町のピアノ教室~La musica porta la Felicità~

2014/11/22生徒さんと保護者の方へ向けて発信開始♪
ブログタイトルの意味は”音楽は幸せを運んでくる”です

憾うらみ(滝廉太郎1879~)~らららクラシックより~

2019年08月24日 | 名曲の部屋

『音楽の原点』

*東京生まれで12歳のとき大分竹田に移り住む

*高等小学校の時に学校のオルガンで、教師から指導を受ける

*15歳東京音楽学校に入学しピアノに初めて触れる

*17歳の時初めての演奏会

『才能豊か』

*ピアノ以外にもフルートや歌にも才能をみせた

*その当時求められた軍歌を廉太郎も作曲していたが

興味は西洋音楽へ

『作曲家として花開く』

*日本初の合唱曲→1900年に組曲「四季」を発表

その中の1曲が「花」

*日本初のピアノ伴奏→合唱伴奏の先駆け

『音楽にささげた生涯』

*21歳で男子初の国費音楽留学生としてドイツライプチヒへ行き

旧ライプチヒ王立音楽院へ入学

*しかし入学後2ヶ月の頃、結核に罹り翌年帰国し

故郷の大分へ帰る

*その時に書いた作品が「憾」

この曲を書きあげた4ヶ月後23歳で生涯を閉じる

*生涯に34作品を作り、そのうち2曲がピアノ曲

 

 

 

 

 

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交響詩レ・プレリュード(リスト)~らららクラシックより

2018年04月26日 | 名曲の部屋

人気ピアニストからの脱却

*クラシック界のスーパースターとしての悩み

*カロリーヌ・フォン・ザイン・ウィトゲンシュタイン侯爵夫人からの助言

「ピアニストとしてより作曲家として生きるべき」

 

プロデューサーリストの覚醒

*プロデュース能力に長け、有名交響曲などをピアノ編曲して各地を回った

 

リスト最大の発明交響詩の誕生

*この時代に価値あるものだった「詩」と音楽の融合

*「生きることは死へのプレリュード」

 

もっとわかりやすい音楽を広めたい

*それまでの4つの楽章からできている交響曲を市民にも捉えられやすい

飽きない長さで文学に劣らない作品を目指して作られた

*交響詩の形は、その後の作曲家に力を与えた

「わが祖国」スメタナ

「ツァラトゥストラはこう語った」リヒャルト・ストラウス

「フィンランディア」シベリウス

「魔法使いの弟子」ポール・デュカス

「海」ドビュッシー

「はげ山の一夜」ムソルグスキー

 

リストの演出?表題のトリック

*本来の詩とは別の、より知られている詩人の詩からインスピレーションを得たと発表

 

想像を駆り立てる飽くなき変奏

*表題の大意

無垢な愛は嵐によって遮られ

傷ついた魂は静かな田園で安らぎを求める

しかし人は再び自らのために戦いへと立ち上がる

「愛」「田園」「嵐」「戦い」

*主人公「ドシミ」(1つ下がって4つ上がる)音形の変化でテーマを表現

 

 

 

 

 

 

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ピアノ協奏曲第1番(ショパン1810~1849)~らららクラシックより~

2016年10月15日 | 名曲の部屋

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第1番

『世界一のコンクールに待つ”ラスボス”』

*ワルシャワで開かれるショパン国際ピアノ・コンクールの本選課題曲

*ピアノ主役の協奏曲で

「ピアニストのピアニストによるピアニストのための協奏曲」

 

第2章

『ピアノ協奏曲が描く”青春の痛み”』

*当時のポーランドは3つの国が統治していた

その中で混乱を避けるため、デビューコンサートはウィーンで開き大成功

楽譜出版を持ち掛けられて、わずか2年(19・20歳)でピアノ協奏曲2曲を書き上げる

*その頃同じ音楽院のソプラノ歌手コンスタンツィア・グワドコフスカに恋心を抱く

*ポーランドを離れる告別演奏会でピアノ協奏曲第1番を発表

*祖国ポーランドとコンスタンツィアへの想いを込めた曲は青春の痛みそのものだったかもしれない

 

