神社の世紀

 神社空間のブログ

湧泉信仰の語り伝え(2/2)【粒坐天照神社(兵庫県たつの市龍野町日山)】

2012年12月31日 15時52分28秒 | あまてるみたま紀行

★「1/2」のつづき 

 的場(まとば)山は当社創建の地である。社伝によると崇峻及び推古天皇の御代、この地に伊福部連駁田彦(いふきべのむらじ・ふじたひこ)という長者があり、その邸の裏によく茂った杜があったという。 

 推古天皇2年正月1日、この杜の上に異様に輝くものが現われる。やがてそれは容貌端麗な童子の姿となり、次のように神勅した。「我は天照国照彦火明命の使である。汝が正直、誠実なのに感心して、こうして天下った。新しい神社を造営して奉祀せよ。また、ここに種稲を授ける。これを耕作すれば里全体が豊かに稔り、永く栄えゆくであろう。」── 駁田彦が神社を奉戴して稲種を耕作すると、一夜にして1千頂もの水田ができた。またこの水田に授かった種稲を耕作すると一粒万倍したという。以後、この土地は播磨の穀倉地帯となり、米粒を意味するイイボの郡と呼ばれるようになった。駁田彦を始め人々はこの神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め、今日に到ったという。 

 この駁田彦の邸の裏にあった杜が当社の創建の地であり、的場山中腹で現在、天津津祀神社が祀られている場所である。この山はどうやら当社の神体山らしいが、『日本の神々』にはその画像が掲載されている。下画像の左端のほうに写っている山がそれで、見れば分かる通り、円錐形をしたいかにも神体山らしいフォルムの山である。とくに疑う理由もないから、以前訪れたときも当然、的場山とはこの山のことであると信じ込んでいた。ところが今回、ちょっと気がかりなことが出てきたのである。というのも、カーナビの画面では的場山々頂に携帯電話か何かの鉄塔があるふうに表示されるのだ。それでゆくとこの山は、『日本の神々』の画像にあるそれではなく、下の画像中央の鉄塔がある山ということになる。そこで、近くにいた地元の人に聞いたところ、果たして的場山は鉄塔の立っている山のほうであった。念のため、円錐形をした山のほうが的場山であるということはないか、と聞いたが、返ってきた返事は、「あれは一の丸、二の丸というのだ(キッパリ)。」というものだった


的場山遠景(西から)

 こうしたことを書くのは、単に『日本の神々』に掲載されていた画像が間違っていた、ということを言いたいだけではない。こうした勘違いも理由のないことではないと思われるからなのである。
 ふつう神体山というと対象形をした秀麗なフォルムの里山として、ものの本などでは説明されている。また、大体そういう本のそういう箇所には、大和の三輪山とか近江の三上山の画像が一緒に掲載されることが多い。これらは「いかにも」といった感じの対象形をした神体山なのである。おそらくこうしたことから神体山といえば、すべてがこうした山容の山であるという通念が広く浸透していることだろう。そしてその場合、そうした通念からいうと本物の的場山より『日本の神々』の画像に写っている山のほうがよほど神体山らしいのである(同書がこの山を的場山と取り違えた理由はこれだろう)。だが、各地の古社を巡っていると、的場山のようにとりたてて非凡なところのない山容の神体山に出合うことも決して希ではない。古代人が神体山を祀る際、どのような基準でそれを選んでいたのかというのはけっこう謎な部分もあるのだが、おそらくこの山が神体山に選ばれた理由としては、天津津祀神社の傍らにある聖泉のことが考えられる。


的場山


山頂の現状


『日本の神々』に的場山として紹介されていた山(左)

こっちのほうが神体山っぽい


揖保川を挟んで東側から撮影した的場山

 さて、その天津津祀(あまつつみ)神社である。何となく、古宮神社に行けばそこまで登る道の看板があるのではないかと思って下調べをしてこなかったのだが、現地にゆくとそんなものはなかった。そこで一度、粒坐天照神社に戻って社家の家でそれを聞くことにした。ところが来意を告げると宮司は留守をしており、その御母堂らしいかなり年輩の女性が応対してくれたのだが、天津津祀神社への道はよく分からないとのことで恐縮されてしまった。神社のしおりに簡単な地図が載っているから、と奥からそれを持ってきてもらったのだが、これではちょっと、、、(T_T)。


