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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (30)

2018年02月22日 11時51分31秒 | 島嶼諸国

  再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (30)

 

   結 び ―フィジー移民失敗の顛末―(2

 

      しかし、111名もの尊い命が失われた。そのフィジーへ移民を周旋した移民会社の負担に対しては、当時「大いに同情を表すべきものあり」、との寛大な見方がなされていたが、一方の死亡した111人の移民とその残された遺族に対する補償は一人当たり50円の弔意金で片づけられていた。

  その他、病床にあった者、何とか生き残って帰国できた者に対しての見舞い金が支給された記録はない。

      一方、現地では81人もの仲間を失い、送還の船中では25人もの死者を弔い、深い傷心を癒やせずに帰国した移民たちに対する見舞金の支給等が行われた記録は残されていない。

 

     フィジーのヴァヌア・レヴ島ランバサのさとうきび農園(プランテーション)で働く日本人移民の引揚げ(帰国)搬送に直接要した吉佐移民会社の経費負担は、凡そ以下の表6に示した通りである。     

 

  表 帰国搬送に要した移民会社の推定負担額(単位:円)

 

 会 社 負 担 の 費 用 項 目

 負 担 費 用 推 定 額

(1)医師派遣費用

3,000

(2)船舶の借用費用等船賃

14,000

(3)弔(吊)慰金(106人分)

(1人当たり50円×106人分) 5,300

(4)社員の出張費等を含めた総計

23,000

 

    出所:入江寅次『邦人海外発展史(上)』(昭和17年刊復刻版)・原書房・1981年3月、134ページ及び今村敏彦・藤崎康夫編著『移民史[Ⅱ]』・新泉社・1996年3月、222頁から整理し、作成した。(1)~(3)と(4)社員の出張費等(明記はない)含めて23,000円。

  (注)(3)は『佐久間貞一小傳』に依拠している。「保険金」説も有力だが、佐久間(日本吉佐移民合名会社)が(死亡)保険業務に携わった証左となる資料がなく、本稿では『前掲書』に依拠した。保険金の支払いならば死亡者111人全員に支払われるべきだろう。弔慰金ならば、本人の亡骸を他国の土に葬し、また海洋に葬し遺族の許に帰せなかったことに弔慰を捧げたと解釈できる。

 

 

      なお、上記の表(3)にある吊(弔)慰金算定の基準についてであるが、会社が支払った弔慰金は一人50円である。吊(弔)慰金としてこの金額が妥当性を有していたものなのかどうか、また一人50円と言う金額が大きいか小さいかは、現在のわれわれの生活観からは判断がつかない。

     今から数えれば凡そ123年も昔(明治27(1894)年)になるが、出稼ぎ移民としてフィジーに渡った日本人305人が、厳しい自然条件の中で、さとうきび農園で過酷な農作業に従事し、酷い日常生活を強いられていたことなど、現在では移民史に記されることさえ少ない。

  ところで、彼ら出稼ぎ移民に支給された1月当たり賃金(衣食住費は雇い主負担であったが)は、英貨で27シリング、邦貨換算で約10円だった。

  それらを前提に、現地死亡者に対する吊(弔)慰金については、現地に滞在し農作業に従事した期間約5か月分に見合う金額、それを基準として積算したのではないかと推測されるのであるが、豊原又男の『佐久間貞一小傳』をはじめ、フィジー移民に関する文献を精査しても、それを裏付ける確かな記述はなく、支払われた吊(弔)慰金の積算の根拠は定かではない。

  また、フィジーのヴァヌア・レヴ島ランバサのさとうきび農園(プランテーション)から帰国した契約移民がそれぞれの郷里に戻った後に見舞金が支給された事実もなく、彼らのその後の動向についても必ずしも明らかではない。

 

  かくして、明治27(1894)年に英領フィジー(ヴァヌア・レヴ島)へ渡った日本人出稼ぎ移民の集団移住は完全に失敗に終わったのだが、その原因が契約証に記載されていた食材の支給が契約証通り行われなかったことが考えられる。

  その結果、白米偏重の食の摂取が日常化し栄養のバランスを欠き栄養障害(ビタミンB1不足)をもたらし重い脚気を患う者が続発したこと。加えて飲み水は溜め置きの雨水であったことなどであったため酷い赤痢に罹り命を落とした者も多く、前述したように、全体で111人もの病死者を出すことになったものと考えられるのである。

 

  契約証通りの食材が支給されていなかったことについては、現地の移民の一人(多分「現地での移民のまとめ役ないしは世話役:人夫長?」であろう)正化唯雄から土肥積宛に差し出された書面でも、前述の山中政吉の書面と同じような内容の事柄が記されていた。

  すなわち、現地に到着したが「食スルモノ無之四石斗リ米ヲ便ニ積上候分ヲ焼キ漸ク廿九日午后四時頃ニ少しシヅツ食シ候モ菜物ハ無之七日之間塩斗リニテ折々カンヅメノ牛肉少シ宛相貰候モ香ヒ悪敷テ食スルモマレナリ尚今日ニ至ルモ定約通リ之賄ヒハ無之昨日ヨリ日本ノボラ魚ノ乾物壱疋ヲ十人ニ分チ」云々(『広島県移住史』(資料編522ページから引用、原文通り。)とある。