最終章

『ピアノで紡ぐ青春の揺れる心』

*メロディーはリズムで緩急を付け

左手伴奏の17回の和音でドラマチックに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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月光(ベートーヴェン)~らららクラシックより~

2016年04月30日 | 名曲の部屋

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第1章

『月の光にみせられて』

*夜道を歩くベートーヴェン。盲目の少女が弾くピアノ曲にひかれて、少女の前で曲を披露。

その「月光」と言う創作物語から月光の愛称がついた

*ベートーヴェンは「幻想曲風ソナタ」と書いている

*ドイツの詩人で音楽評論家レルシュタープが第1楽章を聴いて

「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と例えたことからとも言われている

*身分違いの恋人ジュリエッタ(18歳)に贈られた曲

その結末の儚く切ない状況も月光の愛称を後押しした

 

第2章

『常識をくつがえせ』

*ベートーヴェンはこの曲を

『幻想曲風ソナタ』sonata quasi una fantasiaとして発表

この「即興」とは即興演奏(自由な発想)の意

*第1楽章のAdagio sostenute(ゆっくりと音を切らないように)は当時はありえないことで

一般的にはAllegro(速く)で軽快に弾くのが決まりだった

また第1楽章はソナタ形式で

提示→展開→再現→終結が常識だったが

月光はソナタ形式を第3楽章にしている

*このころ耳の異常に悩まされ、翌年1通の遺書を書いている

*ピアノソナタは40年書き続けていた

 

最終章

『冷静と情熱のはざまで』

*第1楽章冒頭3連符の分散和音と嬰ハ短調で夜の水辺をイメージ

*第3楽章pから一転sfの絶妙なコントラストでドラマを作りだしている

 

♪「0p」=出版したときにつけた番号

(ベートーヴェンは138番まである)

「WoO」=出版したが「Op」の番号を付けなかった作品で

Werke ohne Opuszahl(作品番号なしの作品たちの意)

(ベートーヴェンには205曲あり「エリーゼのために」もその中の1曲)

 

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スラブ舞曲作品72の2(ドボルザーク1841~1904)~らららクラシックより~

2016年02月06日 | 名曲の部屋

3つのキーワード

第1章

『運命の出会い』

*スラブ舞曲は第1集と第2集各8曲で、これは第2集の2曲

*チェコ生まれでコツコツと曲を書き貯め

1874年(33歳)奨学金制度に応募し

その時審査員だったブラームスの

「このチェコのきらめく才能をなんとか世に出さなくては!」と

出版社に紹介した

*この当時、異国趣味が流行(ブラームスはハンガリー舞曲の出版で大成功)

そこでドヴォルザークも流行にのり、チェコの民謡を元に

ピアノ連弾の作品「スラブ舞曲第1集」を発表し大ヒット

続く第2集ではチェコだけでなく周辺のスラブ地域(ポーランド・スロバキア・ウクライナ)の民謡を取り入れ

バラエティー豊かな作品を作り上げた

*さらにオーケストラ用に編曲

 

第2章

『スラブの心』

*大衆的な音楽ではなく芸術性の高い音楽を作りたいとの思い

*その頃、オーストリアからの独立を求め民族運動が活発化

チェコの芸術家たちは郷土愛に満ちた作品を発表して運動を後押し

そんな中にあって、ドイツの出版社から楽譜を出し

活躍の場を外国に求めていくドボルザークは

ふるさとを捨てた裏切り者と言われかねない状況にあり

第2集の発表は第1集の8年後

 

最終章

『切なさにはワザがある』

*シャープ(♯)を使った隣同士の半音=♯ドンできゅーん

*メジャー(長調)とマイナー(短調)の繰り返し

 

♪ドボルザークは、イギリスやロシアなど活躍の場を広げ

アメリカの音楽院院長を務めたのち

ふるさとチェコのプラハ音楽院の院長となる

 

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