・・
世間体・・・
など、
暗黙の裡に、多くの人が目指している価値観の囲いのようなもの
を、表現していると思う。

無垢な精神と表現している評論もあるけれども
そして、大人に成って、汚れてしまうことを、「ライ麦畑」から、落ちてしまうと
表現しているという解釈もあるけれども

人間の集合体、社会の共通の価値観があって、
ある程度、僕らは、その大勢の価値観に縛られている。
ボーっと生きているんじゃねぇよ
と、チコちゃんに叱られてしまうけれども、
一々、その理由、由来を知らずに、価値のあるものとして、
その前提で、共有している価値観の中で、僕らは生活している。

「決め・分け」論で追求して来た、
「決め」たいは、その「ライ麦畑」の中の価値観に、従っている。
「分かりたいは、どんどん、分解して、拡大していく方向性なので、
「分かりたい」が度を超えて来ると、「ライ麦畑」の外へも出てしまう。

もともと、「分かりたい」派で、その傾向のある僕は、
さて、自分の立ち位置を見た時、
ああ、「ライ麦畑」の外に立っている自分を発見してしまう。

「ライ麦畑」から、落ちてしまうという恐怖も、
「ライ麦畑」から落ちないように捕まえてもらいたいという、期待、願いも
なかった
ということなのだろうと思う。
寧ろ、捕まえないで、つまり、「ライ麦畑」に連れ戻さないで欲しいと
思って仕舞っているる。

多分、「ライ麦畑」の中で安住している人には、
何んのことを言っているのか、ちんぶんかんぷんな言説でしたないこの文章。

果たして、この文章を読んでくれる人があるのかどうかは
分からないが、序章としたい。

コメント一覧

frontflug
ちんぶんかんぷんをどうにか、想像がつく、
よく分からないが、何となく、言いたい気持ちは類推できるというところまで
説明したいのだが、なかなか難しい。

実は、それことが、「アウトサイダー」の「アウトサイダー」たる所以なのだが・・・

つまり、「ライ麦畑」の中に居れば、外のことは理解できない。
井の中の蛙大海を知らず
なんてことが言いたい訳ではない。
井戸の中で、世界が完結するのであれば、外に出る必要はない。

僕は、元から「アウトサイダー」を自覚していた訳ではない。
「ライ麦畑」の外に世界があるとも思っていなかった。

でも、自分が、中心にいる感じはしていなかった。

僕は、文学部卒なのだが、
小学・中学と、国語は苦手な教科だった。
漢字、熟語、文法などの学習科目だが、
国語はまた、小説、評論などの文学作品の読解、解釈、鑑賞の教科でもある。
作者の意図をくみ取る、登場人物の思いを文章から、読み取る
そういう教科でもあると思う。
国語の教師、テストで求められる、作者の意図、テーマについて、
求められている「正解」と、自分だったら、どう感じるが一致しない。
自分の思ったこと、感じたことをそのまま、表現、回答してはいけない。
国語の正解は、「普通の人」が、どう感じるか、どう考えるかを
類推して、回答するという、外国語を翻訳するような作業を必要とする
教科だった。
「普通の人」と書いたが、明確に、それを意識していた訳ではない。
ただ、そのまま、答えたら、正解しないということが分かって来ていた。
つまり、自分に、国語の能力はないという自己評価を下していたのだと思う。

高校二年の国語の教材で、「小林秀雄」が出て来た。
これが、僕の「アウトサイダー」覚醒のトリガになる。

小林秀雄の文章には、いうに言われぬ 中毒性のようなものがある。
世の中に○○というものはない ただ、○○があるだけなのだ。
みたいな、否定して、それに代わる自分がいいたいことをぶち込む。

既成概念の破壊といったら言い過ぎだろうか
疑いもしなかった、当たり前のことを、一旦、それはそのとおりなんだが、
と、一旦、懐疑しておいて、
その前提で、持論、自説を論じる。

その後も、小林秀雄の文章は、読み漁ったが、
その中毒性に僕が嵌らなかったのは、
彼が破壊してくれた既成概念の向こうにある
彼自身と、僕が共鳴しなかったということだと思う。
否定しておいてから、語る彼自身と、
僕とがやはり、違うなと感じていたからだろうと思う。

様様な意匠があるといってくれたこのときは、
感謝しつつ、で、私の提案するデザインはこれ
に、僕は、それ違うなぁ~と思って仕舞う。

ただ、その懐疑精神、僕に、自分とは(自分のデザインは)何なのかと
考えるヒントになったことだけは間違いはない。

大きかったのは、「普通」以外の世界、
「ライ麦畑」の外にも、世界があって、
そこに、いてもいいのだということ
「ライ麦畑」の中にしか世界はなく、そこから外れないようにしなくてはいけない
と、思い込んでいたのだが、そうしなくても、いいのだ。
特に、僕は、元々、ライ麦畑の中にはいなかったのだと気付いたことだろう。

こうやって、「アウトサイダー」論、
みたいな、「普通」の人が、目を顰める、怪しい文章を書いていることが、
そもそも、外にいるということの証明になっていないかと思う。

但し、アウトサイドは、ひとつではない、無数に広がる。
「アウトサイダー」と「アウトサイダー」が、出会ったとして、
共通の興味、言語で共感できる訳ではない。
共感できるのは、「ライ麦畑」の外にいるという境遇だけだ。
別の孤独がある。それは、仕方のないことであるけれども。

「小林秀雄」の文章に出会って、
国語という教科への思いが変わった。
それまで、「正解」があると思っていたが、
国語に「正解」はない、それぞれの解釈があってもいいのだと、
ある意味、解放された。
独自の解釈が、許されてあるということが、その後の、文学への姿勢が変わった。

苦手教科だったが、得意教科とは言わないが、
好きな教科になった。

そして、理系を転向し、大学は、文学部を専攻したという僕の進路を変えてしまった。

「決めたい」という呪縛から解放され、「分かりたい」に舵を切ったといい方が出来るかも知れない。
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