「しおり」の地図

 ということで自力で捜すことになった。『式内社調査報告』にある地形図では、古宮神社の前を通る道が的場山の奥まで林道のようになって続いている様子が認められる。それを奥までたどれば行き着くのではないかと思って試してみたのだが、この道は現在では廃道になっているらしく、途中で藪になって途切れてしまい、探索もそこで打ち切りにしなければならなかった。古宮神社の近く戻って途方に暮れていると、すぐ近くで耕作していた70歳くらいの老人が、いかにもこういうことを知っていそうな感じの人である。果たして聞いてみると天津津祀神社の場所をご存知であったが、そこまでの道順を教示しようとして「うーんと、あそこは、どう言ったらいいか、、、」と言いよどんでいる。氏神の伝承とか旧社地などについて地元の人に聞くときは、相手をリラックスさせるためにも、少なくとも最初の5分くらいは話を遮ったりすることはNGなのだが、この時はすでに日が落ちかかっていて、そんなことに構っていられないので、こちらから話を向けてみた。「的場山のアンテナ鉄塔へ登る管理用道路の途中に、入り口があるのではないですか?」「あ、そうそう。」── やっぱりそうか!そんな気がしていたんだよ。ということで早速、そこに向かう。この管理用道路は入口にゲートがしてあり、一般人は車ではその奥に進入できない。入口に車を駐め10分くらい小走りに奥に進むと、さっきの方の話の通り道の脇に天津津祀神社の入り口を表示した石標があった。そこから山道を2~3分も登ると石鳥居があり、当社の社地に簡単にたどり着いた。
 なお、上述の石標や石鳥居の扁額などには全て「天祀神社」とあり、「天津津祀神社」と合わせて当社には現在、2つの呼び名があるらしいが、ここではいちおう後者に統一しておく。


道路の傍らにあった石標


ここから入って


ちょっとした山道を登ると、


2~3分で社頭に着く

 
社頭
Mapion

 天津津祀神社の社地はそれほど広くなく、5アール程度だろう。いくつかの石造物を除けば、境内にある主な施設は石を組んで作った本殿と木製瓦葺きの簡素な拝殿だけである。ふきんの植生は凡庸で、的場山の山中でならどこでも見かけるような灌木が茂っている。かつては鬱蒼とした原始林に覆われていたのだろうが、応永の乱による焼き討ちの際、失われたものと思われる。現在では拝殿はかなり痛みが目立つ状態になっているが、それでも社地全体は定期的に管理の手が入っている感じがした。


拝殿


同上


かなりふんいきあります


全景

 本殿は自然石をコンクリを使って組んだもので、大きくて頑丈そうだ。いささかシュールでもある。


本殿


同上


同上


ディテール


同上
 

 拝殿手前に石碑のように立てられた2枚の自然石があり、注連縄がしてある。「しおり」に磐境とあったものだ。 


磐境


同上(後ろから)
 

 現在の本殿から2~30mしか離れていないところにかつての社殿のあった場所があり、今でも石壇とそこに取り付く短い石段が残っている。


旧社殿の石壇跡
 

 そしてそのすぐ傍らにタテ2m、ヨコ3m程度の楕円形の石組みがあり、その中に苦労して探し求めた湧水があった。これこそ古代人が天照国照彦火明命の祭祀を行った聖泉なのである。水は現在、この石組みの底に20cm程度溜まっているだけだが、それでもかすかな細流となって石鳥居があるほうに流れて行っていた。「こんな場所によく湧水があるな。」というような場所である。しかもふきんにはスギやヒノキが多く目に付く。こういった用材林は根の保水力が弱く、大量に植林されると近くにある沢や泉を枯らしてしまう。だが、かつてこの社地ふきんを原生林が覆っていた頃は、この泉からこんこんと水が湧き出ていたに違いない。往時が偲ばれる。 


湧水
 


同上


石組みの奥壁からは水がしみ出ている
 


かすかな細流となって社頭のほうに
  


全景
 

 他に特筆すべきものとしては、低い石を連ねて社地の周囲に巡らせた石列のことが挙げられる。この石列は本殿の背後では山の斜面の上部を半円形に取り巻き、そこから下りてくると社殿の載った石垣と一体化するなどして、社地全体を神籠石状にぐるりと取り囲んでいた。この場所を聖別する目的で造られたことは間違いない。


神籠石(南側)


本殿背後の斜面を半円形に取り巻く神籠石


西側では基壇の石垣と一体化する