  このことからもフィジーに出稼ぎに渡った日本人移民の暮らしの酷さが窺えるのである。

 

  因みに、脚気病について言えば、鈴木梅太郎のオリザニンの発見21)は1910年であり、同年12月の学会報告を経て、『東京化学会誌』に鈴木の論文「糠中の一有効成分に就いて」が発表されたのが1911年1月だったから、そのずっと以前から海軍軍医総監高木兼寛の「白米偏重が栄養障害をもたらす」とする指摘22)はあっても、栄養成分ビタミンB1の発見までにはなお多くの年月を待たねばならなかったのである。

  前章においても言及したが、日本で交わした契約証通りの住居や食材の支給が行われなかった事実は、現地で日本人移民の世話をする監督者?から土肥積代理人宛の書簡からも窺い知ることができる。

 

  日本人を雇い入れた耕区主に対して、日本側のエージェントでもある吉佐移民会社が、応募した移民が契約証を交わした相手、耕区主側のエージェント(すでに述べたように、1880年のゴードン政策によってフィジアン以外土地の所有を認めない法律(Native Lands Ordinance)が制定されているので外国企業であるバーンズ・フィリップ社が耕地を所有することは出来ない。

  したがって、フィジアンから借地をしてプランテーションを開発し実質的な経営者であったのではないか、その可能性がなかったとは言えないのである。)であったバーンズ・フィリプ社に対してきちんと契約内容が説明されて、それがさらに同社から耕区主にまで(契約証の内容が)伝わっていたのかどうか、そこに疑念が生じるのである。

 

  バーンズ・フィリプ社の所在地は、オーストラリアのシドニーであり、またCSRの本社もシドニーであり、フィジーではない。当時、フィジーに在ったのはCSRの(フィジー)工場であったに過ぎないのである。

 

  ところで、前回(29)に掲載した表【資料②】に記載されている食材品目を提供することが、移民との契約であることが耕区主にどこまで正確に伝わっていたかは定かではない。

 

  日本において契約証は和文と英文各2部作成されていたことは『平賀家文書』にある「関係書類」からも明らかだが、要は英文の契約証の内容が耕区の雇用主にいかなる経路・手段で伝えられていたのかは不明である。

  推測の域を出ないのだが、もしバーンズ・フィリプ社が農地所有者(フィジアン)から借地し、ヴァヌア・レヴ島ランバサにさとうきびのプランテションを開発して、新たに耕区主を雇い、栽培させていたと仮定しても、その耕区主に対して、同社から現地に社員を派遣し、吉佐移民会社の仲介で個々の移民と交わした支給する食材についての契約内容を正確に説明出来たのではないか、そう考えられなくはないのである。

  CSRのランバサ工場建設に伴う土地購入を裏付ける1893年5月8日付領収書、CSRの創業者で当時の社長(GM)だったE.W.Knoxが、土地購入を許可して打電した電報のコピーも存在するが、資料としての掲載は本稿では割愛する。

  なお、E.W.ノックスGMがランバサ工場を建設するに伴って用地の買収許可を与えたのは、彼が電報を発信した日付(電信局が受付た受領印)から、1893年3月16日であったと推察できる。

  外国企業がフィジアンから土地を購入し、製糖工場及びさとうきび農場を入手していたこと、さらにはランバサのさとうきび栽培の耕区主が実際にはCSRのランバサ工場ではなかったか、と上掲した2点の資料から推測することも可能ではないかと考えられるのである。これらの2点で十分だとは言えないが、
  ANU College of Asia & the PacificPacific Research Collection の中には、次のような書面の文章の1節も存在している。

 

  すなわち、”CSR bought land from the Fijians for the sugar cane farms and mills. ”Many Fijians were trained by the Company to work in the sugar industry through training farms like the CSR's training farm for Fijian youth at Drasa, Lautoka, which operated from 1938 to 1967.

 

   要するにさとうきびの耕地も購入していることを示すもので、フィジアンは、耕地を所有しているが、その耕地から得られるさとうきびの収益が低く、CSRに耕地を買ってくれと強要する例も多かった。しかし、CSRが簡単に耕地を購入せず、巧妙な駆け引きが行われていたようにも推察できる。

 

   「結び」の内容を、大分端折ってしまった。なぜフィジーのさとうきび農園の耕区において、契約通りの『食』の支給がなされていなかったのか、本稿ではその点を明確にする裏付けについて、何ら究明するに至っていない。この厄介な問題の解明は、今後に積み残してしまった。むしろ積み残した問題の方が重要で、それにどう取り組むかが、フィジー出稼ぎ(日本人)移民研究の今後の課題であると考えている。

  おそらくこの問題は、フィジーにおけるインド人移民の待遇問題とも関連を持つので簡単にはすまされないであろう、と思っている。

  なお、文中の「 注)」、及び主な参考文献は、次回(31)で纏めて掲載予定。